連載:「寄るな危険☆大樹の陰は落雷注意――理科系な社会のバブル顛末記」

第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

11.いいもの見させてもらいました

根岸徹也は、芝通の情報システム部のコンピュータルームで、基本設計に取り組んでいた。来期から従業員の出退勤管理システムが変更されるので、構想を練っている。根岸は社内向けの情報システム開発が仕事である。従業員の出退勤時間の管理、端末からの会議室予約、そういったシステムの構築をしている。
1995年、まだ巷ではインターネットという言葉の定義さえ正確に理解されていなかった頃、芝通は電機メーカーの多くがそうであるように、エンジニアに一人一台パソコンをあてがい、環境を整備していた。社内文書は、電子メールでペーパーレス。海外技術資料の収集はインターネットを使って即入手。既に、そういったことが実現されていた。
コンピュータルームには、巨大なホスト・コンピュータが設置されている。電力消費量がピークになる八月、電力会社の供給が追いつかなくなるのを防ぐため、フロアーの冷房を強制停止することがある。そんなときも、ここだけは、いつでも室温が二十一度に保たれているので、暑がりな根岸のお気に入りの場所になっていた。
根岸は、神楽坂の坂下にある大学の工学部を卒業し、1994年に入社した。工学部には、クラスに数名、いわゆるオタクと呼ばれる人種が生息する。汗かき、丸みを帯びた体型、メタルフレームのメガネ着用、オーディオ・ラジオ・パソコン等手作り経験あり、etc. これらのことに二つ以上あてはまることが多いのだが、根岸は全て当てはまっている。学生時代はMacを使い、一般人が聞いたら宇宙語としか思えない言葉を使って仲間と会話をし、学食でかけそばを食べる毎日を送っていた。大学から歩いて一分のところにあるディスコには一度も入ったことがない。まして、坂の上まで登って歴史ある街並みを探索することもなかった。が、根岸は、そのもったいなさには気づいていない。

八月下旬、根岸の上司は夏休み休暇中である。そのあいだに、根岸は宿題を言い渡されていた。エンジニア各個人ごとのコンピュータの使用状況を把握するというものである。部署によるばらつきはないか、休眠しているものはないか、そういったことを調べるのである。はっきりいって、地味な仕事である。これをやったからといって、評価が上がるようなものではない。が、いわれたことは、とりあえずこなすのがサラリーマン。というわけで、根岸は取り組んでいたのだった。

根岸は、画面を凝視していた。何度見直しても数字が合わない。各個人ごとの使用時間の合計が、実際にコンピュータが使われた時間より少ないのだ。端数の四捨五入もチェックした。合計を出すときに、抜け落ちたものがないか、一台ずつチェックした。が、どれも原因ではない。根岸はキーボードを叩くが甲斐もなく、結局、納得のいく原因を見つけ出すことはできなかった。

*

関口ルミ子は、コンピュータの電源を入れる。いつもの朝と変わらない。が、いつもと違うものが一つ。スクリーンセーバーが変っていた。
『Happy birthday!』
大きな文字が、画面中央で点滅している。八月二十九日。ルミ子の誕生日である。誰がこんなメッセージを表示させたのであろうか? ルミ子の頭には、情報システム部の根岸の顔が浮かんだ。大学の後輩でもある根岸なら、こんな悪戯もやりかねない。ま、それはともかく、誕生日を祝われるのは悪い気がしないものである。
昼休み、ルミ子は根岸の姿を見つけ、礼を言う。
「はぁ? 僕じゃないですよ。関口さんの誕生日も知りませんし」
「じゃあ、誰?」
根岸の表情が険しくなる。
「最近、気になることがあるんですよ。調べてみますから」
ルミ子はなにが起きたのか把握できず、足早に机に戻って行く根岸を見送るだけだった。

*

九月一日。夏期休暇が明けた根岸の上司、湯浅重雄は出勤したばかりの根岸の姿を見つけるなり、駆け寄ってくる。
「大変なことになった」
湯浅は泡でも吹きそうな顔をして、コンピュータの画面を指差す。
「課長、落着いてくださいよ。いったい、なにがあったのですか?」
根岸は、湯浅が指差す画面に目をやる。すると、そこには――。
『いいもの見させてもらいました』
大きな文字が点滅していた。根岸は言葉を失い画面を眺める。頭の中が猛スピードで回転しているのが自分でもわかる。
「ハッキングですか?」
根岸の言葉に湯浅は頷く。何者かが、芝通のコンピュータに侵入して、保存してある情報――従業員の生年月日、住所、年収、上司の評定まで、あらゆること――を覗き見たのだ。
当時、芝通のセキュリティーに対する意識は低かったわけではない。ただセキュリティ情報も、ノウハウも蓄積される途中ということもあり、各社とも、大なり小なりウイルス感染、ハッキングなどの被害にあっていた時代であった。

「盗み出された従業員情報が高値で売買されたなんてことになったら、責任問題になるしなぁ......」
これから起こり得る最悪のシナリオが二人の頭を駆け巡る。
「それより僕が心配しているのは、技術情報ですよ。何億というお金をかけて開発した技術が他所に回ったら......」
さらに、根岸としては、芝通がハッキング被害にあったなんて、世間に知れ渡るのだけは避けたいのだ。ハイテク企業――しかも大手電機メーカー――のイメージダウンになる。いままで、セキュリティーに手を抜いていたわけでもないし、ノウハウもなかったわけじゃない。
『いいもの見させてもらいました』
文字は点滅を繰り返していた。
「なんでわざわざ証拠になるようなメッセージを残すんだろう?」
湯浅は腕を組んでいる。
「大学時代の友達で、ハッキングが生き甲斐っつー奴がいるんですけど、そいつに会うと、『どこどこのセキュリティーを破った』とか、『あそこはチョロイ』、『オープンしたてのサイトが狙い目』などなど、自慢話ばっかり聞かされるんですよ。ハッカーと呼ばれる人種は、厳重なセキュリティーをかいくぐることが目的のようですね。セキュリティーを破るには、コンピュータ知識とスキルがないとできませんからね。守る側とのプライドをかけた戦いみたいなものがあるんでしょうね。だから、侵入したことをメッセージで残すんですよ。勝利宣言ですよ、これはッ!」
湯浅は、「理解できない」と首を横に振った。
掲示板荒しや他人のコンピュータに侵入してファイルを壊す、いわゆるクラッカーは別だが、ハッカーと呼ばれる人種は、破壊行為は行わない。あるアメリカ人のハッカーは、クレジットカードの会員番号を何件も読取ったが、一件も自分のために使わなかったという。とはいえ、見知らぬ他人に家の鍵をこじあけられて喜ぶ人はまずいない。
「セキュリティー強化プロジェクトが必要だな」
湯浅は、根岸の仕事が増えることを告げた。

その後芝通では、組織をあげてセキュリティー強化がなされ、二度と被害に遭うことはなかった。


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