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更新日:2021年4月2日

麻布の坂

麻布地区にある坂の名前と由来の一覧表です。

坂名

由来

所在

どうげんじざか
道源寺坂

江戸時代のはじめから、坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂または道源坂と呼んでいた。

六本木一丁目3番〜六本木一丁目4番

おくみざか
御組坂

幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。

六本木一丁目5番〜六本木一丁目7番

いちみざか
市三坂

明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。

六本木三丁目〜六本木四丁目

なだれざか
なだれ坂

流垂・奈太礼・長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。

六本木三丁目2番〜六本木三丁目4番

たんばだにざか
丹波谷坂

元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。

六本木三丁目5番〜六本木三丁目6番

よせざか
寄席坂

坂の途中の北側に、明治から大正3年にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになった。

六本木三丁目4番〜六本木三丁目5番

いもあらいざか
芋洗坂

正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが、六本木交差点への道が明治以降にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。

六本木五丁目〜六本木六丁目

うどんざか

饂飩坂

天明年間末(1788)頃まで松屋伊兵衛という、うどん屋があったために、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。

六本木五丁目1番〜六本木五丁目2番

とりいざか
鳥居坂

江戸時代の半ばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688〜1703)ごろ開かれた道である。

六本木五丁目11番〜六本木五丁目12番

ながさか
永坂

麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。

六本木五丁目〜麻布永坂町

おたふくざか
於多福坂

坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下がったので、顔の真ん中の低いお多福面のようだと名づけられた。

六本木五丁目13番〜六本木五丁目14番

えのきざか
榎坂

江戸時代より前の古街道を示す榎があったと推定される。坂下から東京タワー方向へ登る永井坂を榎坂と記す資料もある。

麻布台一丁目9番〜麻布台二丁目3番

ゆきあいざか
行合坂

双方から行合う道の坂であるため行合坂とよんだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。

麻布台一丁目4番〜六本木三丁目3番

さんねんざか
三年坂

いつの頃よりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか、定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではありますが、すでにこの坂があり、のち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ、同じ名前の坂が他に数箇所あります。

麻布台一丁目7番〜麻布台1丁目3番

がんぎざか
雁木坂

階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたことから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く。

麻布台一丁目7番〜麻布台一丁目9番

おちあいざか
落合坂

我善坊谷へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。

麻布台一丁目1番〜麻布台一丁目4番

まみあなざか
狸穴坂

まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。 麻布台二丁目〜麻布狸穴町

うえきざか
植木坂

この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。 麻布台三丁目4番〜麻布永坂町

ねずみざか
鼠坂

細長く狭い道を、江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあったといわれる。一名鼬(いたち)坂で、上は植木坂につながる。

麻布狸穴町〜麻布永坂町

かわらげざか
土器坂

この辺りに土器(かわらけ)職人が住んでいたので坂名となった。また、渡辺綱が、ここで買い求めた馬かわら毛で名馬だったからという説もある。

東麻布一丁目3番〜東麻布一丁目4番

せんだいざか
仙台坂

坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったところから、その名に呼ぶことになった。

元麻布一丁目〜南麻布一丁目

だいこくざか
大黒坂

大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。

元麻布一丁目1番〜元麻布一丁目2番

いっぽんまつざか
一本松坂

源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来、植えつがれている一本松が、坂の南側にあるための名である。

元麻布一丁目3番〜元麻布二丁目11番

くらやみざか
暗闇坂

樹木が暗いほどおい茂っていた坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。

元麻布一丁目3番〜元麻布三丁目12番

たぬきざか
狸坂

人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。 元麻布二丁目11番〜元麻布三丁目13番

しちめんざか
七面坂

坂の東にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。

麻布十番二丁目7番〜麻布十番二丁目8番

ぜっこうざか
絶江坂

承応(じょうおう)2年(1654)、坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変った。

南麻布二丁目〜南麻布三丁目

やっこざか
奴坂

竹ヶ谷(たけがやつ)の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。

南麻布三丁目4番〜南麻布三丁目9番

やくえんざか
薬園坂

江戸時代前期、坂上の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。 南麻布三丁目10番〜南麻布三丁目13番

しんざか
新坂

新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは、明治20年代と推定される。 南麻布三丁目19番〜南麻布四丁目11番

なんぶざか
南部坂

有栖川宮記念公園の場所が、赤坂から移ってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂。) 南麻布四丁目〜南麻布五丁目

きのしたざか
木下坂

北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。 南麻布五丁目7番〜南麻布五丁目8番

あおきざか
青木坂

江戸時代中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。 南麻布四丁目10番〜南麻布四丁目11番

しんふじみざか
新富士見坂

江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治末大正ごろに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。 南麻布四丁目5番〜南麻布四丁目10番

かすみざか
霞坂

明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治20年代に開かれて霞坂と呼んだ。 西麻布一丁目8番〜西麻布三丁目20番

こうがいざか
笄坂

坂下を流れていた笄川の名からついた付近の地名によって、こう呼ばれるようになった。 西麻布二丁目〜西麻布四丁目

おおよこちょうざか
大横丁坂

江戸時代、この付近を俗に大横丁と呼んでいたことからこの名がついた。富士見坂とも呼ばれていた。

西麻布三丁目16番〜西麻布三丁目17番

ほうじょうざか
北条坂

坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったために、この名がついた。

西麻布三丁目〜南麻布五丁目

てっぽうざか
鉄砲坂

江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた。

西麻布三丁目12番〜南麻布五丁目2番

こんやざか
紺屋坂

こうやざかとも呼ぶ。この坂付近に紺屋(染物屋)があったのでこう呼んだ。また江戸時代、坂のがけ下がごみ捨て場だったことからごみ坂ともいった。

西麻布三丁目5番〜西麻布三丁目6番

ほったざか
堀田坂

江戸時代には、大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっていた。 西麻布四丁目8番〜渋谷区の境

うしざか
牛坂

源経基や白金長者の伝説のある笄橋に続く古代の交通路で、牛車が往来したためと想像される。 西麻布四丁目10番〜西麻布四丁目11番

注)麻布地区にある坂のすべてではありません。

青文字の坂名は、麻布未来写真館で作成したパネルにリンクします。

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