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更新日:2016年9月30日

麻布地区の旧町名由来一覧

麻布地区の旧町名由来一覧です。

旧町名

由来

あざぶいいぐら
麻布飯倉町一丁目〜六丁目

飯倉というのは古くからある地名です。昔伊勢神宮(いせじんぐう)の直轄領である屯倉(みやけ)(役所・倉・水田を含む)を置いた跡なので、この名が起こったといわれています。
かつては、飯倉村と呼ばれていましたが、江戸時代以降、虎ノ門から品川宿への道筋にあたっていたことから、おいおい町並みとなり、寛文(かんぶん)2年(1662)に町奉行の支配に入り飯倉町一丁目〜六丁目となりました。

あざぶいいぐらかたまち
麻布飯倉片町

飯倉というのは古くからある地名です。昔伊勢神宮(いせじんぐう)の直轄領である屯倉(みやけ)(役所・倉・水田を含む)を置いた跡なので、この名が起こったといわれています。
飯倉片町の起立の時期については、飯倉町各丁と同じ頃のようです。「江戸図」には延宝(えんぽう)2年(1674)町屋としてみえており、このころから片町と呼んだらしく、片側町であったため飯倉片町というようになりました。

あざぶなかのちょう
麻布仲ノ町

万延(まんえん)元年(1860)の切絵図には、南は飯倉片町(いいぐらかたまち)と、北は市兵衛町(いちべえちょう)二丁目の中間の通路に「中ノ丁」とのっています。飯倉通りと市兵衛町の中間であるから俗に仲之町と呼ぶようになりました。明治5年(1872)それをとって「麻布仲之町」となりましたが、明治11年(1878)、麻布区設置に伴い「麻布仲ノ町」となりました。

あざぶひがしとりいざかちょう・あざぶとりいざかちょう
麻布東鳥居坂町・麻布鳥居坂町

東鳥居坂町と鳥居坂町との間の坂が鳥居坂です。これは氷川神社の二ノ鳥居があったためという説もありますが、江戸時代に鳥居丹波守屋敷(とりいたんばのかみやしき)があったためと思われます。明治5年(1872)に町名を付けるときに坂名をとりましたが、鳥居氏の屋敷の無いほうが麻布鳥居坂町となり、有ったほうが東鳥居坂町となりました。

あざぶまみあなちょう
麻布狸穴町

かつては飯倉村(いいぐらむら)と呼ばれていましたが、江戸時代以降、おいおい町並みとなり飯倉狸穴町というようになりました。狸穴の地名の由来は諸説ありますが、谷あいの土地で古くより木立も繁(しげ)り魔魅(まみ)(今日の動物学上ではアナグマとされており、タヌキと混同されたこともあったといいます。)も住んでいそうな場所であったためと言われています。
また、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(儒学者・1666〜1728)は、採金、すなわち「まぶ」のなまりとし、享保(きょうほう)6年(1721)ごろ黄金のような砂がでましたが、まだ年のたらぬ金だといって掘らなかったと言っています(これは黄色の雲母(うんも)(鉱物の一種)ではないかと想像されています)。この説は独特のものです

あざぶがぜんぼうちょう
麻布我善坊町

町域に我善坊谷があるので谷の名前をとって我善坊町と名付けられました。我善坊谷の由来については、座禅をする僧侶がいたから、あるいは二代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の夫人崇源院(すうげんいん)の火葬の際の龕前堂(がぜんどう)があったからなど諸説があります。

あざぶいちべえちょう
麻布市兵衛町一丁目・二丁目

麻布地区北部の台地上にあった市兵衛町は、慶長(けいちょう)(1596〜1615)のころは今井村(いまいむら)の内であり、その畑地のなかに今井台町という町ができました。今井台町は今井村の台上の意味の町名でしたが、元禄(げんろく)8年(1695)に名主の名をとって市兵衛町と改名しました。

あざぶたんすまち
麻布箪笥町

寛永(かんえい)8年(1631)、幕府にはじめてお御箪笥奉行がおかれ、所属の同心が屋敷を設け町人を置くようになり御箪笥町となりました。明治維新直後、御箪笥町の御の字が除かれ箪笥町となりましたが、明治2年(1869)に麻布谷町(あざぶたにまち)に合併されました。その後分離独立し麻布箪笥町となりました。

あざぶたにまち
麻布谷町

市兵衛町(いちべえちょう)と今井町(いまいちょう)との台地間にある谷の町です。麻布谷町は、元和(げんな)6年(1620)に米良太左衛門(めらだざえもん)が開拓し、はじめ今井谷村といっていたところを今井谷町と改め、その後、麻布谷町というようになりました。

あざぶいまいちょう
麻布今井町

町内に今井四郎兼平(いまいしろうかねひら)の居城があったので、今井というようになったと伝えられています。「小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)」(後北条氏が作成した家臣等の領地を記した帳簿)に今井村の名があることから、古くから開拓され、今井村の範囲も江戸時代の前は、赤坂溜池(あかさかためいけ)(現在の赤坂2丁目・3丁目付近)、虎ノ門、六本木、青山など広い範囲だったようです。

あざぶながさかちょう
麻布永坂町

町の北の方に“長い坂”があるので永坂町と呼ばれるようになりましたが、長坂氏の居住地があったのが由来という説もあります。東京の坂道の名で、一番古く記録にあるのは上野の車坂ですが、その次はこの永坂で、明暦(めいれき)3年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』という江戸初期の地図に「なか坂」(昔は濁点を省略した)と書いてあります。

あざぶみやしたちょう
麻布宮下町

日ケ窪(ひがくぼ)の谷間の一部で、宮村町台地の下にあります。地名は、宮村に氷川神社があった時代から、その「宮の下」という意味で呼ばれていました。麻布村のうちで、八重むぐらの茂る草地でしたが、宝永(ほうえい)6年(1709)に幕府の表坊主及び陸尺(ろくしゃく)などの拝領町屋敷となり、正徳(しょうとく)3年(1713)町奉行の支配となりました。

あざぶみなみひがくぼちょう
麻布南日ケ窪町

鳥居坂の台地の裾(すそ)を北より東へ折れる窪地(くぼち)ですが、南向きのため日当りが良いので日南窪(ひなくぼ)と呼ばれました。太田南畝(おおたなんぽ)(1749〜1823・江戸時代後期の文人)は、かつてここから土人形のはいった桶(おけ)が掘り出されたため、雛(ひな)人形製造地として雛窪と呼ばれたという説を立てています(「一話一言(いちわいちげん)」)。かつては麻布村のうちでしたが、おいおい百姓町となり、正徳(しょうとく)3年(1713)、日ケ窪の南にあたることから麻布南日ケ窪町となりました。

あざぶきたひがくぼちょう
麻布北日ケ窪町

鳥居坂の台地の裾(すそ)を北より東へ折れる窪地(くぼち)ですが、南向きのため日当りが良いので日南窪(ひなくぼ)と呼ばれました。現在の六本木中学校付近には、円形古墳らしい道灌山(どうかんやま)という小丘があったようで、古くから住みよいところだったようです。町内には毛利甲斐守邸(もうりかいのかみてい)があり、この邸内で赤穂浪士10人が切腹しました。かつては麻布村のうちでしたが、おいおい百姓町となり、正徳(しょうとく)3年(1713)、日ケ窪の北にあたることから麻布北日ケ窪町となりました。

あざぶしんあみちょう
麻布新網町一丁目・二丁目

江戸時代初期には古川岸の原野で、明暦(めいれき)2年(1656)の江戸図には、まだ人家は描かれていません。延宝(えんぽう)年間(1673〜1681)には甲府殿(こうふどの)すなわち三代将軍家光の子徳川綱重(とくがわつなしげ)の屋敷(明治以降、一丁目となった部分)と掘留(ほりどめ)と呼ばれる河岸のあき地(明治以降、二丁目となった部分)となっています。
宝永(ほうえい)4年(1707)、芝新網町の一部が御用地となったため、麻布本村分明地に代地を与えられ、町名を麻布新網町としました。また、享保(きょうほう)8年(1723)、町の中央より東の堀留までが御用地となり、麻布坂下町表通りに代地を与えられ、宝永4年の代地が麻布新網町一丁目、享保8年の代地は麻布新網町二丁目となりました。麻布新網町二丁目は沼地で場所が悪かったことから、享保17年(1732)、河岸通りにも代地を与えられ、元文(げんぶん)3年(1738)、享保8年の代地は麻布網代町と町名を改めました。明治維新後、周辺の武家地や十番馬場、飯倉新町などを合併して町域を広げ、区画の変更により江戸時代の麻布新網町一丁目は二丁目に、二丁目は一丁目に含まれました。

あざぶろっぽんぎちょう
麻布六本木町

六本木という地名の由来は、六本の松があったからとも、上杉・朽木・高木・青木・片桐・一柳と木にちなむ名の大名6家の屋敷があったからともいわれますが定かではありません。
明治2年(1869)、飯倉六本木町(いいぐらろっぽんぎちょう)、麻布龍土六本木町(あざぶりゅうどろっぽんぎちょう)、麻布北日ケ窪町代地(あざぶきたひがくぼちょうだいち)、麻布龍土坂口町(あざぶりゅうどさかぐちちょう)、麻布教善寺門前(あざぶきょうぜんじもんぜん)、麻布正信寺門前(あざぶしょうしんじもんぜん)、麻布光専寺門前(あざぶこうせんじもんぜん)、麻布深広寺門前(あざぶしんこうじもんぜん)を合併して麻布六本木町としました。

あざぶみかわだいまち
麻布三河台町

江戸時代の初期に、越前宰相(えちぜんさいしょう)松平三河守忠直(まつだいらみかわのかみただなお)の下屋敷があったため、一帯を三河台と呼ぶようになりました。明治5年(1872)、町名を付けるときに、里俗称である三河台を町名としました。

あざぶもりもとちょう
麻布森元町一丁目〜三丁目

芝森元町は、元和(げんな)年間(1615〜1624)伊藤某以下の者が下谷切手町(したやきってちょう)(現在の台東区)に町屋敷を拝領しましたが、元禄(げんろく)11年(1698)、類焼(るいしょう)して東叡山(とうえいざん)の用地になり、元禄12年(1699)、芝増上寺森之下へ替地を拝領し、増上寺の森の下の意味で芝森元町となりました。
明治5年(1872)、付近の武家地をあわせて、芝森元町一・二・三丁目となりました。明治11年(1878)の区制施行で芝区に入り、明治13年(1880)、麻布区に編入し麻布区芝森元町となりましたが、明治44年(1911)に芝の冠称をとり森元町となりました。

あざぶきたしんもんぜんちょう
麻布北新門前町

明治2年(1869)、芝築地同朋町代地(しばつきじどうぼうちょうだいち)、芝南新門前(しばみなみしんもんぜん)一丁目代地を合併して芝新門前町とし、明治5年(1872)に近隣の武家地を合併しました。芝新門前町は古川の両岸にまたがっており、明治11年(1878)、芝区・麻布区が設置された当初は芝区に属していましたが、明治13年(1880)、古川を境に南は芝区、北は麻布区となりました。翌年、町名を麻布区芝北新門前町とし、明治44年(1911)に芝の冠称をとり北新門前町となりました。

あざぶざいもくちょう
麻布材木町

もともとは、龍土町のうちでしたが、古くより材木商が居住していたため、自然と材木町と呼ばれるようになりました。正徳(しょうとく)3年(1713)に町奉行の支配に入り麻布龍土材木町となります。明治5年(1872)、近隣の武家地を合併して麻布材木町となりました。

あざぶりゅうどちょう
麻布龍土町

龍土町の旧地は、芝愛宕下(しばあたごした)(現在の愛宕・西新橋付近)から西久保(にしくぼ)(現在の虎ノ門付近)あたりです。旧地は入江の浜で、漁人が多く住んでいたので猟人村(かりうどむら)と呼ばれていました。元和(げんな)(1615〜1624)のころ御用地となったので、麻布領のうちに引き移り、村名を龍土と改めたといいますが確かではありません。後に百姓町屋となり町名を麻布龍土町というようになりました。

あざぶしんりゅうどちょう
麻布新龍土町

もともとは龍土町の一部でしたが、明治11年(1878)の麻布区設置に伴い、隣地に龍土町があるので「新」の字を冠し、麻布新龍土町として分離しました。

あざぶさくらだちょう
麻布桜田町

治承(じしょう)年間(1177〜1181)、源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州征伐(おうしゅうせいばつ)の際、鎮守(ちんじゅ)の霞山稲荷(かすみやまいなり)に神領を寄進し、神領の印に田の畝(うね)(作物を作るために、長く土を盛り上げた所)に桜を植えました。その桜が追々繁って自然に桜田とよばれるようになりました。桜田町はもともと霞ヶ関(現在の千代田区)にありましたが、寛永(かんえい)元年(1624)、江戸城御用地になるのに伴い代地を受け移ってきました。

あざぶかすみちょう
麻布霞町

江戸時代には武家地で、町家はありませんでした。明治5年(1872)、武家地を合併して麻布霞町としました。町名は隣町にある霞山稲荷(かすみやまいなり)(現在の桜田神社)に由来します。霞山稲荷は桜田町といっしょに霞ヶ関(現在の千代田区)から移ってきました。

あざぶさんげんやちょう
麻布三軒家町

むかし、麻布村のうちで、村方の頃は家数が三軒だけでした。しだいに家数は増えましたが、三軒家町というようになったと伝えられています。何軒家という地名は、とくに関東に多くあります。

あざぶこうがいちょう
麻布笄町

明治2年(1869)、渋谷長谷寺門前(しぶやちょうこくじもんぜん)、渋谷掃除町(しぶやそうじまち)、麻布裏三軒家町(あざぶうらさんげんやちょう)、麻布桜田町飛地(あざぶさくらだちょうとびち)を併せて麻布笄町というようになり、明治5年(1872)、近隣の武家地を合併しました。町名は町の近くにあった笄橋(こうがいばし)に由来します。
笄橋の由来は、「江戸砂子(えどすなご)」の伝えるところでは、天慶(てんぎょう)の乱(939)のとき、龍川(たつかわ)にさしかかった源経基(みなもとのつねもと)を、前司広雄(ぜんじひろお)というものが関所を設け阻(はば)んでいました。経基は、この時帯びていた刀の笄を証拠に与えて通過しました。のちに、この橋を笄橋と呼ぶようになりました。しかし、今はその川も橋も既にありません。
こうがいの語源については、国府方(こうがた)(村名、「南向茶話(なんこうちゃわ)」)、小貝(こがい)(郷名(ごうめい))又は後悔(こうかい)(以上「紫(むらさき)のひともと一本」)、香貝(こうがい)(村名)鵠居(こうがい)(以上「江戸鹿子(えどかのこ)」)、甲賀伊賀(こうがいが)(組屋敷名・「再版江戸砂子」)等の諸説があります。

あざぶみやむらちょう
麻布宮村町

むかし、麻布村のうちで、宮村と呼ばれたあたりです。宮村の名は麻布村総鎮守(そうちんじゅ)である氷川神社があったので、宮村といいました。氷川神社の起立は明らかではありませんが、中世以前の古社であると思われます。氷川神社の近辺は、寛文(かんぶん)2年(1662)に御用地に召し上げられ増上寺の隠居屋敷となり、社は本村に移りましたが、町名は宮村町のまま残りました。

あざぶひろおちょう
麻布広尾町

地名の起源には種々の説があります。もとは広岡とか、平尾とか、広野とかいろいろいわれていますが定かではありません。現在の渋谷区へまたがる低地一帯は広尾原と呼ばれ、江戸時代の初期の頃は荒野であったと想像されます。しかし、延宝(えんぽう)年間(1673〜1681)頃までに、今の有栖川宮記念公園の入口付近に百姓町屋ができあがっており、それ以外のところは武家地と畑地が半々くらいになっていました。正徳(しょうとく)3年(1713)に町奉行の支配となり麻布広尾町というようになりました。

あざぶしんひろおちょう
麻布新広尾町一丁目〜三丁目

古川ぞいの土地で、天現寺橋から一の橋に至る長い町域をもっています。麻布新広尾町としたのは麻布広尾町の人が移転しはじめたのによるものらしく、番地も広尾町が79番地で終わるのに対し、新広尾町は80番地より始まっています。

あざぶほんむらちょう
麻布本村町

古川の谷へ南面する台地から傾斜地(けいしゃち)にかかっており、古くから住居好適地に選ばれたことは貝塚の存在することでもわかります。阿佐布という地名は当初このあたりを指したものと推定され、本村とは元村すなわち麻布の中心の意味といわれています。

あざぶたじまちょう
麻布田島町

元禄(げんろく)(1688〜1704)から享保(きょうほう)(1716〜1736)にかけて新堀向と俗称したようですが、近傍に三田龜塚(みたかめづか)の代地二ヶ所、西久保天徳寺領屋敷(にしくぼてんとくじりょうやしき)があるのを併せて田島町を名乗ったといいます。そのころ周囲はなお田であったので「田の中の島のような町」との意味だという説もありますがはっきりはしていません。

あざぶもりおかちょう
麻布盛岡町

延宝(えんぽう)年間(1673〜1681)、すでに奥州南部藩南部氏(おうしゅうなんぶはんなんぶし)の邸地となっており、そのまま明治維新まで続きました。明治5年(1872)、盛岡町と命名したのは南部氏が盛岡城主であったためです。

あざぶふじみちょう
麻布富士見町

盛岡町の台地が古川へ望む傾斜地で富士山がよく望見できたといいます。元禄(げんろく)11年(1698)、将軍家の別荘である白銀(しろかね)御殿(麻布御殿、富士見御殿などともいう)ができました。富士見町の名は明治5年(1872)につけられましたが、白銀御殿の別名富士見御殿にちなんだものだといいます。

あざぶさかしたちょう
麻布坂下町

一本松町の台地から古川岸へおりる東の裾(すそ)にあります。何の坂下かということについては、「四方に坂があるから」とするものや、「一本松坂の下だから」とするものや、「大黒坂(だいこくざか)の下だから」などさまざまです。

あざぶやまもとちょう
麻布山元町

麻布山善福寺は、天長(てんちょう)元年(824)の起立と伝えられるので、この付近が早くから開け、家並も古くからあったと考えられます。正式に門前町家として認められたのは慶安(けいあん)5年(1652)のことです。善福寺の門前町として、善福寺門前元町と呼ばれていましたが、明治2年(1869)、善福寺門前元町は麻布山善福寺の山をとって山元町と改称しました。

あざぶしんぼりちょう
麻布新堀町

町は東流してきた古川が北へ屈曲する部分の左岸にあります。「御府内沿革図書(ごふないえんかくずしょ)」によると、江戸時代初期から町域のほとんどが武家屋敷でした。明治5年(1872)、武家地を合併して麻布新堀町となりました。町名は、町の東と南の二方が新堀川(古川)に沿うことに由来します。

あざぶたけやちょう
麻布竹谷町

町名は、古来、里俗に竹ヶ谷(たけがや)と呼んだことに由来します。別に、「ねくるみ村」とも呼ばれ、うぐいすの名所として巣立野とも呼ばれました。「うぐいすをたづねたづねて阿左布まで」という芭蕉の句は巣立野と呼ばれたことと関係があるのかもしれません。明治5年(1872)、武家地を合併して麻布竹谷町となりました。

あざぶいっぽんまつちょう
麻布一本松町

町名の由来は、現在も植え継がれている町内の一本松よりきています。この松については源経基(みなもとのつねもと)に関する伝説があります。それは、一本松の冠の松です。これは笄町(こうがいちょう)の伝説の続きとなるもので、笄橋を渡った経基は民家に泊まりました。翌朝装束(しょうぞく)を麻の狩衣(かりぎぬ)に着替えた際、装束を松に掛けました。そのためこの松を冠松(かんむりまつ)というようになり、やがて一本松として語り継がれるようになったというものです。
また、むかし松之宮様という京都から下った人がここで亡くなり、衣冠(いかん)と遺体を埋め、印として植えたものであるという説もあります。

あざぶあみしろちょう
麻布網代町

宝永(ほうえい)4年(1707)、芝新網町の一部が堀留(ほりどめ)の麻布本村分明地に代地を与えられて移転し、麻布新網町(あざぶしんあみちょう)となりました。その後、享保(きょうほう)8年(1723)に町の東側が御用地となったため、麻布坂下町表通りに代地を与えられ、宝永4年の代地を麻布新網町一丁目、享保8年の代地を麻布新網町二丁目としました。しかし、二丁目は拝領屋敷が入り交じり、沼地等で場所が悪かったことから、享保17年(1732)、奉行所に願い出て河岸通りに代地を与えられます。麻布新網町二丁目が二ヵ所となり、町名が紛らわしいので、元文3年(1738)、奉行所に願い出て享保8年に与えられた場所は麻布新網町代地の「網」と「代」を組み合わせて麻布網代町と町名を改めました。

あざぶひがしまち
麻布東町

善福寺の門前町で、善福寺の東側にあるため善福寺門前東町と呼んでいました。慶安(けいあん)5年(1652)に起立したといわれていますが、それ以前から自然発生的に門前町屋としてあったと思われます。明治2年(1869)、善福寺門前東町を麻布東町としました。

あざぶにしまち
麻布西町

善福寺の門前町で、東町と対称的に善福寺門前の西側に位置していました。宝永(ほうえい)6年(1709)、町家に許可され、延享(えんきょう)2年(1745)に町奉行支配となりました。麻布善福寺門前西町と呼んでいましたが、明治2年(1869)、麻布西町としました。

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