三作神楽は和田三作地区(林・原赤・中村の3自治会を合わせて三作という)に古くから伝承され、7年目ごと(卯年・酉年)の式年祭で地元河内社に奉納されてきました。その起源については定かではありません。
明らかな資料としては神舞台本(三作神楽保存会が使用している詞章本)や言い伝えによると、「大宝年間(約1300年前)に大飢饉があったとき、この地方にも五穀が実らず疫病が発生し村人は草や木の根をかんで飢えをしのぎ、多くの死者をだした村は悲しみの声で満ちたといいます。この苦難から逃れようと河内社に五穀豊穣と疫病退散を一心に祈願したところ、翌年からは作物が実り、病気も癒えた村には再び平和が訪れました。村人はそのお礼として、3部落民総出で力を合わせて神楽を奉納するようになった。」と地元には伝えられています。
弐年祭で神殿を設け神迎えをして23神楽舞を奉納するこの神楽は、神祭りのひとつの古風な形をとどめ、中世の華やかな芸能を取り入れて祭りの興奮を高めているのが特徴です。昭和62年に山口県の無形民俗文化財に選択され、平成12年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。また三作神楽保存会は、昭和45年に発足し、地元三作の全世帯を会員として、「神楽を永久に伝承すること」を会の目的として成立しました。
放浪の俳人種田山頭火の妻であった佐藤咲野は和田の出身です。和田村のコンニャク農家の長女だった咲野は、20歳の時に、山口県佐波郡西佐波令村(現防府市)の山頭火の元へと嫁ぎました。
その後、山頭火の実家であった造り酒屋が倒産し、咲野と山頭火、息子の3人は熊本へ移住します。しかし咲野が32歳の時に離婚します。そして山頭火は離婚後に上京しますが、一度咲野の元へ戻り、その後僧侶となって各地を転々とし俳句を読む生活を始めたのです。
山頭火の破天荒な人生を支えた咲野は1968年に交通事故により79歳でなくなりました。山頭火と咲野を偲び、和田の住民の手により、咲野の生家のそばに山頭火の句碑を建立しました。
明治時代の偉僧として伝えられる島地黙雷は和田の専照寺の4男として生まれました。浄土真宗(西本願寺派)の僧侶となった島地黙雷はインドへ最初に訪れた日本人といわれています。
明治5(1872)年、岩倉使節団の一員として木戸孝允らと共に欧州を歴訪。欧州の帰りエルサレムに立ち寄ったあとインドに上陸し、西インドのムンバイからアラハバードを経てカルカッタまでを回り、日本に帰国しました。
日本の仏教史に残る島地黙雷を称え明治4年から明治19年(1871-86)ごろまでを「黙雷時代」といいます。
津田恒美投手は和田に生まれ南陽工から協和発酵を経て広島東洋カープに81年入団、『炎のストッパー』と言われ、広島球団史上初の新人王を獲得した投手です。入団1年目は先発として活躍しましたが、2年目以降数年間は病気のために成績を残せませんでした。しかし86年にストッパーとして復活し、カムバック賞を受賞しました。
89年には最優秀救援投手に輝きましたが、91年の1試合・9球の登板を最後に同年広島を退団、その2年後、脳腫瘍のため32歳という若さで帰らぬ人となりました。