2014年12月11日木曜日
阪神・淡路大震災20年 看護ボランティア・生田チサトさんの手記
保団連・保険医協会の支援を受けてスタートした私の被災地看護は南相馬市の大町病院へとつながった。
もしそうだとしたら今生きている喜びに影を落としているだろう。
医師の手、看護師の手、介護士の手、病院を支えるあらゆる職種の手、従来の手、新しい手が一つに繋がり域域医療を支える病院に向かって復興の道はまだまだ続く。
被災地復興支援:未来に向かって続く支援
兵庫県保険医協会西宮支部緊急対策本部
看護ボランティア 生田チサト
Ⅰ 心の復興:過去の悲しみのメモリートラックからの解放
2014年9月7日昼前、生田神社に9月21日の国際平和デイのイヴェント会場を下見に出かけた。神社を参拝したのは、19年前の震災で本殿の屋根がすっかり原形のままで落下していたのを目にしたときであった。当時、耳新しいアフリカの喜望峰で採培されるエネルギーの高い活性酸素除去作用のお茶:ルイボスティと瓦1枚分ほどの気持ちを差し上げた。それまでは上流社会の飲みもであったがアパルトヘイト後一般の市民の手にも入るようになったお茶である。疲労した体と心をいやす助けになればと持参した。そのお返しにお礼の品を頂き恐縮して神社を後にしたのを思い出した。あの大変な最中どんな状況にあろうとお訪れた者に謝意を示される行為に対し、いのち(人と心)を支える神社の使命とその存在の意味を学んだのだった。神社の本殿につながる道に敷かれた毛氈は青空の下、朱色が美しく映えていた。若い巫女さんに「あの屋根が震災時に落下した屋根ですか?」と尋ねたところ巫女さんは、「ちょっと聞いてきます」と言って後ろを振り返り先輩らしい巫女さんに尋ねた後、しっかりと“そうです”と答えて下さった。その本殿で結婚式が始まり、震災を知らない若い世代のエネルギーの動きを感じた。同時にあの時の喧騒とした中にも凛として復旧に忙しくしておられた宮司さんを思い出し、私の中で過去と今が交錯した。時の流れを感じ、復興とは何だろう?と自分に問いかけた。答えが出ないままに三宮駅まで歩いていると当時の空気や情景がまざまざと蘇ってきた。高いビルが曲った鉄骨をあらわにして痛々しい姿を晒していた。あの時の町はどこにいったのだろうか、今この通りを人は歩き仕事をし、暮らしている。その当時のように若者がいる。その町の姿には何の新しさもなく映画のセットが入れ返ったかのように映った。三宮ステーションホテルの当時の姿や倒れかけている高速道路などなど幾度となく訪ねたがこの日ほど震災当時の壊れた街の情景がよみがえったことはなかった。自分のメモリートラックの中に被災地の状況が色濃く残っていることにも気づいた。人々のメモリートラックに被災体験がない時代になってつまり世代交代が起きて復興というのだろうか?・そんなバカな!それならメモリートラックが薄れていくことなのだろうか、そのことを忘れること、考えなくなることなどとあれこれ考えを巡らした。
ある意味では世界中が第2次世界大戦の復興の途中にあるとも考えられる。戦後の未解決の問題も多くある。大戦におけるそのメモリートラックは今でも繰り返し思い出されている。途切れることなくどこかで戦争や感染症による人々の暮らしと健康の破壊はおき続けている。なんと悲しみの深い時代に世界は生きているのだろう。全ての人々が悲しみを超えて復興の道:健康と平和な暮らしへの努力を続けていると言えないだろうか。
私自身は、福島の南相馬市福島第一原発から25km圏内の地域にある大町病院の復興支援を続けて3年目になる。人口は減少し、商店街は懸命に開店している店と、閉じたままいつ開店するとも知れずに空き家としてたたずんでいる店がある。状況は大きくは変わっていない。子供たちの数が増えたことが目立つ。その中にあって道路が新しく整備が進んでいるのは復興の兆しとして目に見える。学生たちが登下校時に新しく整備された道を歩いている姿は未来への希望のシンボルとして映る。美しい街への新しい街づくりである。除染作業も進んでいる。飯館村の除染作業はショベルカーで掘り起こされた土を、放射能を遮蔽する黒の専用のビニール袋に入れて眼前に広がる広い田畑のあちこちに並べられている。日本のこの場所で根気と忍耐のいる作業が続けられていることを多分多くの人は知らないだろう。
住めるところへと人々は移住し暮らしている。メモリートラックには悲しみの影が色濃く残っていながらも懸命に生きている。他の安全に住める土地を選択した人々はその土地で生きようとしている。
心の復興とは、生き続けるところから未来が現れ悲しみのメモリートラックは少しずつ薄く明るくなっていく。生きること、生き続けるところにいつもあるであろうと自分なりに結論付けてみた。その時を生きるための処方箋は、夢と希望である。被災地での医療の存続はその夢と希望をつないでいくというミッションを内包しているのではないだろうか。
人類はいつの時代もいつの時も人生の復興への道を歩き続ける存在なのではなかろうか。生きること、それは人びとが夢と希望を決して手離さしていないという証しではないだろうか。
一通の電話で被災後20年を迎えることを知る
その夜のこと、西宮の広川恵一先生から電話で「震災20周年記念を予定している」と伺った。そう、その日は震災後20年を迎えようとしている三宮の街を歩いていたことに気づかされた。町の新しさと活気を感じなかったのは、自分のメモリートラックからの影響かもしれない。ここに住む被災体験をされた人たちのメモリートラックにも記憶が残っているのだろう。もしそうだとしたら今生きている喜びに影を落としているだろう。
この度の20周年の集まりに参加させて頂こうと思った。
20年前の方々にお会いできるのはなんと素晴らしいことだろう!
生きてきた喜びを分かち合う良い時を過ごしたいと思った。
20周年をよく計画してくださったと感謝している。メモリートラックが生きている喜びのメモリーに塗り替えられるよう心から願う。
Ⅱ 復興支援の道 阪神淡路大震災被災地医療は東北大震災への支援の序章
阪神淡路大震災の経験を携えて医療者による医療連携復興訪問が始まる
大震災といわれた阪神淡路大震災(1995年1月17日5時46分)に発生した5日目東京保険医協会の支援で被災地看護訪問に参加させていただいた。全ての人のすべてのかかわりは生活再建の一言に集約されていた。看護師にとってはナイチンゲールの看護の基礎を理解し展開する時であった。
そこでは、それぞれの国、職種の役割を理解しつつ繋がりあっていくコミニュケーションの力が問われた。互いの協力と連携が人々の生命力の消耗を最小限度にし、地域の復興の力を左右するという貴重な学びと体験であった。
しかし当時の政府や行政の体制は、受け入れる心と力と技を展開することができなかった。①体験がなかったこと②官民の間の意識の壁③ボランティアスピリットの土壌が開拓されていなかったこと④市役所の建物が影響を受け機能がストップしたこと⑤市役所の人たちの多くが被災していたこと⑥災害対策における国の整備ができていなかったことなどが考えられる。
それを補ったのが、ボランティア元年と称されるほどの全国から多種多様な手であった。
困難な状況にある人々に支援の手を差し伸べるという人間本来の命を尊ぶ心が全国から被災地に集結した。その体験が東北大震災への支援の速やかな対応、他国の受け入れと自衛隊の10万人の支援など阪神淡路大震災の当時より迅速であった。ボランティアコーディネーターの存在と役割の発揮とその拠点も速やかに立ち上がった。と見ることが出来る。被災後、復興に財政的支援と災害時の補償に関する制度などに奔走されていた兵庫県保険医協会の努力が実っている。阪神淡路大震災の被災と復興への取り組みが、世界でも初めての地震、津波、原発崩壊の三重苦の試練への助走であり、そのための準備であったと当時誰が考えたであろう。
阪神淡路大震災から14年目を迎え、兵庫県保険医協会では「阪神・淡路大震災の経験を語り継ぐ被災地での生活と医療と看護」出版に取り組んでいた。
本の発行(2011年2月17日)そのよろこびもつかの間2011年3月11日午後2時46分に日本東北大震災が発生した。
その自然災害のスケールは、阪神淡路大震災をはるかに超えていた。この著書が今回の大災害の助けにどれほどなるだろう?と考えた。本の出版は被災地医療連携復興訪問に踏み出す力になったと思う。その必要性のために創れた本であると認識している。
現在も兵庫県保険医協会の医師、歯科医師、事務職がチームを組んで、東北大震災の被災地の医療機関を訪問し被災地の現状を伺い、他の被災地域の医療現場の情報交換や意見交換を通して交流が続けられている。それを私は医療者による医療連携復興訪問と名付けている。他府県の医療者との交流は現場で復興のプロセスを生きる院長を始め看護部長のエネルギーの変換や充足と一息感につながっているのではないだろうか。被災地への医療チームの訪問は被災地医療を支える一つの在り方ではないだろうか。短時間のミーティングであるが相互交流で支えあう医療のネットワークであると、幾度かその場に同席させて頂いて感じている。
地震、津波、原発崩壊、福島第1原発から25km圏内の一地点で地域医療の拠点として取り組む大町病院に赴任
復興支援はコミニュケーションと自己変革の学び
被災地の状況を目にしながらも即戦力としては、体力的に無理があり、震災後9ヶ月目の12月8日に南相馬市の大町病院に非常勤看護師として赴任した。
被災地の医療機関を巡っておられる保団連と兵庫県保険医協会の広川医師チームに、「どこかナースを求めている病院を探してください」とお願いして繋がったのが南相馬市の大町病院であった。当時68歳であったが、猫の手もほしい状況は察知できたので保険医団体連合会の事務局長の取次をいただき応募した。東京保険医協会員でいらっしゃる中野区で地域医療の先鞭を切って訪問診療と被災時の医療対応の仕組み図くりに活躍されているかっての上司、中村洋一郎医師から復興支援金10万円と“復興支援は長期的視野に立って”とのメッセージを頂いて現地へ赴いた。その一部で自転車を購入し病院に寄贈した。私も含めて皆で使わせていただいている。
私にとっての被災地看護は約20年前東京中野区の中村診療所で訪問看護時代に“被災地に行きませんか”と声をかけていただいたのを切掛けにスタートした。約16年のインターバルを置いて福島の南相馬市の大町病院で再び始まった。
赴任した大町病院は、復旧の時を経て地域医療の復興に向けて努力の真最中だった。地域の暮らしと健康を支える病院の人材と物理的機能とシステムの再構築であった。それは地域の生活再建(いのちと暮らしを支える)を意味していた。
被災より3年と6カ月(1277日)経過した今、院長の努力によって関係大学の協力をえて診療部門は専門医の導入が進み、内視鏡センターが誕生し、地域のニーズに応えつつある。日本消化器内視鏡学会専門医制度による指導施設認定病院に指定された。内視鏡技師の認定を受けた5人のナースを含む外来担当ナースがチームを組んで患者さんを支えている。被災地域医療おこしの大きな一歩と言えよう。
又、病院内においては内装が明るく設備が新しく便利さと感染防止を考慮した仕組みに整いつつある。
看護部門の努力も見逃せない。全国から支援を望むナースたちの個々の才能と支援への思いを受け入チームを編成している。そして看護がより良いケアへと前進している。そこには復興過程における様々な問題や葛藤を克服する看護師、看護助手、介護福祉士たちの努力がある。
被災地の医療機関を巡っておられる保団連と兵庫県保険医協会の広川医師チームに、「どこかナースを求めている病院を探してください」とお願いして繋がったのが南相馬市の大町病院であった。当時68歳であったが、猫の手もほしい状況は察知できたので保険医団体連合会の事務局長の取次をいただき応募した。東京保険医協会員でいらっしゃる中野区で地域医療の先鞭を切って訪問診療と被災時の医療対応の仕組み図くりに活躍されているかっての上司、中村洋一郎医師から復興支援金10万円と“復興支援は長期的視野に立って”とのメッセージを頂いて現地へ赴いた。その一部で自転車を購入し病院に寄贈した。私も含めて皆で使わせていただいている。
私にとっての被災地看護は約20年前東京中野区の中村診療所で訪問看護時代に“被災地に行きませんか”と声をかけていただいたのを切掛けにスタートした。約16年のインターバルを置いて福島の南相馬市の大町病院で再び始まった。
赴任した大町病院は、復旧の時を経て地域医療の復興に向けて努力の真最中だった。地域の暮らしと健康を支える病院の人材と物理的機能とシステムの再構築であった。それは地域の生活再建(いのちと暮らしを支える)を意味していた。
被災より3年と6カ月(1277日)経過した今、院長の努力によって関係大学の協力をえて診療部門は専門医の導入が進み、内視鏡センターが誕生し、地域のニーズに応えつつある。日本消化器内視鏡学会専門医制度による指導施設認定病院に指定された。内視鏡技師の認定を受けた5人のナースを含む外来担当ナースがチームを組んで患者さんを支えている。被災地域医療おこしの大きな一歩と言えよう。
又、病院内においては内装が明るく設備が新しく便利さと感染防止を考慮した仕組みに整いつつある。
看護部門の努力も見逃せない。全国から支援を望むナースたちの個々の才能と支援への思いを受け入チームを編成している。そして看護がより良いケアへと前進している。そこには復興過程における様々な問題や葛藤を克服する看護師、看護助手、介護福祉士たちの努力がある。
看護チームの再編成:院外からの支援ナースを迎え文化の違いを超えて受け入れる力
大町病院では他県からの支援ナースがチームの一員としてともに臨床看護の最前線をカバーしてきた。今も他府県から就職した人、他1カ月に2週間あるいは10日から数日間、定期的に支援をしているナースによってチーム編成されている。国の医療機関:国立障害者リハビリセンター病院から看護師長が先鞭を切り3週間交代で約20名の看護師が交代で60週間を支援した。彼らは閉鎖した1ユニットの病棟機能を回復し、患者さんの受け容れを可能にした。彼らの支援は病院全体の復興を支えた。
生活文化の違い、看護観の違いの中でお互いがら支えあっていく姿は、受け容れる心の広さを持つ福島の文化にその基を見ることができる。支援ナースを思いやること専門職としての看護への責任を果たすためにコミニケーションの努力が双方に必要である。現状のあり方を受け容れること、新しさを受け容れることに難しさがある。それらを克服しながら前進している。その努力の途中で支援から撤退する人、継続する人、新たに支援に来る人と、復興現場に生きるナースたちのコミニュケーションを図る努力は今も続いている。そこには他者の変革ではなく自己変革する力が求められている。
私自身の支援も間もなく4年目を迎えようとしているが、“復興支援甘くはない”とはっとする時があった。配属された看護チームの希望に焦点を当て、自分の考えを押し付けない。自分の看護の目線で観ないことに注意を払っているが、それでも自分の考えの傾向やこだわりが邪魔をすることがある。その時にはコミニュケーションが成立しない。自分の考えから自由にいることが課題となる。その結果他者の思いや考えが伝わってくる。何をすればよいかが見えてくる。それは自己の変革と成長の過程でもある。復興支援は過去に道をつけ、現在を未来に繋げることなのかもしれない。自分が変わる勇気、自己への信頼と忍耐の力を磨きつつ、自己がより成長していくことに喜びが必要である。この年になってこれほどの自分かと情けなくなったこともある。自分を見て、成長していくこと。そこに復興支援の魅力がある。復興支援に臨む者自身が目的を見失しなうことなく、又、看護を磨き、関係を磨き、実践する喜びを持ち続けて行きたいと思う。
*コミニュケーションとは、関わり合い、かかわり合うこと、理解し合うこと、通じ合うという意味で用いている。
全国保険医団体連合会並びに保険医協会の皆様へ
今後も被災地の医療に心を添えていただき、復興の歩みを続ける被災地に医療者による医療連携復興訪問の継続を願っています。大町病院の明るく、楽しくエネルギーを回復するようなカラーに塗り替えられた病室もお訪ねください。
2014年9月25日木曜日
避難者健診 参加記
原発事故による県内避難者を診察する森達哉先生(上)、脇野耕一理事(下)
健康への大きな不安に寄り添いたい
今回、第3回兵庫民医連避難者健診に参加しましたので、ご報告いたします。受診者は37人、うち小児19人でした。
私は小児の診察を担当しましたが、やはり保護者の皆さんの健康に対する不安は大きく、「甲状腺が心配」「鼻血は放射線の影響だったのか」「放射線が1番強かった日に、何も知らずに公園で遊ばせてしまったことを後悔している」などの声が聞かれました。
幸い、大きく体調を崩している児は見かけませんでしたが、倦怠感を訴える児もおり、また全体的にTSH(甲状腺刺激ホルモン)、FT4(遊離サイロキシン)など、甲状腺関連の検査値が各年齢の基準値を超えており、専門病院受診を勧めたケースが、過去の2回よりも多かった印象です。
甲状腺エコーでは数例に径5㎜以内の嚢胞が見られましたが、正常な頻度なのかは不明です。
放射線の身体への影響については、現状では「根拠に乏しく、まだはっきりとは分かっていない」と言うしかない段階なのですが、実際に不安に思っていらっしゃる避難者さんたちを目の当たりにすると、そのことがとても歯がゆく、早くデータを集めて結果を出したいという焦燥感に駆られます。
この健診活動が、避難者の皆さんの身体と心の支えに、そして人類全体の学びの一助になればと心から願います。
【尼崎市 森 達哉】
2014年9月12日金曜日
被災地訪問・インタビュー
東日本大震災後、一般社団法人「震災こころのケア・ネットワークみやぎ」は、被災者のこころのケアを目的に設立され、宮城県・石巻市を中心に、多彩な精神保健活動を行っている。拠点となる「からころステーション」代表理事の原敬造先生(仙台市開業)を、加藤擁一副理事長、白岩一心理事が訪ね、お話を伺った。
被災者のこころとからだに寄り添って
石巻市・からころステーション 原 敬造 先生に聞く
【はら けいぞう】1949年北海道生まれ。1978年東北大学医学部卒業、同大精神神経科勤務、79年大原総合病院清水病院勤務などを経て、88年9月仙台市青葉区に原クリニック開院。日本精神神経科診療所協会理事、宮城県精神保健福祉協会理事、震災こころのケア・ネットワークみやぎ代表理事、日本デイケア学会副理事長
原 震災後初めて石巻市に来た時、以前住んだことのある街の変わり果てた様子に言葉を失いました。震災初期の対応は、仙台から石巻へ物資を届けることからはじめました。被災者の方の話を聞きながら「眠れていますか」と声をかけたり、支援物資の一覧を見せて必要なものを選んでもらったりしました。精神科医仲間の宮城秀晃先生(石巻市・宮城クリニック)が、医院の1階が半分ほど水没したにもかかわらず、避難所になっている近くの小学校で医療活動を展開していました。こうした現状に触れ、石巻市で心のケア活動を行うことを決意しました。あれだけの災害を受けたのですから、長期的な支援体制に基づく「安心と寄り添い」が、何よりも求められています。
原 ええ。長期にわたる活動に備え、宮城先生たちと「一般社団法人・震災こころのケアネットワークみやぎ」を設立しました。2011年9月に石巻市のふれあいサポート事業を受託して、からだと心のケアを意味する「からころステーション」を活動拠点として立ち上げました。ここでは震災をきっかけにして起こる不安や不眠、食欲不振、過度の飲酒やギャンブルなど、心の健康問題に取り組んでいます。訪問活動を軸に、電話相談、来所相談、カフェ活動、心の健康相談会の開催などが主な活動です。
本人の「気づき」を促す支援
白岩 具体的にはどのような活動を展開しておられるのですか。
原 主に仮設住宅の居住者などを対象とした心の相談活動を、電話、来所を通じて行っています。またハローワークでの相談活動や、乳幼児検診を受けに来た母親を対象に心理士を派遣するなど、不安を抱えた人が集まる場所を意識しています。状況を把握し、医師につなぐ体制が非常に重要になってきます。医師による支援者の研修等も行い、サポートする側の体制もより充実するように努めています。従来存在していた地域社会のつながりが絶たれたなかで、いわゆるオフィスベースの「待ち」の支援では、地域・世帯に潜む課題を発見することはこれまで以上に困難と予想されます。専門職による「積極的に働きかける支援(アウトリーチ型)」を行う必要性は一層高いといえます。
複数回の全戸調査などを実施し積極的に家庭に出向く中から、ようやく隠されていたニーズが掘り起こされることは、これまでの震災における支援でも経験済みです。
「こころの健康相談」などの名称で正攻法の相談会などを実施しても、地域で埋もれがちな小さなニーズは見えにくいため、健康診断や各種講座・イベントなど多角的で多様な支援・取り組みを実施しています。避難所から仮設住宅、復興住宅へと住まいが変化する中においても、この方針は一貫して継続すべきと考えます。
加藤 震災から3年が経過し、被災者の方には様々な症状が出ているのではないでしょうか。
原 ええ。不眠、不安、無気力、抑うつ、イライラなどがありますが、当初の地震のショックや余震などの不安から、今後の生活の不安を原因とするものにシフトしています。また、もともと痴呆で徘徊をしていた人などが、震災前は軽度だったのが重度化した例も見られます。これは激しい環境の変化がもたらしたものでもあります。
特に単身の中高年男性が問題を抱えていることが多く、しかも危機的状況でないとSOSを出さない。こうした人たちに対応するために「おじころ」という男性のサロンをつくっています。独居でアルコール問題を抱えている人が基本です。この方々とは、ここの決まり事である「飲まない、賭けない、迷惑かけない」の3つをもとに契約を交わします。今では、この取り組みを人づてで聞いたりして、問題を抱えた人を連れて来てくれる人もいます。基本的にはまず、話を伺って、病気だけでなく、孤独や失職など、その人の抱える問題を広く捉えるようにしています。現在、100人くらいを継続的にフォローしています。毎週日曜日の11時から15時までステーションに集まり、 麻雀や将棋、スポーツ や料理などに皆で取り組み、コミュニケーションを図っています。
当然、この場から離れると再飲酒を繰り返す人もいますが、一つのモチベーションとして、一定の問題軽減につながっています。こちらからは「アルコールはだめ」と強くは打ち出しません。なぜなら、否認されると、そこで止まってしまうからです。つまり、相談の際、「飲むな」とか「やめなさい」といきなり言うのではなく、一緒に係わりながら本人の「気づき」を促して行く方法で取り組んでいます。
ステーションは子どもの遊び場としても機能させていますし、科学実験と心のケアの融合や、講演会、コンサートなど多彩な催しも行っています。
心配な生活再建の個人差
白岩 被災地では、仮設住宅から復興住宅への移住がなかなか進まないと聞きます。
原 ええ。復興住宅は必要個数を建設中で来年度末までが目標ですが、とても間に合わない様子です。仙台等に移住した人も多く、石巻は人口16万が15万に、女川は9千が7千弱にそれぞれ減少しています。今後は遅れても復興住宅への移住が進むでしょうが、心配なのは、状況がより捉えづらくなることです。現在私どもでフォローできている人はいいのですが、仮設住宅よりも閉ざされた空間に移ることで、症状を持った人が潜在化することを危惧します。仮設住宅は安普請で、周りの騒音が気になるなどの問題はありますが、逆に他人が生活していることも実感でき、安心につながる面もあります。
加藤 兵庫の震災後の対応でも、同じ問題がありました。
原 そう聞いています。復興住宅はマンション形式のため、どうしても働きかけが困難になり、阪神・淡路大震災で起こった孤独死などが再現される可能性が高いことを危惧しています。阪神・淡路では、復興住宅できた後に、いったん閉じた心のケアセンターを再開しました。その教訓から、幸い石巻では継続して把握する体制がとれていますが、背景としては同じ問題を抱えていると言わざるを得ません。また、住宅を再建して仮設住宅を出て行く人を送り出す側は「取り残され感」を覚え、今まで症状を訴えていなかった人が抑うつを訴えることも危惧されます。
加藤 再建の度合いの格差が、大きな心の負担になるのですね。兵庫でも、とりわけ3年目を過ぎた頃から、再建の個別差が目立つようになりました。
原 小・中学生などは、今は感じていなくても成長してから問題が生じる恐れがあります。高齢者は特に悲惨で、今まで積み上げてきたことの喪失感と同時に、長期化する中で経済的にも困窮していっています。時間の経過と共に刻々と変化するニーズ・状況に応じた、迅速な対応を図れる体制が必要です。また、それらを必要に応じて継続的に実施できる支援のあり方が求められます。
白岩 医療費の一部負担金免除措置が宮城県は一時打ち切られましたが、受診低下などは現れているのでしょうか。
原 宮城県はいったん打ち切られましたが、2014年度に制度が事実上復活しました。ただ、基準が厳しくなり幅広かった対象者が絞られてしまいました。今のところ継続通院の場合は、あまり受診抑制の影響が顕著だとは感じていません。精神科は公費負担医療があることも影響しているのかもしれません。
経験をどう生かしていくか
白岩 今後の課題をお聞かせください。
原 まずはこの活動を、どこまで続けるのかが大きな課題です。ステーションの財政は復興財源基金から支出されていますので10年が一つの区切りとなります。例えば阪神・淡路では20年たっても復興住宅での課題があるのをみても、その後は地域包括ケアの中でメンタルヘルスをどのように位置づけていくのかが大きな問題となります。課題があれば早期に介入する体制や、日頃の心の健康推進が重要です。「心の健康センター」で、障害を抱えている人から健康な人まで、全年齢を対象としたメンタルヘルスを国が面倒みる、そういう体制が必要です。
加藤 たしかに日常的な精神ケアを地域でどう構築していくのかにつながってくる問題ですね。
原 20年前の阪神・淡路から震災後のメンタルヘルス支援に注目が集まり、その後の中越・中越沖地震ではその反省を踏まえた復興支援が行われました。現在、それぞれの地では震災後の時間経過に沿った支援が継続されています。また、かつての被災地からは、事があれば支援チームがいち早く現地へ駆けつけるようになっています。
東日本大震災では、被災した東北3県を中心に多くの命が奪われました。多くの方が家族・友人・知人、住み慣れた土地を失い、言い尽くせないほどの喪失を感じています。さらに仮設住宅、復興住宅と続く生活は、これまでのくらしを一変させるものです。産業を支えるインフラ再建の遅れ、人口流出と過疎化の進行といった複合的な問題の中で、日常的にストレスが増大しています。
私たちの経験をどう次の災害に活かすか、またどういった日常的支援体制をつくれるかが、今後問われることになります。
加藤 先生方の活動に本当に敬意を表します。本日はありがとうございました。
登録:
投稿 (Atom)