Some theories of family medicine useful for the internist's practice: An integrated approach to complex health problems
医療福祉生協連家庭医療学開発センター 藤沼康樹
要旨
少子高齢化が進み、複雑な健康問題を抱える高齢者が増加している現代において、内科医には、従来のスタイルの医療に加えて、家庭医療学の考え方やアプローチ法を実装することが診療の質の向上に有用であると思われる。本稿では、家庭医療学に蓄積された、いくつかの理論を詳細に紹介する。
家庭医療学では、患者を単なる臓器の集合ではなく、生命体・有機体として捉え、身体・精神・社会的側面を統合的に理解し具体的なアプローチ法をテイラーメイドで構築する。また、患者の訴えだけでなく、その背景にある「受診理由」や「病いの経験」を深く掘り下げて理解し援助すること。さらに、病気によってもたらされる「個人誌の混乱」に注目し、患者の生活史の再構築を支援することも家庭医療学の重要な役割である。最後に、医師が単なる治療者ではなく「Healer」として機能し、患者の全人的な癒しを支援することが重要である。
これらの家庭医療学の考え方を内科診療に取り入れることで、患者の全体像を把握し、より個別化された医療を提供することが可能になると考える。特に多疾患併存状態、心理社会的複雑困難事例、持続する身体症状、在宅医療などの領域において、これらの理論は実践的価値を持つ。
Key words
家庭医療学、有機体的思考、健康探求プロセス、個人誌の混乱、HealerとHealing、統合的ケア、患者中心医療
はじめに
日本は少子高齢社会となり、外来診療においては複雑な健康問題を持つ高齢者から超高齢者の診療が増加している状況がある。2025年には75歳以上の後期高齢者が人口の約18%を占めると予測され(1)、これらの患者群は平均して3つ以上の慢性疾患を併存していることが知られている(2)。また、通院困難な虚弱高齢者の増加、入院期間の短縮、自宅生活を続けたいという国民意識の高まりなどを背景に在宅医療・訪問診療のニーズが急増している。厚生労働省の統計によれば、在宅医療を受ける患者数は2008年の約13万人から2020年には約35万人へと約2.7倍に増加しており(3)、この傾向は今後さらに加速することが予想される。こうした状況の中で内科医の活躍がますます重要になっている。
現代の内科学は様々な疾患の病態解明が進み、診断・治療技術の劇的な進歩を背景に急速な専門分化が進んだ。Engel(4)が1977年に指摘したように、「生物医学モデル(biomedical model)は、疾患を身体の構造や機能の逸脱として捉え、症状を生物学的変数に還元して理解しようとする」が、このアプローチは複雑な健康問題に対しては限界があることが明らかになってきている。特に高齢者の多疾患併存状態(multimorbidity)や心理社会的困難事例をどう診るのか、プライマリ・ケア内科外来で頻度の高いPPS(Persistent Physical Symptoms:持続する身体症状)のケア、病院病棟とは異なる在宅医療の場での臨床判断や倫理的判断など、今後内科診療には何らかのオルタナティブな臨床的方法論の導入が必要ではないだろうか。
この課題に対して、例えばStarfield(5)は「プライマリ・ケアは、疾患志向のケアから人間志向のケアへのパラダイムシフトを要求する」と述べ、患者の全体像を把握する統合的なアプローチの重要性を強調している。今回は、家庭医療学(Family Medicine)の領域で積み上げられてきたいくつかの理論とその適用について詳細に概説し、内科診療の質向上に資することを目指したい。
家庭医療学の源流は、地域基盤型の非選択的プライマリ・ケア外来診療の現場にある。地域基盤型とは診療圏が限定されていることであり、非選択的とは性別、年齢、臓器、健康問題の種類を問わず相談に応じることを指す。McWhinney(6)は「家庭医療学は、個人、家族、そして地域社会の健康に責任を持つ医学の専門領域である」と定義し、その特徴として「継続性、包括性、調整機能、そして患者中心のケア」を挙げている。ショックなどの救急病態や、急速に進行する重症疾患の入院治療等は家庭医療学の範囲外となるが、これらの急性期治療後の継続的なケアや予後管理については家庭医療学のアプローチが重要な役割を果たしうるだろう。
家庭医のように考えること=有機体的思考
家庭医療学における思考法の理論的基盤は、20世紀後半の医学哲学と認知科学の発展と密接に関連している。McWhinney(7)は家庭医の思考の特徴を以下のように端的に整理するとともに、この思考はトレーニングしなければ身につかないものでもなく、真摯に患者に向き合う医師ならば自然に身につくものだとした。しかし、現代の医学教育システムにおいて、多くの医師は専門分化された知識の習得に重点を置くため、この統合的思考法を意識的に学ぶ必要がある。
まず個々の患者との関係性を基礎とし、病い経験を生活、人生の文脈で理解しようとする思考を具体的思考(concrete thinking)と呼ぶ。例えばKleinman(8)はこの点について「病気(disease)と病い(illness)の区別は重要であり、Disease は生物医学的な異常を指すが、illness は個人が経験する苦痛や機能障害の体験を指す」と述べている。また疾患の一般化・カテゴリー化する際には生活している人の抽象化が必要で、その際は個々人の具体性は捨象されるが、これを抽象的思考(abstract thinking)と呼ぶ。医療実践にはこの両者が必要で、バランスが求められる。
これらの思考様式は対立するものではなく、相補的な関係にある。Balint(9)は「医師は患者に対して『薬』として機能する」という概念を提唱し、「医師という薬(doctor as drug)」の効果を最大化するためには、医師自身が患者との関係性の中で自己を理解し、活用する能力が必要であると述べた。家庭医には状況に応じてこれらを柔軟に組み合わせる能力が求められる。
有機体的思考の理論的構造
この具体的思考をさらに実践に展開する思考をMcWhinney(10)は有機体的思考(organismic thinking)と呼ぶが、その構成要素は以下のとおりである。
第一に、人間を成長、回復、学習、自己組織化する有機体として捉える視点である。この概念は、生物学者von Bertalanffy(11)の「生命体は開放系システムであり、環境との相互作用を通じて自己を維持し発展させる」という一般システム理論とも関連している。医療においては、患者の自然治癒力や適応能力を信頼し、それを支援することが重要となる。
第二に、身体・精神・社会的側面を統合的にシステムとして理解することである。Engel(12)の生物心理社会モデル(biopsychosocial model)は「人間の健康と疾患は、生物学的、心理学的、社会的要因の複雑な相互作用の結果である」と主張し、従来の生物医学モデルの限界を克服する枠組みを提供した。
第三に、治癒は患者自身の自然治癒力に依存すると考える視点がある。Antonovsky(13)の健康生成論(salutogenesis)は「なぜ人は病気になるのか」ではなく「なぜ人は健康でいられるのか」という問いを重視し、「首尾一貫感覚(sense of coherence)」が健康維持に重要な役割を果たすと述べている。
第四に、患者の状態を直線的な因果関係ではなく、複雑な相互作用のネットワークとして見る視点である。複雑系理論(complexity theory)では、「小さな変化が大きな影響を与える可能性があり、予測不可能な創発的現象が生じる」ことが知られており(14)、この理論を医療に応用することで、患者の状態変化をより深く理解できる。
有機体的思考の実践的応用
以下、実際の事例に即して有機体的思考を具体的に提示する。
患者は73歳女性、高血圧、糖尿病、骨粗鬆症、うつ病があり診療所に定期通院している。脳梗塞後遺症で要介護3度の79歳夫の介護をしている。また同居の43歳の息子は統合失調症でひきこもりの傾向があり就労していない。
生命体としての特性の認識
この患者の体は複数の慢性疾患(高血圧、糖尿病、骨粗鬆症)と向き合いながら、ホメオスタシスを維持しようとしている。Cannon(15)が提唱したホメオスタシスの概念によれば、「生体は内部環境を一定に保とうとする自動調節機能を持つ」とされ、この患者においても、過重な負荷にもかかわらず一定の機能を維持していることは注目すべき点である。
うつ病も身体の適応反応の一つとして理解できる。Selye(16)のストレス理論では、「持続的なストレスは警告反応期、抵抗期、疲憊期の3段階を経る」とされており、この患者のうつ症状は長期間の介護ストレスに対する生体の適応反応として位置づけることができる。過重な介護負担により、本来持っている自己治癒力や恒常性維持機能が低下している可能性がある。「いろいろ大変な状況が続くが、なぜそれなりに安定しているのか?」という問いは極めて有機的であるといえる。
システム論的アプローチの詳細
身体疾患(高血圧、糖尿病、骨粗鬆症)、精神疾患(うつ病)、社会的状況(介護負担、息子の問題)は別個の問題ではなく、相互に影響し合う一つのシステムとして捉える必要がある。システム理論の創始者であるvon Bertalanffy(17)は「全体は部分の和以上のものである」と述べ、要素間の関係性や相互作用がシステム全体の性質を決定することを強調した。
例えば、介護ストレスは血圧上昇、血糖コントロールの悪化、うつ症状の増悪につながり、それがさらに介護の質を低下させる可能性がある。McDaniel et al.(18)は「医療における家族システム理論」において、「個人の症状は家族システム全体の機能不全の表現であることがある」と指摘している。この視点から見ると、患者のうつ症状は個人の問題というよりも、家族システム全体の危機状態の現れとして理解できる。
非線形的な因果関係の理解
この状況は、単純な原因と結果の関係ではなく、以下のような複雑なフィードバックループが形成されているといえる。
介護負担から疲労へ、そしてうつ症状の悪化から介護の質低下へ、さらに罪悪感からうつ症状のさらなる悪化へと続く循環がある。Bateson(19)の円環的因果律(circular causality)の概念では、「原因と結果が相互に影響し合い、どちらが原因でどちらが結果かを特定することが困難になる」とされている。
息子の状態への心配がストレスを生み、血圧上昇から疲労へ、そして介護負担増加へとつながる循環も見られる。さらに、骨粗鬆症への不安が活動性低下を招き、血糖コントロール悪化から全身状態の低下へとつながる循環もある。
Prigogine(20)の散逸構造理論では、「開放系においては、エネルギーの流入により新しい秩序が創発される可能性がある」とされ、適切な介入により、これらの悪循環を好循環に転換できる可能性を示唆している。
関係性中心のケアアプローチ
この患者は以下のような複数の重要な関係性の中で生活している。
要介護の夫との関係では、従来の夫婦関係から介護者と被介護者という新しい関係性への移行が求められている。Rolland(21)は「慢性疾患は家族の発達段階に関係なく、家族システムに重大な影響を与える」と述べ、新しい役割分担や関係性の再構築が必要であることを指摘している。
引きこもりの息子との関係では、母親として支援したい気持ちと、自分自身の限界との間での葛藤がある。成人の子どもの精神的問題は、親にとって特別な困難をもたらすことが知られており(22)、適切な境界設定と支援体制の構築が重要となる。
医療者との関係では、定期通院における支援関係が患者の唯一の安定した外部とのつながりとなっている可能性がある。この関係性が患者の健康状態に大きく影響を与えている。Beach et al.(23)は「患者中心のケアにおいては、医師-患者関係自体が治療的価値を持つ」ことを実証している。
文脈依存的な理解の深化
各症状や疾患は、高齢の主介護者という文脈の中で理解する必要がある。例えば、うつ症状は単なる神経伝達物質の不均衡ではなく、過重な責任と期待に応えようとする努力の現れとして解釈・意味づけることができる。
Kleinman(24)の説明モデル(explanatory model)では、「患者は自分の症状について独自の理解と説明を持っており、これを理解することが効果的な治療の前提である」とされている。この患者の場合、うつ症状を「自分の弱さ」ではなく「困難な状況に対する自然な反応」として再定義することで、自己効力感を回復させることができる可能性がある。
「健康」の新しい定義と評価
この患者の診療におけるアウトカムとしての「健康」は、個々の疾患の検査数値や病態改善だけでなく、以下のような要素を含む具体的・包括的な視点で捉える必要がある。
身体的な持続可能性では、介護を続けられる体力の維持が重要である。WHO(25)の健康の定義「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態である」を参考にしながらも、より実用的で個別化された健康指標を設定する必要がある。
精神的な安定では、うつ症状のコントロールだけでなく、困難な状況に対する対処能力(coping ability)の向上も重要である。Lazarus & Folkman(26)のストレス・コーピング理論では、「ストレスへの対処は問題焦点型コーピングと情動焦点型コーピングに分けられ、状況に応じて適切な方法を選択することが重要である」とされている。
社会的なサポート体制の確立と家族システムの安定性も重要な健康指標となる。Cohen & Wills(27)のソーシャルサポート理論では、「社会的支援は直接的効果とストレス緩衝効果の両方を通じて健康に寄与する」ことが示されている。
統合的なケア計画の実践
以上のような理解に基づき、以下のような多層的で統合的な計画を立てることができる。
医学的管理では、各疾患の継続的なモニタリングと調整を行いながらも、疾患間の相互作用を考慮した総合的なアプローチを取る。例えば、血圧管理においては単に降圧目標を達成するだけでなく、患者の生活パターンや介護負担を考慮した服薬タイミングの調整が重要となる。
介護負担の軽減では、介護保険サービスの活用やレスパイトケアの導入を図る。Zarit et al.(28)の介護負担尺度を用いた評価により、客観的な負担軽減策を検討することができる。
息子への支援では、精神科との連携や福祉サービスの導入を進める。家族療法の観点から、息子の問題を家族システム全体の課題として捉え、段階的な改善を目指す。
患者自身のセルフケア支援では、運動指導、栄養指導、休息の確保を行う。Bandura(29)の自己効力理論に基づき、患者が「自分でできること」の感覚を回復させることが重要である。
定期的な対話による精神的サポートでは、患者の体験や感情を受容し、新しい意味づけを支援する。この過程は後述する「個人誌の再構築」と密接に関連している。
このように、家庭医は有機体的思考により患者の状況を総合的に理解し、様々な要素の相互作用を考慮しながら、個別性が高い持続可能なアプローチを探ることを目指している。この思考法は、特に複雑な多疾患併存状態や心理社会的問題を抱える患者において、従来の疾患別アプローチでは解決困難な課題に対する新しい道筋を提供する。
受診理由と健康探求プロセス
受診理由概念の理論的背景
家庭医診療では「この患者の主訴は何か?」とはすぐには考えない。なぜなら頭痛、倦怠感、腹痛といった「主訴」は患者が持ち込んだ健康問題を医学的用語に翻訳した結果だからである。非選択的外来においては「なぜ今日この時間に来院したのか」といった受診理由に注目しなければ「真の問題」が明らかにならないことが多い。
この概念の重要性は、1970年代の医療人類学の発展と密接に関連している。Kleinman(30)は「医療システムは専門医療セクター、民間セクター、一般セクターの3つから構成される」と述べ、患者が専門医療セクターである医療機関を受診するまでには、複雑な意思決定プロセスがあることを示した。
例えば40代男性が「3ヶ月前から頭が重い」ので来院した場合、医学用語としての主訴は「頭痛」だが、受診理由が「家族に検査をしてもらえと言われたから」だとすると、頭痛の診断治療は患者の真の問題ではない可能性がある(31)。この場合、患者自身は症状を深刻に捉えていない可能性があり、家族の心配を軽減することが主要な目標となるかもしれない。
家庭医の受診理由へのアプローチ法に関してはChrisman(32)による健康探求プロセス(Health Seeking Process)が理論的な根拠となっている。このモデルは医療人類学と行動科学の知見を統合したもので、1970年代から現在まで広く応用されている。健康探求プロセスは、人々が体調の変化を感じてから治療に至るまでの包括的な流れを示したモデルである。
第一段階:症状の定義(Symptom Definition)
まずスタートは「症状の定義」である。これは身体の変調を個人がどのように認識し、それを症状として解釈する段階を指す。だるさや痛みをどの程度重要と捉えるか、それを「病気」と判断するか、という最初のプロセスがここに含まれる。
Mechanic(33)の病気行動理論(illness behavior theory)では、「同じ症状でも、個人の文化的背景、過去の経験、性格特性により、解釈や反応が大きく異なる」ことが示されている。例えば、胸の痛みを「単なる筋肉痛」と解釈するか「心臓病の可能性」と解釈するかは、その人の医学的知識、過去の病歴、家族歴、文化的背景により大きく左右される。
Zola(34)は症状を病気として認識するトリガー(triggers)として、以下の5つを提示している:危機の発生(interpersonal crisis)、社会的干渉(social interference)、時間的期限(sanctioning)、症状の質や量の変化(temporalizing of symptomatology)、そして症状の類似体験(similarity)である。これらのトリガーが作動することで、それまで「我慢していた」症状が「治療すべき問題」として再定義される。
これに基づき、人は「病気に関連した役割行動の変化」を示すようになる。これは仕事を休む、家事の分担を変えるなど、通常の生活パターンを修正する行動を意味する。この変化は、周囲に対して自身の体調不良を表明することにもなる。
Parsons(35)の病人役割理論(sick role theory)では、「病気になることは社会的に承認された役割であり、一定の権利と義務が伴う」とされている。権利としては日常的責任からの免除と自分で治すことを期待されないことがあり、義務としては病気を好ましくない状態と認識することと専門的治療を求めることがある。
現代社会では、この病人役割の概念も変化している。Bury(36)は「慢性疾患の増加により、従来の急性期を前提とした病人役割では対応できない状況が増えている」と指摘し、より柔軟で長期的な視点が必要であることを示している。
第三段階:素人による相談と紹介(Lay Consultation and Referral)
そして「素人による相談と紹介」の段階に入る。家族や友人などの身近な人々に相談し、彼らの経験や知識に基づいたアドバイスを受ける。また、近年ではインターネット情報や生成AIに相談することも増えている印象がある。
Freidson(37)の素人紹介システム(lay referral system)の概念では、「専門医療を受ける前に、多くの人々は家族、友人、近隣住民などの非専門家からアドバイスを受ける」とされている。この素人ネットワークは、医療へのアクセスを促進する場合もあれば、逆に阻害する場合もある。
この段階で医療機関受診を勧められることも多く、「真の受診理由」が形成されることが多い。「誰かにこのことを相談しましたか?」という質問がキーとなることが多い。McKinlay(38)の研究では、「女性は男性よりも素人相談ネットワークを積極的に活用し、その結果として適切なタイミングで医療機関を受診する傾向がある」ことが示されている。
近年のデジタル化により、この段階は大きく変化している。Google検索やWebMD、日本では「症状チェッカー」などのオンラインツールが普及し、患者の受診前の情報収集行動は劇的に変化している(39)。これらのデジタルツールは新しい形の「素人相談」として機能しているが、時に過度の不安を煽ったり、不適切な自己診断を促したりする危険性も指摘されている(40)。
第四段階:治療行動(Treatment Action)
これらの情報を踏まえ、具体的な「治療行動」が取られるが、それは市販薬の使用、医療機関の受診、相補代替医療の利用、生活習慣の改善など、症状の改善を目指した実際の行動である。医療機関の受診はあくまで「治療行動」の数あるバリエーションの一つであり、来院するまでにどのような問題解決手段をとろうとしたかは適切な診療を進める上で重要な情報である。
Eisenberg et al.(41)の研究では、「アメリカ成人の約34%が何らかの補完代替医療を利用しており、その利用額は年間約270億ドルに達する」ことが示されている。日本においても、健康食品、鍼灸、マッサージなどの利用は一般的であり、患者の治療行動を理解する上でこれらの情報は重要である。
第五段階:アドヒアランス(Adherence)
最後に「アドヒアランス」という要素がある。これは処方薬の服用、医師の指示の順守など、治療を継続的に実行する過程を指す。このアドヒアランスの度合いは、それまでの各段階での経験や判断に影響される。
従来のコンプライアンス(compliance)概念が「医師の指示への従順な従属」を意味するのに対し、アドヒアランス(adherence)は「患者の主体的な治療参加」を重視する概念である(42)。さらに最近では、コンコーダンス(concordance)という概念も提唱されており、これは「患者と医師が対等な立場で治療方針を決定し、実行していく」ことを重視している(43)。
健康探求プロセスの臨床応用
これら5つの要素は、必ずしも順序通りに進むわけではなく、相互に影響し合う。症状の変化や新たな情報により、このプロセスが繰り返されることも多い。この健康探求行動のモデルは、人々の健康に関する行動を理解する上で普遍的な枠組みを提供している。
例えば、糖尿病患者の血糖コントロール不良という状況を考えてみよう。従来のアプローチでは「患者の自己管理不足」として片付けられがちであるが、健康探求プロセスの視点から分析すると、以下のような複雑な要因が明らかになる可能性がある。
症状の定義段階では、患者は血糖値の上昇を「特に問題ない」と解釈している可能性がある。高血糖は通常、明確な自覚症状を伴わないため、検査値の意味を理解していない、または重要視していない可能性がある。
役割行動の変化段階では、糖尿病という診断を受けても、日常生活に大きな制限を感じていない可能性がある。「まだ大丈夫」という認識が、生活習慣の変更への動機を削いでいる可能性がある。
素人相談段階では、家族や友人から「薬を飲んでいれば大丈夫」「少しくらい甘いものを食べても問題ない」といったアドバイスを受けている可能性がある。また、インターネット情報により、根拠のない治療法や健康食品に興味を持っている可能性もある。
治療行動段階では、処方薬の服用は継続しているが、食事療法や運動療法については十分に実行していない可能性がある。また、健康食品やサプリメントを併用している可能性もある。
アドヒアランス段階では、医師との関係性、治療効果への期待、副作用への懸念、経済的負担などが複合的に影響している可能性がある。
このような分析により、単純な「服薬指導」や「生活指導」ではなく、患者の健康探求プロセス全体を理解した上での個別化されたアプローチが可能になる。重要なのは、患者を「非協力的」と判断するのではなく、その行動の背景にある合理的な理由を理解することである。
受診理由アプローチの実践技法
実際の診療において受診理由を探るためには、以下のような質問技法が有効である。
「今日はどうされましたか?」という開放型質問から始まり、患者の自由な語りを聞く。その後、「なぜ今日来院されたのですか?」「何かきっかけがありましたか?」「どなたかに相談されましたか?」といった質問により、受診に至った背景を探る。
Stewart et al.(44)の患者中心の医療方法では、「患者の疾患体験(patient's illness experience)を理解することが効果的な医療の基盤である」とされている。これには、患者の感情、期待、機能への影響、そして疾患の意味の4つの要素が含まれる。
また、Levenstein et al.(45)の患者中心的臨床方法では、「疾患と病いの両方を探る」「人間全体を理解する」「共通基盤を見つける」「予防と健康増進を組み込む」「医師-患者関係を強化する」「現実的である」という6つの構成要素が提示されている。
この健康探求プロセスの理解は、特に初診患者や、症状が不明確な患者、慢性疾患の急性増悪時などにおいて、真の問題を発見し、効果的な治療関係を築くために重要な理論的基盤を提供している。
個人誌の混乱(Biographical Disruption)と再構築
概念の理論的基盤と歴史的発展
1982年にBury(46)により提唱された「個人誌(Biography)」という概念は単なる「人生の履歴」ではなく、以下の構成要因をもつ。
個人の生活史(ライフヒストリー)は、その人が経験してきた重要な出来事、達成、困難、関係性の変遷を含む。これは単なる年表的な記録ではなく、その人にとって意味のある体験として統合された物語である。McAdams(47)のライフストーリー理論では、「人々は自分の人生を一貫性のある物語として構成し、この物語がアイデンティティの核となる」とされている。
アイデンティティ(自己認識)は、「自分は何者であるか」という根本的な問いに対する答えである。Erikson(48)のアイデンティティ理論では、「アイデンティティは生涯を通じて発達し続ける動的なプロセスである」とされている。疾患や障害は、このアイデンティティに重大な挑戦をもたらす。
社会的役割(仕事、地域、家族)は、その人が社会の中で果たしている機能や期待される行動パターンを指す。これらの役割は相互に関連し合い、個人のアイデンティティと社会的地位を決定する重要な要素である。
日常の習慣や当たり前と思っていること(生活ルーチン)は、意識することなく行っている行動パターンや、「これは当然である」と考えている前提を含む。Bourdieu(49)のハビトゥス概念では、「無意識的な行動パターンが社会的実践を規定し、同時に社会構造によって形成される」とされている。
未来への展望(目標、希望)は、その人が描いている将来像や達成したい目標を指す。これは人生の方向性を決定し、現在の行動の動機となる重要な要素である。
個人誌の混乱の3つのレベル
「個人誌の混乱」の把握とその再構築は、近年の家庭医療学における治療論、ケア論の展開においてキーコンセプトとなっている(50)。この概念が画期的である理由は以下の3つである。
第一に、慢性疾患の影響を、単なる身体症状や機能障害としてではなく、人生の物語の「断絶」として捉えた点である。従来の医学モデルでは、疾患の影響は主に生物学的指標(検査値、身体機能など)で評価されていたが、Buryの概念は患者の主観的体験と社会的存在としての側面を重視した画期的なアプローチであった。
第二に、個人誌の混乱が3つのレベルで起こることを示したことである。
当たり前だと思っていた日常生活の崩壊では、疾患により従来の生活パターンが継続できなくなることを指す。例えば、脳梗塞後の片麻痺により、入浴、着替え、食事といった基本的日常生活動作が困難になることは、単なる身体機能の低下ではなく、「自立した大人」としてのアイデンティティの危機をもたらす。
自己解釈の崩壊(なぜ自分が病気になったのかなど)では、疾患の発症により、それまでの人生の意味づけや価値観が揺らぐことを指す。「なぜ自分が」「何か悪いことをしたから」「もっと早く気づけばよかった」といった自問や自責の念が生じ、自己概念の根本的な見直しが必要になる。
社会関係や資源の再動員の必要性では、疾患により従来の社会的ネットワークや支援システムが機能しなくなり、新しい関係性や資源を見つける必要性を指す。就労継続の困難、友人関係の変化、医療・福祉サービスとの新しい関係の構築などが含まれる。
第三に、医療者の役割を新しく定義したことである。医療者は疾患の治療だけでなく、患者の個人誌の再構築を支援する重要な役割を担う。これにより、患者の経験をより深く理解でき、医学的治療だけでなく、生活の再構築支援の重要性を認識でき、より全人的なケアを計画し提供できるようになる。
個人誌の混乱と再構築の実践例
ここで、事例を通じて詳細に考えてみよう。患者は46歳女性で、10年来の線維筋痛症があり、夫と二人のこども(12歳娘、17歳息子)と4人暮らし。長年病院を渡り歩いてきたが、1年前から地元の家庭医にかかるようになり、痛みはあまり変わらないが、日常生活ルーチンが徐々にできるようになっている。
崩壊のフェーズの詳細分析
最初の段階では、説明できない全身の痛みにより、母親・妻としての役割遂行が困難になった。この患者にとって、「家族の世話をする」ことは単なる役割ではなく、自己価値の源泉であった。痛みにより家事や育児が思うようにできなくなることは、「良い母親」「良い妻」としてのアイデンティティを根本から揺るがすものであった。
「なぜ自分が」という問いに答えが見つからず、医療機関を転々とするという行動が生じた。これは単なる「ドクターショッピング」ではなく、自分の苦痛を理解し、意味づけしてくれる専門家を求める深刻な探求行動であった。各医療機関で「異常なし」「ストレス」「更年期」といった説明を受けるたびに、患者の混乱と絶望は深まっていった。
家族との関係性の変化も重要である。支える側から支えられる側への役割転換は、夫婦関係や親子関係に大きな影響を与えた。夫の負担増加、子どもたちへの罪悪感、家族からの理解不足や非難などが、患者の孤立感を深めた。Williams(51)の研究では、「慢性疼痛患者の多くが家族からの理解不足を経験し、これが孤立感と抑うつを増強する」ことが示されている。
転機となる要因の分析
ある家庭医との出会いにより、痛みの「原因探し」から「生活の立て直し」への視点の転換が生じた。この転機は偶然ではなく、以下のような特定の治療関係の質によってもたらされた。
まず、医師が患者の症状を否定せず、苦痛を真摯に受け止めたことが重要であった。「痛みは確かに存在する」「あなたの苦しみは理解できる」という基本的な受容が、患者の絶望感を軽減した。
次に、完全な治癒ではなく、症状と付き合いながら生活を組み立てる視点を獲得したことが重要であった。これは単なる諦めではなく、新しい可能性への扉を開くパラダイムシフトであった。Kleinman(52)は「慢性疾患において、cure(治癒)とcare(ケア)は異なる概念であり、cureが困難な場合でもcareは可能である」と述べている。
再構築のプロセスの詳細
再構築のプロセスは段階的かつ複合的に進行した。
自己理解の変化では、「完治を目指す患者」から「症状とともに生きる生活者」へのアイデンティティの転換が生じた。これは単なる受容ではなく、新しい自己概念の構築であった。痛みを持ちながらも価値ある生活を送ることができるという新しい自己効力感が芽生えた。
生活の再組織化では、できる範囲で家事をこなし、子育てに関わるという現実的な目標設定が行われた。痛みの強い日と軽い日での日常ルーチンの使い分けにより、予測可能性とコントロール感を回復した。これは単なる活動調整ではなく、自分の身体と対話しながら生活をマネジメントする新しいスキルの獲得であった。
家族関係の再定義では、家族メンバーでお互い支え合う新しいバランスの模索が行われた。従来の「母親が全てを担う」モデルから、「家族みんなで協力する」モデルへの転換が生じた。これにより、子どもたちも家族の一員としてより積極的な役割を担うようになり、家族全体の成長がもたらされた。
医療者の役割と介入技法
このケースでは、病気の「治癒」ではなく「生活の質の向上」を目指す家庭医の関わりが、生活史の再構築を支援する重要な要素となっている。医学的介入もむろん並行して実施している。
医師の具体的な介入技法には以下のようなものがあった。まず、定期的な診察により継続的な関係性を構築した。これにより、患者の変化を長期的に観察し、適切なタイミングで支援を提供することができた。
次に、患者の語りを丁寧に聞き、その体験を承認し共感した。これは単なる傾聴ではなく、患者の苦痛の意味を理解し、新しい視点を提供する積極的なプロセスであった。
さらに、小さな改善や成功を積極的に認識し強化した。「今日は少し動けましたね」「子どもさんとの時間を大切にしていますね」といった肯定的なフィードバックにより、患者の自信を回復させた。
また、現実的で達成可能な目標設定を患者と共に行った。完璧を求めるのではなく、その時々の状況に応じて柔軟に調整できる目標により、失敗感を軽減し成功体験を積み重ねた。
他の疾患への応用可能性
Biographyをめぐるコンセプトは、慢性の健康問題全般に適用可能であり、特に医学的介入に限界のある、多疾患併存状態や、心理社会的複雑困難事例、PPS、プライマリ・ケアに頻度の多いメンタルヘルス問題などに適用することにより、新たな治療・ケア計画の道が開かれることが期待される。
例えば、糖尿病患者の場合、診断時の「なぜ自分が」という混乱から始まり、食事制限や定期受診といった新しい生活パターンへの適応、将来への不安と希望の再構築というプロセスがある。従来の糖尿病教育が知識提供中心であったのに対し、個人誌の視点では患者の人生物語の中での糖尿病の位置づけを支援することが重要となる。
また、がん患者の場合、診断告知による個人誌の激しい混乱から、治療期間中の役割変化、治療後の新しい人生設計というプロセスがある。テイラー(53)の研究では、「がん患者の心理的適応には、病気の意味づけ、コントロール感の回復、自己概念の再構築という3つの要素が重要である」ことが示されている。
このように、個人誌の混乱と再構築という概念は、現代医療において増加している慢性疾患や複雑な健康問題に対する新しいアプローチの理論的基盤を提供している。
Healing and Healer
現代におけるHealer概念の再興
現代のプライマリ・ケアの現場でHealerが再び注目されている背景には、医療と社会の複合的な変化がある。家庭医療学の領域では継続的にHealerとHealingに関する基礎的な検討がなされてきた(54)。
歴史的に見ると、Healerという概念は古代から存在していた。古代ギリシャの医師ヒポクラテスは「医師は治療者であると同時に癒し手でもある」と述べ、後にアスクレピオス(医神)の神殿における癒しの実践では、身体的治療と精神的・霊的癒しが統合されていた。しかし、近代医学の発展と共に、医療は次第に技術的・機械的なアプローチに偏重するようになった。
20世紀後半になって、この傾向への反省が生まれた。Cassell(55)は「Healing and the Physician-Patient Relationship」において、「現代医学は疾患の治療には優れているが、患者の苦痛(suffering)の軽減という本来の医療目標を見失いがちである」と指摘した。苦痛は単なる症状ではなく、「人間としての統合性(integrity)が脅かされたときに生じる全人的な体験」として定義される。
現代において、慢性疾患の増加と高齢化により「治癒」を「超えた」ケアの必要性が高まっていることがある。WHO(56)の統計によれば、世界的に慢性疾患による死亡が全死因の約70%を占めており、従来の急性疾患中心の医療モデルでは対応が困難な状況が生じている。また、医療技術は劇的に進歩しているが、その反面で医療の断片化や、患者-医師関係の希薄化という問題も生じている。つまり、医師と患者の距離が離れやすい状況がある。
Healingの理論的基盤
Healingという概念は、cure(治癒)とは区別される概念として理解される必要がある。Koenig(57)は「Cureは疾患プロセスの停止や逆転を意味するが、Healingは統合性の回復、意味の発見、希望の再生を含むより包括的なプロセスである」と定義している。
Quinn(58)は Healingを「生きているシステムが全体性(wholeness)に向かって移行するプロセス」として定義し、以下の特徴を挙げている。Healingは自然なプロセスであり、外部から強制されるものではない。治療者の役割は、このプロセスを促進し支援することである。また、Healingは身体的、精神的、社会的、霊的な全ての次元を含む統合的なプロセスである。単一の側面だけでは真のHealingは起こりえない。さらに、Healingは個人だけでなく、関係性やコミュニティレベルでも起こりうる。家族の癒し、コミュニティの癒しという概念も重要である。最後に、Healingは必ずしも身体的な改善を伴わない。終末期においても、意味の発見や関係性の修復というHealingが起こりうる。
Healerの構成要因
この反省から、患者の人生全体を視野に入れたケアを提供できるHealerの役割が再評価されている。そこで、家庭医療学の領域で議論されてきたHealerの構成要因(59)を実際の事例を通じて解説したい。
事例による実践的理解
患者は14歳女子。朝の腹痛を主訴に診療所外来に父親と受診した。受診6月前に母が子宮がんで他界し、その後不登校になったとのことだった。医師は器質的疾患を除外し、整腸剤を処方し、定期的な通院をすることを提案した。医師は「ひとりで来ていいよ。時間は15分くらいだけど、そのときはなんでもしゃべっていいよ、きいてあげる」と話した。その後患者は欠かさず1週間に一度来院するようになったが、継続的な対話の中で、父や弟との関係、将来はイラストの仕事がしたいといった夢などを語るようになった。
他界した母親の話は当初はなかったが、5回目の診察時に誕生日に母親からもらった筆箱の話になり、このとき患者は初めて涙を流した。腹痛は徐々に改善し、不登校は続いたものの、医師は不登校でもちゃんと社会で活躍している人がたくさんいることを伝えた。自分なりのペースで生活の工夫をしながら、最終的には保健室登校が可能となった。医師は処方等することなく、傾聴と支持的な関わりを通じて、患者の回復プロセスに寄り添った。
安全な関係性の創出
この症例では、14歳の少女の腹痛という身体症状の背後にある、母の死という深い喪失体験と、それに伴う生活の変化という文脈全体を視野に入れた関わりが求められた。
医師の役割は、まず安全な関係性と対話の場を創出することから始まる。「時間は決めるけどなんでもしゃべっていいからね、聞いてあげる」という約束は、患者が自分の物語を語ることのできる安全な空間を確保することを意味する。Winnicott(60)の「ホールディング環境(holding environment)」の概念では、「治療的関係においては、患者が安心して自分の内面を探索できる安全な枠組みの提供が重要である」とされている。
定期的な通院日を決めることで、予測可能性と継続性のある関係性を構築したといえるだろう。これは単なるスケジュールの調整ではなく、患者にとって「支えてくれる人がいる」という確信を提供する重要な治療的行為である。
多面的な人生の物語への傾聴
このような関係性の中で、医師は患者の多面的な人生の物語に耳を傾ける。父親や弟との関係、友人関係、将来の夢など、様々な文脈における患者の姿を理解していく。これは単なる情報収集ではなく、患者の存在全体を承認し、その複雑さと豊かさを理解しようとする姿勢である。
Frank(61)の「病いの語り(illness narratives)」理論では、「人々は病いの体験を物語として構成し、この物語が回復のプロセスにおいて重要な役割を果たす」とされている。この症例では、患者が自分の体験を安全な場で語ることにより、混乱した感情や体験を整理し、新しい意味を見出すプロセスが促進された。
特に母の死という喪失体験については、筆箱という具体的な思い出の品を通して語られるまで、患者の準備が整うのを待つ姿勢が重要だった。これは急がない、押し付けない、患者のペースを尊重するという基本的な治療態度を示している。Kübler-Ross(62)の悲嘆のプロセス理論では、「喪失の受容には時間が必要であり、各段階を十分に体験することが重要である」とされている。
回復のペースの尊重と支持
Healerとしての医師は、患者の回復のペースを尊重し、その人なりの対処の仕方を支持する立場をとる。この症例では、すぐには登校できない状況を問題視するのではなく、患者なりの生活の工夫を認め、段階的な回復のプロセスを支えている。
また、不登校経験者の多様な人生の可能性を示すことで、現在の苦境が永続的なものではないという希望の視点を提供した。これは単なる励ましではなく、患者の将来に対する新しい視点と可能性を開く重要な介入である。Snyder(63)の希望理論では、「希望は目標指向の思考であり、目標に向かう道筋(pathways)と動機(agency)の両方が重要である」とされている。
統合的なケアの提供
このように、現代のHealerとしての医師は、症状の治療者であると同時に、患者の人生の伴走者として、その人らしい回復のプロセスを支える存在となることが求められている。それは医学的な専門性と深い人間理解の統合、そして継続的な関係性の中で実現される役割といえるだろう。
Healerとしての医師の具体的技能
Egnew(64)は、Healerとしての医師が持つべき具体的な技能を以下のように整理している。
第一に、プレゼンス(presence)の技能がある。これは患者と「共にある」ことを意味し、単に物理的にその場にいるだけでなく、心理的・精神的にも患者と共鳴し、支えることを指す。Levinas(65)の「他者の顔」の概念では、「他者との真の出会いは、その人の苦痛や脆弱性に対する無条件の応答責任を伴う」とされている。
第二に、深い傾聴(deep listening)の技能がある。これは単に言葉を聞くだけでなく、患者の体験の全体を理解しようとする姿勢である。患者が語ること、語らないこと、非言語的なメッセージなど、多層的なコミュニケーションを読み取る能力が求められる。
第三に、共感と境界設定のバランスの技能がある。患者の苦痛に共感しつつも、過度に巻き込まれることなく、専門的な支援を提供し続ける能力である。Halpern(66)は「臨床的共感は、患者の体験を理解し共鳴しながらも、治療的判断を保持する複雑なスキルである」と述べている。
第四に、意味の探求と構築の支援技能がある。患者が自分の体験に新しい意味を見出し、人生の物語を再構築することを支援する能力である。これは単なるカウンセリング技法ではなく、医学的知識と人間理解を統合した高度な技能である。
現代医療システムにおける課題
しかし、現代の医療システムにおいて、Healerとしての役割を果たすことには多くの困難がある。時間的制約、経済的圧力、専門分化、技術偏重などの要因により、医師が患者との深い関係性を築くことが困難になっている。
Institute of Medicine(67)の報告書では、「医療の質の向上には、技術的側面だけでなく、関係性の側面の改善が不可欠である」と指摘されている。また、Berwick(68)は「Triple Aim(医療の質向上、コスト削減、患者満足度向上)の達成には、ケアの関係性的側面の強化が必要である」と述べている。
このような状況下で、家庭医療学の Healer 概念は、技術中心の現代医療に人間性を回復させる重要な視点を提供している。それは単なる理想論ではなく、実践可能で効果的なアプローチとして、多くの医療現場で応用され始めている。
おわりに
以上、内科領域の診療に役立つと思われる家庭医療学のいくつかの理論を具体的事例に沿って詳細に紹介した。今回は直接診療にまつわる理論の一部を紹介したが、家庭医療学には家族ケア、地域ケア、ヘルスシステムのマネジメント、生涯教育などに関する理論も多彩に蓄積されていることを付け加えておきたい。
現代の内科医が直面している課題は、単純に疾患を治療するだけでは解決できない複雑さを持っている。高齢化社会における多疾患併存状態、心理社会的困難事例、持続する身体症状、在宅医療のニーズ増加など、これらの課題に対して従来の生物医学モデルだけでは限界がある。
家庭医療学の理論群は、これらの課題に対する統合的なアプローチを提供する。有機体的思考により患者を全人的に理解し、健康探求プロセスにより受診の真の理由を探り、個人誌の概念により慢性疾患の影響を人生の文脈で捉え、Healerとしての役割により技術的治療を超えた癒しを提供する。これらは相互に関連し合い、統合されたときに真の効果を発揮する。
重要なことは、これらの理論を単なる知識として学ぶのではなく、日常診療の中で実践的に活用することである。そのためには、従来の疾患中心の思考から患者中心の思考への転換、効率性だけでなく関係性の質を重視する姿勢、技術的専門性と人間的理解の統合といったパラダイムシフトが必要である。
また、これらのアプローチは決して医学的治療を軽視するものではない。むしろ、医学的専門性を基盤としながら、それを患者の全体的な文脈の中で最大限に活用するための理論的枠組みを提供している。家庭医療学の理論を内科診療に統合することで、より質の高い、患者中心の医療を実現することが可能になると考える。
今後の課題としては、これらの理論の有効性を実証する研究の蓄積、医学教育への体系的な導入、医療システムレベルでの実装支援などが挙げられる。また、日本の医療文化や社会制度に適合した形での理論の発展と応用も重要である。
現代医療が直面している複雑な課題に対して、家庭医療学の理論は新しい視点と実践的な解決策を提供している。これらの理論を理解し、実践することで、内科医はより効果的で満足度の高い医療を提供することができるであろう。
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付記)このエントリー記事は、日本内科学会雑誌に今秋掲載される予定の依頼原稿を、大幅に加筆再構成したものである
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