2025年09月03日
著名経営者を襲ったHTCサプリ事件
2025年8月、経済同友会代表幹事でありサントリーホールディングス(HD)会長の新浪剛史氏が、麻薬取締法違反の疑いで福岡県警の家宅捜索を受けた。この事件は、米国で購入したサプリメントに大麻由来の違法成分THC(テトラヒドロカンナビノール)が含まれていた可能性を端緒とする。新浪氏は9月1日付でサントリーHD会長を辞任し、社会的失脚に追い込まれた。
事件の経緯はこうである。2025年4月、新浪氏は米国出張中に市販のサプリメントを購入した。時差ぼけ対策として健康目的で入手し、米国では合法と認識していた。その後、ドバイ経由でインドへの出張が入り、両国での薬物規制の厳格さから、米国在住の知人にサプリを日本に送るよう依頼した。知人は日本に持ち込み、新浪氏の自宅に郵送したが、新浪氏の家族は「送り主不明の荷物は廃棄する」ルールに従い、これを破棄した可能性があると新浪氏は述べる。
しかし、8月、知人が福岡県在住の弟にサプリを送り、新浪氏宅への転送を依頼した。その知人の弟が7月に別件の薬物事件で逮捕された際、税関情報からサプリのTHC含有疑惑が浮上し、新浪氏の名前が捜査線上に挙がった。
新浪氏は「輸入の指示も所持も使用もしていない」「購入品と捜査対象品が同一かも不明」と主張し、潔白を訴えている。現時点で、警察の成分検査結果は公表されておらず、捜査は継続中である。
この事件は、単なる個人の過失を超え、日本の薬物規制の構造的問題と警察の運用姿勢を浮き彫りにする。なぜ著名経営者が、動機らしい動機もなく「薬物疑惑」に巻き込まれたのか。その背景には、CBDサプリメントを巡る法の曖昧さと、規制当局の意図が見え隠れする。
THCとは何か
THC(テトラヒドロカンナビノール)は、大麻に含まれる精神作用成分であり、日本の大麻取締法で全面禁止されている。1948年に制定された同法は、大麻草の葉・花穂およびその製品(THCを含むもの)を違法とし、所持・輸入だけで刑事罰の対象となる。日本の基準は極めて厳格で、THC含有量が「ゼロ」でない限り違法である。これは、米国が2018年農業改善法で「THC 0.3%未満なら合法」と定めた基準と大きく異なる。
日本の薬物規制の歴史を振り返ると、戦後間もない1947年に「大麻取締規則」が設けられ、翌1948年に大麻取締法が成立。1970年代の薬物乱用防止キャンペーンで取り締まりが強化され、1990年代以降は国際的な大麻合法化の動きとは逆行し、ゼロ基準を維持した。
対照的に、覚醒剤取締法(1951年制定)や麻薬及び向精神薬取締法(1953年制定)も同様に厳格だが、THCの「ゼロ基準」は特に際立つ。これは、科学的合理性よりも「取り締まりの明確さ」を優先した結果である。
米国では、THC 0.3%未満のヘンプ由来製品が合法化されたことで、CBDサプリメント市場が急拡大。成分表示義務はあるが、微量THCは「検出限界以下(ND)」と記載され、表示されない場合が多い。日本のゼロ基準は、この国際的基準とのギャップを生み、市民が「合法」と信じた製品が違法となるリスクを高めている。
CBDサプリメントの法的罠
CBD(カンナビジオール)は、大麻の茎・種子由来の非精神作用成分で、リラックス効果や睡眠改善を謳うサプリメントとして世界的に普及している。日本では、茎・種子由来でTHCがゼロなら合法だが、製造過程で微量のTHCが混入すると違法となる。この「ゼロ基準」が問題の核心だ。
米国で人気のCBDサプリメントは「THC free」を謳うが、精製過程で0.01%程度のTHCが残留する可能性があり、日本の検査技術は高精度で、こうした微量も検出可能である。結果、米国で合法な製品が日本では、検出検査で違法となる。新浪氏が購入したのも、こうしたCBDサプリと推定される。具体的な製品名やTHC含有の証拠は未公表だが、検査精度を上げればTHCは出てくるかもしれない。
この状態は法的罠とも言えるもので、日本市民の予測可能性を奪う。CBD製品は日本国内でも楽天や専門店で販売され、「安全」と宣伝されるが、輸入品の多くは微量THCを含むリスクがある。というか、潜在的なリスクがある。
厚労省は2023年からCBD規制強化を打ち出し、2025年にTHC含有基準の導入を検討中だが、現行法の曖昧さが残る。市民は「どこまでが合法か」を判断できず、知らずに違法行為に巻き込まれる危険が常在する。そこで、脅しをかけてきたのかもしれない。
見せしめとしての摘発疑惑
新浪氏の事件は、単なる法執行を超えた意図を疑わせる。まず、新浪氏に違法薬物の使用・売買動機が見当たらない。経営者として社会的地位が高く、米国で正規に購入可能なCBDサプリをわざわざ違法に扱う合理性は乏しい。本人は「輸入の指示も所持もしていない」と主張し、捜査対象品が自身の購入品と同一かも不明だと述べる。それでも警察は家宅捜索に踏み切り、メディアを通じて「薬物疑惑」が拡散。司法判断前に新浪氏は社会的失脚に追い込まれた。
このタイミングは、厚労省のCBD規制強化方針(2023年〜)と符合する。CBDの普及で「安全」との認識が広がる中、著名人の摘発は「CBDは危険」と警告する効果を持つ。
日本の警察は過去にも薬物事件で著名人を標的にし、社会的抑止力を高めてきた。ゼロ基準の下、微量THCでも形式犯として立件可能な構造は、誰を摘発するかの裁量を当局に与える。これが「見せしめ」の道具となる。
法理論的には、大麻取締法のゼロ基準は「罪刑法定主義」の予測可能性を損なう。市民が合法と信じた行為が違法となり、警察の恣意的介入を許す。この事件は、科学的合理性よりも「行政の便宜」と「社会的恐怖」を優先する日本の薬物規制の歪みを象徴する。動機なき摘発と報道による社会的制裁は、市民社会への過剰な権力行使を示している。