2025年08月08日
甲子園野球の終わりの始まり
真夏の炎天下、砂塵舞うグラウンドで白球を追い、流した汗と涙が「青春の象徴」として語られる。そんな甲子園大会は戦後日本の夏を彩ってきた。しかし、その構造や価値観は戦前からほとんど変わらず、時代の大きな流れから取り残されつつある。いまや、少子化・人材不足・経済的困難・価値観の断絶という複合的な要因が、大会そのものの存在意義を問い直している。そろそろ、甲子園を「当然あるべきもの」とする思考停止をやめ、廃止や大幅な形態変更も含めて議論するべき時期に来ているのではないか。
少子化が削る"競技人口"の土台
2024年、日本の高校生人口はおよそ100万人。昭和後期のピーク時から半減し、その影響は高校野球にも直撃した。2015年に約17万人いた野球部員は、2023年には10万人を下回った。これは単なる数字の減少ではなく、大会の競技的価値を揺るがす問題だ。
特に地方の現場は深刻だ。岩手県では3〜4校が合同でチームを組むケースが常態化し、かつての名門校ですら単独出場は困難らしい。2023年の県大会では、複数の合併チームが当たり前のように登場し、昔ながらの「母校単独出場での甲子園切符」はほぼ幻想と化した。
2022年には野球部自体を持たない高校が全国で10%増加し、地方大会の出場校数は減少した。東北・中国地方では2015年比で10〜20%減、2024年の岩手県大会は史上最低の参加校数だった。こうした状況で「全国から勝ち抜いた精鋭が甲子園に集結する」という前提はすでに崩壊しつつある。
運営を支える人材の枯渇と高齢化
選手だけではない。大会を支える審判や役員も限界に近づいている。2015年に40代後半だった審判の平均年齢は、2024年には50歳を超える地域が多数派である。若手審判はほとんど育たず、試合運営はベテラン頼みのままだ。炎天下での長時間勤務や、地方予選から全国大会に至るまでの過密日程は、もはや高齢化した運営陣には過酷すぎる。
2023年から白い帽子の着用や研修強化といった健康対策が取られたが、これは根本的な解決ではなく延命策にすぎない。ビデオ判定やピッチクロックの導入も一部地域の試験運用にとどまり、AI審判はコストや技術的課題で進まない。
加えて、取材・広報を担ってきた朝日新聞地方支局が2018〜2022年の間に20%縮小したことで、人手不足はさらに深刻化している。人的リソースの先細りは、いずれ大会規模の縮小や形式の簡素化を不可避にするだろう。
主催者・朝日新聞社の経営難という"構造不安"
甲子園大会を主催する朝日新聞社も、もはや安定的な後ろ盾ではない。2015年に約700万部あった発行部数は、2024年には334万部まで半減した。2020年には創業以来最大の419億円の赤字を計上し、2023年も営業赤字が続いた。現状、不動産事業などで純損益を黒字に保っているが、新聞事業の衰退は止まらず、収益構造は不安定なまま改善の兆しはない。
一方、甲子園運営には莫大なコストがかかる。会場使用料、審判・役員の人件費、さらに2025年からは無料ライブ配信や誹謗中傷対策など新たな支出も加わった。デジタル事業(月間1億PV)による収益化は期待されてはいるものの、経済効果約500億円という「甲子園ブランド」の神話は、もはや維持が難しい水準に近づいている。もし主催者の朝日新聞の経営がさらに悪化すれば、大会の形態変更や廃止はいっそう現実味を帯びる。
価値観の断絶と旧態依然の文化
甲子園野球は元来、戦前の価値観を色濃く残すイベントでもある。丸坊主や過酷な練習、炎天下での長時間試合を見ても、いずれも現代社会では健康面や人権の観点から批判が強い。表面化しづらい問題がときおり浮上したりもする。
2018年には投球数制限(週500球)が導入されたが、抜本改革には至らず、熱中症や故障リスクは依然として高い。ジェンダー平等の観点からも、女子の立場や大会参加の制限は時代遅れとされ、2022年以降は丸坊主廃止校が増えている。
SNS上でも「軍国主義的イメージ」や「根性主義の押し付け」への批判が散見され、BBCなど海外メディアも「日本の高校野球の闇」を報じる。現状、部分的な改善は見られるものの、それは古い枠組みをかろうじて現代風に装っただけで、文化的ギャップの解消にはほど遠い。
廃止も視野に
甲子園野球は長年、日本人の集団的記憶を形作ってきたのは事実だろうし、地域の権力機構とも調和してきた。しかし、それはもう、「甲子園」という形式でなければ実現できないものなのだろうか。人口減少で競技人口は減り、運営人材は枯渇し、主催者は経営難、価値観は激変している。これほどの構造的変化が重なっているにもかかわらず、「伝統だから続ける」という理由だけで現行制度を守り続けるのは、社会的にも経済的にも説得力を欠く。誰もがこの状況を口にしづらく、あるきっかけの崩壊をきたいしているかのようだ。
地域密着型の小規模大会、クラブチーム主体の全国大会、あるいは完全な廃止など、選択肢は複数ある。重要なのは、「甲子園」という枠組みに縛られず、次世代の高校野球やスポーツ文化のあり方をゼロから再設計することだろう。甲子園野球は未来永劫継続されるべきであるかのような神話にしがみつく時代は終わっている。廃止も視野に冷静な議論をそろそろ始めるべきだろう。。