2025年08月22日

ヘボン式への移行は日本語の文化を損なう

文化庁の文化審議会が2025年8月20日、ローマ字表記を約70年ぶりに見直し、ヘボン式を基本とする答申をまとめた。これにより、「ち」を「chi」、「し」を「shi」とする英語寄りの表記が学校教育で採用される見込みである。しかし、この方針は日本語の音韻体系を忠実に反映する訓令式を軽視し、英語圏の文化に迎合するものである。言語学的な観点から、ヘボン式への一本化が日本語の独自性を損ない、混乱を招く理由を以下に述べる。

訓令式の言語学的優位性
日本語の音韻体系は、開母音(母音で終わる音節、例:か・き・く・け・こ)に基づく簡潔な構造を持つ。これをローマ字で表す際、訓令式は「ち」を「ti」、「し」を「si」と表記し、日本語の発音を一貫して再現する。例えば、「しんぶん」は「sinbun」と書き、音節の規則性(子音+母音)を明確に反映する。この規則性は、日本語の音韻構造をそのまま文字に落とし込む点で優れている。(厳密にいえば訓令式も不完全ではあるが。)
対照的に、ヘボン式は英語の発音に近づけるため、「し」を「shi」、「ち」を「chi」と表記する。英語の音韻体系では、開母音で終わる音節はまれであり(母音音は米人にも不明である)、「sh」や「ch」は英語特有の摩擦音や破擦音を連想させる。ヘボン式は英語話者の便宜を中途半端に優先する結果、日本語の音韻体系の知覚を歪めてしまう。
訓令式は日本語の音韻体系を体系的に記述する点で一貫性がある。例えば、「さ行」の「さ・し・す・せ・そ」は訓令式では「sa, si, su, se, so」と表記され、子音の連続性が保たれる。「あいうえお」表という日本語話者の音韻知覚と一致する。対して、ヘボン式では「sa, shi, su, se, so」と「sh」が混入し、体系性が損なわれる。言語学的には、訓令式の方が日本語の音韻構造を正確に表現するツールとして優れている。教育の場で訓令式を基盤としつつ、必要に応じてヘボン式を補助的に教えるべきである。(ローマ字入力で、「つ」を「tsu」と入力するのに違和感を感じないのだろうか?)

英語偏重のヘボン式と他言語の例
ヘボン式の最大の問題は、英語の発音体系に過度に依存している点である。日本語の音韻構造は、英語とは根本的に異なる。英語では「see」や「go」のように限られた単語が開母音で終わるかに見えるがこれらは「半母音」とされる「半子音」であり、開母音構造ではない。対して、日本語ではすべての音節が開母音(または「ん」)で終わる。この違いを無視し、中途半端に英語の発音に近づけるヘボン式は、英語の感覚としても好ましくない。
この点を明確にするため、イタリア語のローマ字表記を例に挙げよう。イタリア語では、「さ行」に相当する音を示すなら「sa, sci, su, se, so」となる。「sci」は「シ」と発音され、英語の「sh」とは異なる発音(/ʃ/)を持つ。同様に、「が行」は「ga, ghi, gu, ghe, go」となり、「ghi」は「ギ」(/ɡi/)となる。イタリア語の表記体系は英語の表記体系とは異なる。そういうものなのだ。英語表記に日本語の表記を合わせるのは合理的ではないことは、ヘボン式という英語に依存した表記の非合理性と一致する。そもそもローマ字化は言語ごとに最適なローマ字表記を構築すべきという言語学の原則を体現するものだ。英語偏重の表記は、グローバル化の名の下で日本語の独自性を損なう行為であり、言語学的観点からも問題がある。

ウェード・ジャイルズ式との比較に見る時代錯誤
ヘボン式への移行は、中国語のローマ字表記におけるウェード・ジャイルズ式への回帰に似ているだろう。つまり、時代錯誤である。ウェード・ジャイルズ式は、19世紀から20世紀にかけて英語話者向けに中国語の発音を表記するために用いられた。例えば、北京は「Peking」と表記されたが、これは中国語の音(/pei˨˩tɕiŋ˥/)を正確に反映せず、英語話者の発音に合わせたものだった。現代では、中国語の音に忠実なピンイン(例:Beijing)が標準となり、ウェード・ジャイルズ式は時代遅れとされている。もっとも、このせいで、米人が北京を「ベイジン」のように発音する滑稽さは許容される。
ヘボン式も同様に、英語話者の便宜を図るために作られた。対して、ピンインが中国語の音韻体系を重視したように、訓令式は日本語の音韻体系を重視する。ヘボン式への一本化は、言語学的にはピンインからウェード・ジャイルズ式に戻すような選択である。これは、英語圏の文化への迎合であり、日本語の音韻的特徴を軽視するものだ。

図書館学と実務的混乱の懸念
ヘボン式の公式化は、図書館学の分野にも影響を及ぼす。国際的な目録規則であるAACR(Anglo-American Cataloguing Rules)やRDA(Resource Description and Access)は、各国が定めた公式なローマ字表記を尊重する。日本がヘボン式を公式化すれば、図書館のデータベースや目録はヘボン式に変更する必要が生じるだろう。しかし、既存の資料は訓令式が基本で、移行には膨大なコストと時間がかかる。なにより、無意味だ。
今回の方針では、「Tokyo」や「judo」などの国際的に定着した表記は変更しない。「sinbun」と「shinbun」が混在し、個人名が「RYOTA」と「RYOUTA」で分かれる状況は、データベースの標準化を妨げる。図書館利用者にとっても、表記の揺れは検索の効率を下げる。言語学的には、表記の一貫性が情報管理の基盤であるが、ヘボン式への移行は混乱を増すだけだ。

今回の方針は、日本語の表記文化を損なう「文化の破壊」である。訓令式は日本語の音韻体系を忠実に反映し、文化的アイデンティティの一部である。ヘボン式重視は、英語圏の視点に迎合し、実際の運用では一貫性のない「ぐちゃぐちゃ」な状態を招く。言語学の観点から、訓令式を基盤に教育し、ヘボン式を補助的に認める折衷案が、日本語の独自性を守りつつ、実務的混乱を避ける最善の道である。

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