大相撲の関取衆がテレビのいわゆる「大食い番組」に出演する姿をよくみかけるようになった。力士は「食べることも仕事」といわれ、体を大きくするための大食志向は古くから続く。
ある若手の親方は力士とお茶の間との距離が縮まり、親近感が高まるとして歓迎する。一方で、60代の師匠の一人は「相撲部屋ではあんなことをよくやるのか」とたずねられ、返す言葉に窮したという。明治時代に君臨し力量、品格を備え「角聖」といわれた横綱常陸山(元出羽海親方)は「力士とは力の士(さむらい)」と強く訴えた。そんな関取が大粒の汗をかき、口いっぱいに詰め込んだ食べ物を苦しそうに咀嚼(そしゃく)する様子はどう映るだろう。
翻って、一年納めの11月の九州場所は新関脇場所で12勝を挙げた安青錦が初優勝を飾り、場所後に大関へ昇進した。新入幕から5場所連続11勝以上をマーク。初土俵から所要14場所での大関昇進は、年6場所制が定着した昭和33年以降では琴欧州(しこ名は当時)の19場所を上回る最速記録(付け出しを除く)。異論を封じる結果を残した。
ロシアによる侵攻を受け、戦火にあるウクライナ出身。182センチ、140キロ。幕内平均体重が160キロ前後で定着するなか、頭を上げず、あごを引き、相手の胸に頭をつける前傾姿勢を崩さない。そんな「型」を徹頭徹尾守る気概も伝わってくる。
日本料理に「向付(むこうづけ)」という言葉がある。懐石料理で最初に出される膳の上で、飯碗と汁わんの「向こう側」に置かれる器、またはその器に盛られた料理を指す。もともとはなます、近年では刺し身を指すことが多い。最近ではめっきり聞かなくなったが、相撲にも「向付」という用語がある。頭を相手のあご、または胸に真正面からつけ、相手の前まわしなどを引きつける体勢をいう。安青錦が得意とする体勢そのものだ。
江戸時代の宝暦年間に大関御所ノ浦(ごしょのうら)という力士がいた。東京・富岡八幡宮の大関力士碑には、大きくて見栄えのいい理由だけで番付に載った「看板大関」は除外されており、1人目の雪見山、2人目の白川に続いて御所ノ浦が3人目として刻名されている。173センチの小兵力士ながら「相撲にかけて仙なり」と名人とうたわれ、11年間で7敗しかしなかったという。向付の押しは「牛の押しきたるごとし」と評された。「牛首」という異名もあり、向付の考案者として伝わる。
「押し」は相撲の基本だが、体重の重い相手は重力によって足の裏と土俵との摩擦抵抗が大きくなり、移動させることが難しい。だが、力学の原理からすれば、重いものでも摩擦抵抗を少なくすれば、無理なく移動させることが可能になる。相手の足の裏と土俵の摩擦抵抗を小さくするため、相手に「頭をつけて下から上へ押し上げるようにして前へ出る」。体の小さな力士でも大型の力士を動かすことができる体勢が向付の理だ。
江戸時代の元禄のころ、大関両国が前立髪に結ったまげに櫛(くし)を2枚差して土俵に上がったことがきっかけで、くしをさすことが流行となった。当時のまげに櫛をさした力士絵も多く残っている。二枚櫛の両国は美男子で芝居「濡(ぬ)れ髪長五郎」のモデルといわれる。当時は頭を突くことや胸に頭をつける向付は野暮(やぼ)な取り口とされ、前髪にくしをさすことによって頭をつける相撲など取らないという、自負の表れと解釈されている。
「小よく大を制す」。そんな変遷を経ても、連綿と継がれる向付。懐へ潜る安青錦の安定感をみせつけられると、とても〝野暮〟とは思えない。(奥村展也)