相手と自分、両者を守る
兵庫県 加西市立泉中学校 3年
小篠 誌織(おざさ しおり)
「じゃあ、本当のお母さんじゃないってことなの。
」私が、私自身のことに
ついて友達に伝えると、大抵、このような言葉が一番初めに返ってきます。
その度に、私は体の熱が一気に冷めるような気持ちになります。
養子縁組という言葉は、多くの人が聞いたことがあると思います。養子縁
組とは、血縁関係のない人の間に法的に親子関係を持つことです。婿養子な
どという言葉なら、聞いたことがあるはずです。私は、普通養子縁組ではな
く「特別養子縁組」という制度で、産まれてすぐに今の両親に迎えられまし
た。特別養子縁組は、産みの親との法的な親子関係を解消し、新しい両親と
戸籍上、実の親子関係を結ぶことです。
私を産んでくれた母は体が弱く、シングルマザーでもあったようです。私
を育てたくても、育てられる状況ではありませんでした。私がまだ幼い頃、
母からそのことを聞きました。当時の私はそれほど深く理解しておらず、
「私
にはお母さんが二人いるんだな」というような軽い解釈をしていました。
私が小学校3年生の頃でしょうか。私は友達に初めてそのことを伝えまし
た。すると友達は、
「じゃあ、今のお母さんは本当のお母さんじゃないの」と
言うのです。私は頭の中が真っ白になり、上手く答えられなかったのを覚え
ています。また別の子には「産んでくれたお母さんに捨てられた」という言
葉を受けました。そのとき、私はショックを受けました。今となっては、相手
に悪気はなく、
深く考えて言った言葉ではないことは分かりますが、
当時は、
「なんで養子に出されたんだろう。私はいらない子だったのかな」と深く悩
み、悲しく苦しい気持ちでした。
それから何日か経ち、私は母に特別養子縁組について尋ねました。そこで
初めて、私を養子に出したのは、産んでくれた母が、私にできる精一杯の愛
だったと分かりました。幸せな環境で育ってほしいという、母の想いだった
のです。それを知って、気持ちが楽になるのと同時に、考えが大きく変わり
ました。
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
内閣総理大臣 賞
母と、産んでくれたもう一人の母。どちらも私にとっての「本当のお母さ
ん」であり、私を想ってくれる大切な存在です。
今、
私は小学校からずっと一緒にいる友達には、
そのことを伝えています。
全員が理解してくれていて、今では、共に遊び学べる仲間です。一方で、中学
校になって新しくできた友達には、このことを言うことができていません。
一度話をしかけたとき、やはり、
「本当のお母さんじゃないんだ」と言われ、
その瞬間に上手く答えることができませんでした。
そんなとき、私を支えてくれた言葉が「無理に言わなくてもいい」という
ものでした。すべてを今言う必要はなく、自分が傷つかないよう心を守る手
段として、
「言わない選択」があるのです。自分自身に強制するのではなく、
本当に伝えたい、
と思ったタイミングで、
上手く伝えられなくてもいいから、
少しずつ理解してもらえるように努力していくのです。
私は、小さい頃からずっと、特別養子縁組というものが、どういうものな
のか考えてきました。私には母が二人いる。母も、私を産んでくれた母も、本
当のお母さんで、私を愛してくれています。特別養子縁組というものにとて
も悩むこともありました。
しかし、
今では私にとっての誇りでもあるのです。
私には、私を大切にしてくれる二人の母がいるのですから。
「人権を守る」これは、相手の人権を守ること。そして、自分自身の人権を
守ることでもあるのではないでしょうか。相手のことを知って、色々な方向
から見て、自分で考えて理解する。これが、相手の人権を守ることだと考え
ます。そして、自分自身について伝え、時には無理に言わずに、タイミングを
計ったり、相手に少しでも自分について理解してもらえるように自分なりに
努める。これが、自分自身の人権を守ることです。
私は、相手と自分、両方を守れる人間になりたいです。人は、平面的な存在
ではありません。必ず立体であり、それが球体であるか、立方体であるか、角
錐であるか、または円柱か八面体か、人それぞれです。それらを人が勝手に
決めつけたり、一方の面から平面的に捉えることが、相手を傷つけることに
つながるのだと思います。だから、相手を守るには、様々な方向から見て形
を捉え、理解する必要があるのだと思います。また、自分自身の形を理解し
て、相手にも理解してもらえるように工夫することが、自分自身を守ること
につながるのではないでしょうか。
相手と自分を守るために、私は一歩を踏み出しました。私の一歩が、誰か
の一歩につながることを信じています。
大切な命
愛媛県 愛南町立御荘中学校 3年
宮本 龍太(みやもと りゅうだい)
一人に一つ、平等に与えられた大切な命。そして、いつかは終わりを迎える
もの。だからこそ、そのかけがえのなさを感じるものである。
しかし、
その命を粗末に扱う現実がある。
ロシアによるウクライナへの軍事侵
攻が始まってから500日が過ぎる。
両国の犠牲者は増える一方だ。
テレビで家
族や友人、
大切な人を失い泣き崩れている場面を何度も見た。
それを見るたびに
僕の胸は苦しくなった。
平和な日常が、
死と隣り合わせの不安な日々に一変した
のだ。そして、そのような毎日が今日まで続くとは予想しなかったと思う。
ある日、この戦争について家族で話題になった。
「何で今さら戦争なんか。」、
「何か私たちにできることはないかな。」、
「早く戦争が終わらないかな。」様々な
ことを話した。しかし、本当の戦争の恐ろしさを知ることはできない。これらは
戦争のない平和な世の中に生きる僕たちならではの意見だろう。僕は戦争に反
対だ。なぜなら戦争は命を奪うからだ。失うものは多いが得るものはない。戦場
に赴く兵士には、帰る場所があるし、大切な家族がいる。戦地で無事でいるかど
うかを心配するだろう。そして、その死を悲しむ人がいる。だから僕は早く戦争
が終わってほしい。
僕にも大切な家族がいる。しかし、病気はその大切な家族を奪っていった。僕
が中学校1年生の冬のことだった。中学校への入学を楽しみにしていた小学校
6年生の妹が突然熱を出したのだ。熱は1、2週間続いただろうか。原因が分か
らないまま過ぎていく時間は、僕たち家族にとって、とても長く感じられた。不
安な時間が過ぎていった。
レントゲンを撮ったことで病名が分かったが、
病気と
闘わなければならない厳しい現実がそこにはあった。心の整理のつかない僕は
妹にどう声をかけたらいいかわからず、ただ「頑張れ。
」としか言えなかった。
妹は松山の病院に入院することになった。
始めの1、
2か月を妹は一人で過ご
した。
病気への不安や一人で過ごすことの寂しさを考えると、
僕には我慢できる
だろうか。僕にはできないことを成し遂げる自慢の妹だ。その後、母は付き添い
で妹のいる病院に泊まることを決めた。僕は妹と母がいない生活に違和感を覚
第42回全国中学生人権作文コンテスト
法務大臣 賞
え、寂しさが募った。しかし、辛いのは自分だけではないし、誰よりも辛いのは
妹だと思い我慢をした。
1ヶ月に数度、
妹のお見舞いに行くのが楽しみだった。
妹は僕を見て喜んでくれたが、家に帰れない寂しさや病気との闘いに疲れてい
るのか、眠たそうであった。
中学校2年になった僕は修学旅行をみんなと一緒に楽しんだ。修学旅行を終
えたその夜中、祖母の携帯に一本の電話があった。
「妹が亡くなった。
」と。僕た
ちは急いで松山の病院に向かった。
僕は悔しさと悲しさで胸が一杯になり、
泣く
ことしかできなかった。妹は、中学校生活を送ることなく、亡くなったのだ。家
族や友人など、
大切な人の命が失われることの重大さと深い悲しみや、
もう二度
と会えないのだという喪失感を知った。
一人に一つ、与えられた命。決して軽いものではない。誰にも代わりのきかな
い、かけがえのないものである。僕の命も、あなたの命も。そして、戦争で失わ
れた数多くの人々の命。兵士だけではない。若者やお年寄り、小さな子どもたち
にもその命は平等にあったのだ。
そして、
中学校でバスケットボール部に入るこ
とを楽しみにしていた僕の妹にも。生きたくても生きられなかった命があるこ
とを知ってほしい。
自ら命を絶とうとしている人に僕の思いが届いてほしい。昨年の自殺者は2万人を超え、
その数の多さに驚くばかりだ。
生きているだけで幸
せだという事実を忘れさせるくらいの、
どんなに大きな悩みを抱えていても、与えられたたった一つの命を生きてほしい。
あなたの周りを見回してほしい。
あな
たのことを大切に思っている人がいる。あなたを失ったら深い悲しみに沈む人
が必ずいるのだから。
僕は今、一日、一日を誰よりも大切に生きようと思っている。人間だけではな
い。生き物の全てに大切な命がある。無邪気に殺してはいけない。5匹の金魚と
たくさんのメダカを飼っているが、真剣に向き合って飼えば家族のように思え
てくる。どんな命でも大切にするべきである。いつかはなくなる命だけれど、ど
んな命とも
「一緒に成長したい」
という気持ちを持って接するようにしている。
未来は誰にも分からない。
いつ戦争や病気、
交通事故などで失われるかもしれな
いのだ。だから一日、一日を大切にしたい。皆に平等にある命の重さを知ったか
らこそ、
生きていることの幸せを感じる。
僕は命と向き合う看護師の道を目指し
たいと思っている。
「かわいそう」ではありません
神奈川県 藤沢市立湘南台中学校 3年
寺内 瑞偉(てらうち すい)
「お腹にいるときに病気が分からなかったの。
分かっていたら産まなくても良
かったのにね。かわいそうに。」
これは、
まだ私が保育園児だったときに、
近くを歩いていたおばあさんが突然
発した言葉だ。最初、私は何が起こったのか分からず、声のする方を見上げた。
すると、おばあさんは弟を抱っこしながら歩いている母に向かって話している
ことが分かった。弟は、
先天性の心疾患がある。生まれたときから手術や入院を
繰り返し、1歳過ぎまで、
在宅酸素の機械を使用しなければならなかった。もち
ろん、外出するときには、
大きい酸素ボンベを持たないと外出ができない。だか
ら、
母はリュックサックに酸素ボンベを入れて背負い、
弟を前向き抱っこして園
に迎えに来ていた。弟は酸素ボンベとつないだ鼻カニュレにより酸素を吸入し
ているのが当たり前だった。
のぞきこむように弟を見ているおばあさんに、
母は
それとなく会釈し、
私の手をひいて逃げるように家へ帰った。
おばあさんが言っ
ていた、
「かわいそう」
とは一体何をさしているのだろうと不思議に思ったこと、
母と握っていた私の手には指の跡が赤く残っていて驚いたことを、私は今でも
鮮明に覚えている。
言葉の意味を理解したのは、数年後だった。
たまたま目にした『コウノドリ』
というドラマの中で「出生前診断」
というものがあることを学んだ。これは出生
前に、
胎児の染色体疾患などが分かるものだ。
そのため、
あらかじめ疾患を知り、
出生後の治療に役立てることにも、中絶という結果を招くということにもつな
がるのだそうだ。
あの時のおばあさんの言葉が頭をよぎり、
私は燃えるような怒
りを感じた。
大病と闘いながら生きていくくらいなら、
産まないであげたほうが
良かったのにと言われていたのと同じだということに気がついたからだ。弟は、
生きる価値がないのだろうか、「かわいそう」な存在なのだろうか。
私はそうは思わない。私には、もう一人弟がいるのだが、病気があってもな
くても、どちらも変わらない大切な弟たちだ。毎日よく怒って泣いて笑って騒
々しく過ごしている。決して「かわいそう」な存在ではない。だから、もし悪気
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
文部科学大臣 賞
なく発した言葉だったとしても、
この世に生まれてきた命を、
否定するような恐
ろしい言葉だったということ、本人だけでなく家族全員を傷つける言葉だった
ということを知ってほしいと、心から強く思った。
自分とは異なる面をもつ人のことを「かわいそう」に感じている人が、実は多
くいるのではないかと、私は思う。例えば、私は左利きなのだが、
「右利きに直
さなくていいの。」と聞かれたことや「左利きは不便でしょ。」と言われたこと
が何回もあった。
物心ついたときから左利きなので、
不便に感じたことはなかっ
た。しかし、右利きが多数派で左利きは「かわいそう」というレッテルをはられ
ているような言葉に、
良い気持ちはしなかった。
利き手や病気は生まれながらに
して自分の一部であるのだから、個性みたいなものだと、私は思う。個性は魅力
でもある。みんなが同じでは、むしろ意味がないのではないだろうか。弟は、今
でも感染に気をつける必要があるため、何かと制限があり窮屈さはある。しか
し、できることを、
精一杯楽しんでいるように見える。いつも笑っているから、
自然と周りには人が集まり、
私からしたらうらやましいくらいだ。
弟は魅力のか
たまりである。
「多様性」について、小学校や中学校で学ぶ機会があった。多様性を受け入れ
て生きていくということは、
自分と比べて、
異なる面を持つ他者を
「かわいそう」
だと感じることではないし、みんなと同じでなければ不幸だということでもな
い。その視点にたつことこそが重要だと、私は考えるようになった。
つまり、多様性とは、
一人ひとりの生き方を尊重していくことで、他者を上か
ら見ることでも下から見ることでもなく、
比較することでもない。
有りのままを
認めて、毎日を共に生きることだと思う。
そもそも、苦手なことを克服するため
に費やす時間は人それぞれ違うはずだ。
鉛筆をにぎる練習に、
弟は何ヶ月間費や
したのか分からない。手術の繰り返しで指先に力が入らなくなってしまったか
らだ。でも、
弟は毎日練習して、今では鉛筆をにぎって文字を書けるようになっ
た。それが全てであり、他者との比較は不要なのだ。
できなくて仕方ないとか、代わりにしてあげるというような考え方ではなく、
挑戦していることをそっと見守り、できるようになったことを素直に「すごい
ね」と、声をかけ合える社会になれば、みんなが笑顔になると思う。きっと「か
わいそうに。」
という言葉や考え方もなくなり、誰もが自分らしく自分のペース
で胸をはって生きていけるはずだ。
そんな社会を目指して、
これからも私は弟と
笑顔で生きていく。
我が家の人権問題
広島県 廿日市市立大野東中学校の生徒の作品
「LGBTQ」先日の広島サミットではようやくこの議題が取り上げられ、
世の中では理解が進みつつあるようだ。そんな中、私の家では妹がその当事者
になり、そのことについて考える機会が増えた。
妹は、もともと可愛いものより格好いいものが好きだった。プリキュアより
も戦隊ヒーローが好きで、スカートよりズボンを好んではいた。私は単にそれ
だけの事だと思っていたが、思春期を迎えると妹が女性であることを異常に嫌
がりはじめた。私はそれが理解できなかった。私もスカートやフリフリした可
愛い服は嫌いだが、女性であることは嫌ではない。そのため体のサイズに合わ
ないメンズの服を着ようとする妹の心がわからなかった。女物でも格好いい服
はあるのになぜダメなのか、なぜ同じような柄の服なのにレディースと知った
だけで嫌がるのか、また、それが原因で毎日母と言い争う姿に私はイライラし
た。反発がエスカレートしていくとさらに私は困惑し、ますます腹立たしく思
った。
妹が長かった髪をばっさり切りベリーショートにした時、やっと彼女がLG
BTQに当てはまると理解した。それまでの私は妹の性自認が男だと気付けて
いなかった。なぜなら私たち姉妹は趣味が同じで、よく少年マンガを読んだり
一緒にゲームをしたりする似た者同士だと思っていたからだ。そのため、私が
嫌ではないことがなぜ嫌なんだ、という思いや、私と話している時は昔と何も
変わらないのに、という思いになった。一方で今までの妹の行動はそれが原因
だったのか、とその時ようやく納得した。
しかし、私は妹の性自認について理解してもまだ違和感を感じていた。妹は
急に男友達と遊ばなくなったり、一人称を「私」から「自分」にしたり、高い
声を出さないようにしたり、次から次へと私達が驚く行動をした。今までの妹
を知っているからこそそれらの行動にショックを受け、
「元に戻ってほしい」
と思ってしまうことがあった。
私は今まで、LGBTQに対する偏見はないと思っていた。しかし、いざ身
内がそうなると否定的なことを言ったり、考えたりしてしまうことに気が付い
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
法務副大臣 賞
た。例えばテレビに性的マイノリティの人が出ていても変だとは思わない。む
しろ、そういった人を批判する人達を許せないとさえ思う。ただそれが身内だ
と、
「きっと気の迷いだろう」
「元の妹に戻って」と思ってしまう。このように
して私も家族も妹を、知らず知らずのうちに傷付け、追いつめていたと思う。
私は差別なんて有り得ないと思っていたのに、一番身近な家族にそんなことを
思ってしまった。そしてそんな自分にとても驚いた。そのままでいいよと受け
入れるべきなのに。性的少数者が生きづらい理由のひとつは、こうして家族な
どからも否定されることがあるからだと理解した。
私は妹の事で、LGBTQの問題を身近に感じることができた。おそらく世
の中には、私のようにLGBTQのことを理解している『つもり』の人がたく
さんいると思う。しかし、いざ自分の周りにそういった人が現れたら、否定的
なことを言ったり、思ったりすると思う。それは仕方のないことかもしれない。
ただ、それは私のようにその人を傷つけてしまうことになる。そんな理解した
『つもり』をなくすために、まず自分自身や身近な人がそうだったら......と
色々な想像をしてみてほしい。
世の中にはLGBTQに限らず、あらゆるマイノリティの人達が生きづらさ
を抱えて暮らしている。妹も家で、学校で一日中生きづらさを感じている。私
は、SDGsでも謳われた『誰一人とり残さない』世の中になることを願い、
自分自身そういった人達に起こる問題を理解し、私の正しいと思う行動をして
いきたいと思う。そして皆が同じような気持ちで、少しずつでも世の中が変わ
って家が、学校が、会社が生きづらさを抱えた人にとって、優しい場所になっ
ていってほしいと思う。
おんちゃんが教えてくれたこと
埼玉県 草加市立草加中学校 3年
齋田 凜奈(さいた りんな)
私には、障害者の叔父がいます。私が小学6年生の時まで、一緒に住んでいま
した。私の母の兄なので、
「おんちゃん」と呼ばれています。おんちゃんは、生
まれつき言葉が話せない障害を持っています。
手話ができる訳では無く、
普段は
彼の独自のジェスチャーを使って自分の気持ちを伝えています。
私は小学校3年生の時から、祖父母の家でおんちゃんと一緒に暮らしていま
す。
おんちゃんと暮らし始めた最初の頃は、
特におんちゃんを特別扱いすること
も無く、平和な日々を過ごしていました。おんちゃんの知能は、だいたい5歳く
らいで、少しわがままなところもありますが、暴力的では無く、優しい人で、私
は大好きでした。おんちゃんは、お菓子が大好物で、また、私の兄弟がゲームを
しているところを観ることが大好きでした。
無邪気な笑顔を見ると、
心がほっこ
りしていました。
しかし、
私が小学校高学年になった頃、
おんちゃんが家族の一人であることが
急に嫌になってきました。
以前、
私とおんちゃんが外で一緒に歩いているところ
を友達に見られたことがあります。その時、私は「障害者の隣を歩きたくない。
恥ずかしい。
」と思いました。今、考えてみると、きっとその時から私の心には
障害者への差別意識があったと思います。
私達を目撃した友達は、
おんちゃんに
ついて聞いてきたりはしませんでしたが、
私はそれ以来、
おんちゃんを避けるよ
うになりました。
おんちゃんが私に何か伝えようとしても無視したり、
八つ当た
りしたり、大好きなテレビゲームも観せなくなりました。おんちゃんは、よく本
屋に行っていたので、
私が本屋に行く時は、
遭遇しないかハラハラしていました。
私が中学1年生になった時、おんちゃんが障害者用の施設に入ることが決ま
りました。それまでは、祖父と祖母が身のまわりの世話をしていたのですが、二
人共もう80歳を超えて、体力的に世話が難しくなったからです。私は内心、お
んちゃんと離れることが嬉しかったです。
友達には、
おんちゃんのことは内緒に
していた訳ではありませんでしたが、何となく知られたく無い気持ちがあって
黙っていました。
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
法務大臣政務官 賞
おんちゃんがいない生活にすっかり慣れた、
中学2年生の春休み。
おんちゃん
のいる施設から連絡が来ました。最近、食欲が無く、一日に一食も食べ物を食べ
ていないというのです。
すぐに病院に行って色々な検査をしました。
おんちゃん
は、末期のぼうこうガンでした。家族全員、衝撃を受けました。余命は1ヶ月か
ら2ヶ月と診断されました。
入院する病院を探す間、
少しの間おんちゃんは家で
過ごすことになりました。
私が目にしたおんちゃんは、
本当につらそうでした。
想像以上でした。一日中、嘔吐をして、食べても全て吐いてしまいました。どん
な言葉をかければよいのか分からず、私はまたおんちゃんから逃げました。
入院する病院が決まって、入院する2、3日前のこと。その日、私は友達と遅
くまで遊んで、いつもより遅い時間に帰宅しました。手を洗って、私が少しくつ
ろいでいた時、母が私に言いました。
「おんちゃんが、あなたがいつも着ている洋服を指差して、
『まだ帰ってこな
いの?』って心配してたんだよ。ずっと待ってたの。」その瞬間、
私は涙があふれそうになりました。
私はおんちゃんにひどいことを
たくさんしたのに、
おんちゃんは、
私のことをこんなにも想ってくれていたので
す。嬉しい、ごめんなさい、ありがとう。言葉にならない感情でいっぱいになり
ました。
その後、
おんちゃんの入院生活が始まりました。
日に日に弱々しくなっていく
姿を見るのは悲しかったですが、
私は逃げませんでした。
1週間に1回はお見舞
いに行き、優しい言葉をかけ、おんちゃんの手を握りました。彼が私にしてくれ
たように。
余命宣告を受けた2ヶ月後の、ある日の夜。おんちゃんは、息を引き取りまし
た。亡くなった顔は、とても穏やかで、微笑んでいる様にも見えました。苦しま
ずに逝けたのかなという気持ちと、おんちゃんがいなくなった悲しみが一気に
あふれ出して、
私は泣きました。
いつも冷たい態度をとって本当にごめんなさい。
私は、おんちゃんが大好きでした。
障害者だからといって、
差別をすることは絶対に許されません。
障害者の方達
は、
私達と同じひとりの人間です。
私も少し前までは、
差別をするひとりでした。
でも、おんちゃんが私に教えてくれました。見た目や能力が違っていても、人は
皆「心」を持っていて、平等なのだということ。その違いを互いに認め合い、尊
重し、
手と手を取り合えたのなら、
きっとこの世界に差別は無くなると思います。
人と違うことは当たり前で、決して悪いことでは無いのです。私は、おんちゃん
のように優しい人になりたいです。
こんな姿でまたの再会を
福岡県 福岡県立門司学園中学校 2年
小田 孝太朗(おだ こうたろう)
「マイクロアグレッション」という言葉をどのくらいの人が知っているだろうか。
実は私も、2週間程前にこの言葉と出会った。場所は、市内の公共プールだった。
この日、ぼくはかつてスイミングスクールの選手コースで、ともにライバルとして
競い合っていた友人とともに、この市内の公共プールを訪れていた。友人とは同学年
だ。父はアメリカ、母は日本出身で、現在はアメリカに居住している。いつも前向き
で、絵を描くことが得意な自慢の友人だ。夏休み、来日した機会に、久しぶりにプー
ルでタイムを競い合う約束をしていたのだ。そのプールで、私は2年ぶりに小学校の
ときの同級生と再会した。すると開口一番こう言われた
「すげえ。黒人の友人がおったん。」と。すぐに友人へ振り向くと笑っていたので
「う、うん。」と思わず答え、その場をすぐに離れた。友人は私を気づかってか、
「気にしなくてもいいよ。
しかし、
日本はまだまだマイクロアグレッション多いよな。」とつぶやいた。
「マイクロアグレッション」どういうことなのか。友人に尋ねることも
できず、家に帰って早々に調べてみた。
「マイクロアグレッション」とは、何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見
や差別に基づく、見下しや侮辱、否定的な態度のことだそうだ。意図的でないことも
多いが、
「小さな攻撃性」とも言われ、海外では長らく問題視されているらしい。
ふと振り返ると、私と友人との出会いも「マイクロアグレッション」だったのでは
と、
ある出来事が頭に浮かんできた。
絵の得意な友人と互いに自画像を描いていた際、
「ねえ、肌色貸して。」と声をかけた。友人は2つの色を手に取り、私に貸すことに戸惑っていた。すると友
人の母が、私にこう尋ねた。
「うすだいだい色を借りたいんだよね。
でも、
この子の肌の色はうすだいだい色かな。」当時小学4年生だった私だが、思わず言葉を失ったことを今でも鮮明に覚えている。
数日後、友人の母が、ある新聞記事を見せてくれた。今から3年程前、プロテニス
第42 回全国中学生人権作文コンテスト
全国人権擁護委員連合会会長 賞
プレイヤーの大坂なおみ選手が、黒人男性銃撃事件に抗議して、準決勝を一旦棄権し
た記事だった。記事を読み進めると、BLM(Black、Lives、Matte
r)運動のことが記されていた。人種差別に対する運動のことで、特に黒人への不当
な暴力などを排除していく運動のことだ。日本では当時多くの人が、大坂なおみ選手
の棄権を疑問視した。しかし友人の家族はこの勇気ある決断を誇りに思ったという。
あわせて、日本の人種差別に対する意識の低さを実感し、国によって肌の色の捉え方
に温度差があることに心が痛んだそうだ。
その後両親も含めて、友人の母から来日して悲しい思いを味わった際の話を聞くこ
とができた。日本では、黒人を悪と思う人が未だに多く、同じプールに入ることを断
られたり、
楽しみにしていたレストランの入店を拒まれたりしたこともあったそうだ。
肌の色は違っても澄んだ心の色は同じ。肌の色に捉われることなく接してほしいと願
っていた。心の色は皆同じ。このことが浸透することで交流の輪が拡がり、より豊か
な国際社会になるのではないだろうか。
ところで、完全に消滅しなくてもこの「マイクロアグレッション」を、せめて減ら
すことはできないだろうか。私なりにできることを考えてみた。
一つは、社会に浸透していて固定観念のようになっている「だから」をなくすこと
だ。
女だから、
男だから、
外国人だから、
日本人だから。
こうした無意識な思い込みが
根深いことが偏見にもつながっていると思う。そんな属性に振り回されず、各々を尊
重できる家族、学級、学校づくりに努めていきたい。
もう一つは、言葉のもつ力をいつも意識することだ。父から「言霊」という言葉を
教わった。言葉には、目に見えない強い力が宿っている。一つの言葉で、自分自身だ
けでなく、周囲も幸せにすることができる。言葉は良くも悪くも人間の心理に影響を
与える。心をつなぐ優しく、安心できるそんな言葉を選び、たくさん発していくよう
にしたい。
日々社会は進化し、益々高度情報化社会になるにともない、ネットの中での「マイ
クロアグレッション」
も増加してくるだろう。
これからも、
「マイクロアグレッション」
について知り、学び、考えていくとともに、多くの人に発信して理解を深めてもらい
たい。
相手のことを常に意識し、共感し、受け入れる、また自分自身も大切にできる、そ
んな自他ともに尊重できる人に成長して、
いつかまた自信をもって友人と再会したい。
夢への架け橋
千葉県 学校法人東京聖徳学園
光英VERITAS中学校 3年
田端 美海(たばた みみ)
コーヒーの香りと、
スイーツの甘い匂いが広がるカフェの店内で、
私はある人
を待っている。
「はじめまして。
」覚えたての手話で挨拶をした。
聴覚に障がいをもつ、山口トモさん。私が山口さんを知ったのは、数ヶ月前。
「聞こえないセンパイの課外授業」
というテレビ番組で、
ろう学校の教壇に立っ
た山口さんの姿に衝撃を受けた。
耳に障がいがあることをものともせず、
コーヒ
ーチェーン店で接客業をこなしている。お客さんもスタッフも聞こえる人ばか
りの中で、
工夫してコミュニケーションをとる術を自ら見出だして発信し、
聞こ
えないからという理由で、夢を諦めないでほしいと、生徒たちに訴えかける。私
がもし耳が不自由だったなら、
直接人と会話することを避け、
バックヤードで働
く選択をするだろうと想像した。
生徒たちの大半は、
聞こえていた時になりたか
った職業に就く夢を諦めたと語った。そんな思いを覆す山口さんの前向きな姿
勢と、優しく包み込むような言葉に、深く心を揺さぶられた。電波越しに伝わる
見えない力が、私を強く動かした。私は思いの丈を手紙に書き綴った。この手紙
に感動してくださった山口さんから返信があり、職場である鎌倉のカフェでの
対面が実現したのだ。
山口さんは、
声を発することが出来るので、
山口さんの声を聞き取ることは可
能だが、私が話す声は山口さんには聞こえない。手話の出来ない私は、口を大き
く動かして読み取ってもらったり、
なんとなくのジェスチャーや、
スマホ画面、
筆談等でやりとりをする。
会話中、
表現しやすい言葉を手話で教えてくださり、
手話を知ってほしいという思いが優しく伝わってくる。
働く姿は、
健常者と何も
変わらない。
スタッフさんも、
慣れた手話で自然とコミュニケーションをとって
いる。そんな光景を目の当たりにし、この職場は、障がい者と共に働く、理想の
チームワークが築き上げられているのだと、
確信した。
山口さんは感謝を口にす
る。
「私がここで働けているのは、自分の力だけでは成し得ないこと。共に働く
スタッフの協力、理解、優しさがあってこそ。
」と。
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
一般社団法人日本新聞協会会長 賞
山口さんの勤める会社は、
障がい者の雇用や教育体制等について、
先端をリー
ドする模範的な企業のように感じる。知的、身体、精神、様々な障がいを抱える
スタッフが、全国に350名以上在籍し、個人の特性を生かし、今日も店舗に立
っている。障がいの有無に関係なく、人と人との間に先入観や思い込み、偏見と
いった心のフィルターをもたないというメッセージに、
企業の魅力を感じる。このような企業が日本に広く浸透し、これが当たり前の形となってほしい。
あの日、
別れ際に山口さんが私をハグしてくれた時、
何かを託された気がした。
一緒に何かを変えたい、そんな気さえした。中学生の私には、まだ大きなことを
動かす力は備わっていないが、
今沸き上がる小さな気付きや思いが、
いつか行動
に起こせる原点になるのではないだろうか。
私が調べていく中で目に留まったのは、特に、大学等で行われている「ノート
テイク」という支援だ。聴覚に障がいを抱える学生に対して、研修を受けた学生
有志が、
授業内容を要約筆記したり、
その場で起こっていることをリアルタイム
に文字にして伝える役割を担っている。
聴覚障がいをもつ学生に対して、
他の学
生が得られる情報と同じ情報を平等に提供することが目的だ。
今、
全国の大学の
約70%に何らかの障がいのある学生が在籍しており、
約75%の大学で、
支援
対策がなされているそうだ。3年後、私の進学先にこのような制度があれば、積
極的に参加したいと思う。私の耳が、私の手が、誰かの学びを助け、誰かの人生
の夢を支える一人となるのなら、
この上なく光栄なことだ。
複雑な数学の計算が
解けることや、
見たこともない漢字を使えることも立派な学びだが、
障がい者等
への理解や実践に繋がる教育が、
社会生活において、
より重要ではないだろうか。
身近に学べる仕組みが整えば、
より多くの人が福祉に携わることができ、
手を差
しのべる社会が当たり前になっていくのではないだろうか。
人は支え合って、毎日の生活が成り立ち、自分に無いものを補いながら、生き
ることの大切さを学んでいる。
夢をもち、
それを叶えたいと思う気持ちは皆平等
で、同じスタートラインに立つ権利がある。私は将来、音楽に携わる仕事がした
いと思っているように、
障がいをもつ人たちが、
障がいを理由に諦めることのな
い社会を築きたい。私は、健常者と障がい者、双方の立場に寄り添える架け橋と
なって、
共に支え合える社会の実現に貢献したい。
障がい者が一人では渡れなか
った向こう岸の景色を見に、
これまで成し得なかった新しい世界を見に、
共に歩
こう!この手で、夢を掴もう!
違いを認め合う心
東京都 渋谷区立笹塚中学校 1年
豊山 由紗(とよやま ゆさ)
「君の気のせいじゃない?」
これは小学生の頃、いじめに遭っていることを、先生に相談した時に言われ
た言葉だ。予想外の言葉だったので、まずびっくりした。そして血の気が引いて
いく感じがした。
歯をくいしばっていないと涙がでてきそうだ。
もう話せない。
「分かりました。
」と言って話を終わらせた。
私には持病があるので、小学生の頃からあまり学校へ通えなかった。行ける
日でも親と一緒に登校していた。
病気の事はみんなに説明している。
ただ休みが
ちで、人とは違う学校生活だったので、何か言われるかもと常に心配だった。悪
い予感は的中し、ある日突然集団で無視が始まった。あいさつしても、話しかけ
ても徹底的に無視される。
気のせいと思いたかった。
けれど一緒に来ている親も
確認出来るほどになってきた。もうダメだと思い、先生に相談すると「無視する
子は悪いよね。
それでも君からのあいさつは続けてほしいな。
相手からあいさつ
が返ってこないからといって、
こっちもやめたらダメだよね?」
となぜかダメ出
しされた。努力するのは私の方なのか。私は先生に頼ることをやめた。スクール
カウンセラーと面談もしたが「家の中で楽しみを見つけてみて。
」というアドバ
イスだけで終わった。
しばらくは何もする気が起きず、悲しい気持ちでいっぱいだった。私が学校
へ毎日通えないのはしょうがない事。
誰かがそういう私を見て、
イヤな気持ちに
なるのは止められない事。
理解してほしいと言ったところで、
当人にならないと
本当に理解する事は出来ないだろう。
どうすればいいのか。
散々考えたあげく、
良い答えは出ないと分かった。
そして時間がもったいないと気づいた。
こんな事
で悩んでるのって私、バカじゃないの。命にかかわる事でもないのに。私は人の
顔色をうかがって生活するつもりだったのか。
私はそんなに弱いのか。
悲しい気
持ちはなぜか怒りに変わり、我に返った気がした。
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
日本放送協会会長 賞
「価値観や正解は人によって違うから、自分だけが正しいと思ってはいけない。
努力をしても話の通じない人がいたら、戦わず距離をおきなさい。
」と言われた
ことがある。
もしかしたらいじめる側にも理由があり、
それがその人の正解なの
かもしれない。でも私たちは人間で、頭でしっかり考え、口に出して相手に気持
ちを伝えられる。
そして相手の立場を想像する事だって出来る。
それをせずに相
手を攻撃するのは、もはや話が通じる人間とは思えない。側にいると、傷が深く
なるばかりだろう。だから距離を置き、逃げるしかない。そしてその先には、受
け入れてくれる場所が必要だ。
それは家族の元であればいいし、
理解が得られな
ければ、
分かりやすくアクセス出来る、
フリースクールのような場所が必要だと
思う。
中学1年生の私は、非力で自分の身の周りの事で精一杯だ。でもやりたい事
や将来の夢がある。
叶えるために、
今やらなければいけない事も分かっている。
人に振りまわされているヒマはない。自分で自分を大切にするべきだ。
「人が人らしく生きる権利」自分の人権を守るためには、自分も他人の人権
を守らなければならない。まず人を傷つけない事。自分と違う境遇、自分と違う
考え方や意見を認める心を持つ。
納得が出来なくても、
理解する努力をしてみる。
「そういう物の見方があるんだ。」「私ではその意見は思い付かなかった。
」と相
手との違いを、
ポジティブに楽しむ事がとても大切だと思う。
そうすれば相手も
心を開き、受け入れてくれるだろう。
「多様性を尊重する」とニュースでよく耳にする。これから日本は人口が減
って、
外国人が増えていくのかもしれない。
そうなるとなおさら柔らかい心で、
人種を越えて他人を理解し、
尊重する心を持たないと、
世の中がうまくまわらな
いだろう。排除するのではなく、受け入れる。今は未来につながっている。私た
ちはその準備の真っ只中にいる。
多様性を受け入れ成長していこう。
そしてみん
なが平等で、
生きやすい世の中を、
アイデアを出し合い作っていかなければいけ
ないと思う。
子供の人権を守るために
富山県 富山市立興南中学校 3年
福村 彩華(ふくむら あやか)
私が生まれて間もない頃、
母と父は離婚した。
それからの幼い私は、
父と離れ、
母の元で暮らした時期、兄妹と離れて暮らした時期、母に見捨てられ、一人で施
設に入り暮らした時期などがあり、
様々な場所で様々な人と過ごしてきた。
そし
て、今は、父が再婚し、父と、血の繋がっていない母・兄妹・祖母と一緒に生活
をしている。幼い頃の出来事だが、今でもその時に感じた辛く寂しい思いは、嫌
になるほど覚えている。
忘れたくても忘れられない。
心のタトゥーみたいなもの
だった。
私は、
この過去の出来事から、
家庭環境による子供の人権について考えたこと
がある。それは、子供の人権を守る存在は大人であるということだ。過去の私に
は、
決める権利がなかった。
住む場所も一緒に住む人も私が望むものではなかっ
た。生まれて間もない頃で喋られないから仕方ないのかもしれない。でも、それ
が私が成長した時に私を苦しませる材料となるのなら、誰が責任を取ってくれ
るのだろうか。決して、私は、過去を勝手に決めたことに文句を言っているわけ
ではない。少しは、私のことを考えてくれたと思うし、何より、過去を刻んだ以
上、それを言い訳にせず、今を正解にしていくことが、私にできることであるか
ら。でも、このような人は、私以外にもたくさんいると思う。子供の権利や人権
を大人が奪って良いのだろうか。子供の純粋な心を大人の事情によって苦しま
せて良いのだろうか。
大人の事情で嫌な思いをしたり、
子供の未来が奪われたり
することは、立派な人権侵害だと思う。だからこそ、保護者が最後まで自分の手
で子供を育てる責任を持つことが必要であると思う。
また、私は、過去の経験から、家族についての理解が変わっていた。私は、施
設での生活の時、血の繋がっていない、年齢も性別も異なった、共通点が少ない
人と過ごしていた。しかし、その場所での生活は、とても温かいものであったと
思う。ころころと変わる環境に身を置き、母に見捨てられ、内気な性格だった私
に、施設の先生やみんなは、にこやかな笑顔で話しかけてくれた。私はその時、
孤独だった心に優しさが溶け込んでいくような気がして、
本当に嬉しかった。家第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
法務事務次官 賞
族は、血が繋がっている。だから、なんでも分かりあえる。なんてことはない。
施設の人や現在の母のように、
血が繋がっていなくても、
安心できる人がいる。
逆に、血が繋がっていても、安心して暮らせないような人もたくさんいる。
「家
族」それは、安心して一緒に暮らすことのできる人。これからも、私は、自分が
安心して一緒に暮らすことができると思う家族を大切にして、生きていきたい。
家庭環境や親の選択によって子供の夢や希望が制限される現代。そんな現代
の家庭による子供の人権侵害は、
外から見ると、
最も気づきにくいものであり、
自分から言い出しにくいものであり、
簡単に改善できないものである。
だからこ
そ、
年々家庭内での人権侵害の事例が多くなっていき、
本当は生きる権利のある
子供が命を落としていくのだと思う。では、私達ができることは、何なのだろう
か。それは、
「弱さを見せる強さを持つこと」である。弱さを見せる強さを持つ
ことは、相手に相談する時のことである。生きていれば誰だって、一つや二つ、
心に傷を負っている。でも、いつだって私達は、自分の心の中しか分からない。
それを他人に見せるか見せないかはその人の自由だけれど、
もし、
それが原因で
自分を壊してしまうのなら私はすぐに誰かに打ち明けてほしいと思う。
私も、今までこの過去の出来事を誰にも話せなかった。
でも、
少しでも私と同じ思いをし
ている人の力になりたくて、大人の皆さんに訴えたくて、勇気を出した。自分の
弱みを見せるのは、怖いのかもしれない。でも、自分の弱みを見せると、人は必
ず強くなれる。私は、そんな人を心の底から応援し、全力で支えたい。
家庭環境による人権侵害は、私達にはこんな対処法しかできない。でも、大
人という存在が変われば、この問題自体がなくなっていくのではないだろうか。
子供には、大人の皆さんの気持ちなんて分かりたくても分からない。でも、どん
なに小さな子供でも大人と同じ量の人権をみんな必ず持っている。
だから、
私は、
子供だけど、大人に意見を言う。子供だからこそ、大人に意見を言う。今は小さ
な叫びだけれど、
いつか大きな叫びになることを願って。
現実から目を背ける大
人を奮い立たせ、多くの子供の人権を守るために、私は、努力をし続ける。弱さ
を見せた強い心で。
私にも夢がある
福岡県 久留米市立青陵中学校 1 年
岩根 伊佐(いわね いさ)
「おい、外人。お前外人やろ。」5才の時、
保育園で初めて同じクラスの子に言われたとき、
私はびっくりして
体が固まってしまいました。周りの子も一緒になって「外人、外人」とからかい
ました。私は初めて「外人」という言葉を聞いたのでわけが分かりませんでした
が、なんとなく悪いことなのだろうと思いました。家に帰ってから母に
「外人って何?おれ外人やと?」
と尋ねると、
父親が外国出身だと教えてくれました。
その説明を聞いても5才の
私にはピンときませんでした。私の父は他の子のお父さんとどう違うのか分か
らなかったのです。父は私にとって、いつも優しくて明るい父でした。しかしか
らかわれているうちに、
私だけが他の子と違っていて、
それはとても恥ずかしい
ことだと感じてきました。赤ちゃんの頃から一緒に遊んでいた仲間からはずれ
て、急に一人ぼっちになった気持ちになりました。小学生や中学生になっても
「外人」と言いながらボールを投げつけられたり、
「黒人」
「背の高いやつはキモ
い。
」などと言われたりが続きました。知らない人から言われた時もショックで
したが、
今まで仲良く遊んでいた友達に言われた時はもっと悲しくなって、
私は
何も言うことができませんでした。周りの人たちも一緒になってからかってく
るのです。私の見た目は周りの人達とは少し違って見えるのだと分かりました。
私は毎日顔も体も隠して生活したいと思いましたが、それは難しいことでした。
親が外国出身であることも、見た目が周りの人と違うことも私にはどうしよう
もありません。どうしようもないので家に帰ってから両親に、
「なんでお父さんは外国人やと?日本人のお父さんがよかった。」と言いました。
両親が悲しそうな顔をしたので、
私はもっと悲しくなりました。
私も父に傷つくことを言ってしまったのです。
ある時、私は学校の図書室でキング牧師の伝記を読みました。キング牧師は
「I have a dream(私には夢がある)
」という言葉から始まる有名な演説を行っ
た人物で、アメリカで黒人差別と闘いました。私は彼の伝記を読んだ時に、残酷
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
法務事務次官 賞
な差別が存在することを学び苦しい気持ちになりましたが、差別と闘うキング
牧師への尊敬の念が生まれました。また、世の中には人種差別の他にも、男女差
別や障害者差別、
身分差別などいろいろな差別があることも勉強しました。
生ま
れつきのことや、
本人にはどうしようもないことをバカにされたり、
生活を制限
されたりして、悲しい思いや不自由な生活をする人がたくさんいるのです。
「差
別」
と聞いたら何か特別なことだと考えられがちですが、
実は特別なことではあ
りません。日常のささいな所で日々、起こっています。おそらく、私に傷つくこ
とを言った人たちは軽い気持ちで差別的な発言をしたのだと思います。でもそ
の発言は私の心を深く傷つけ、
思い出す度に私の胸を苦しめています。
もしその
人たちも海外に行って、逆に肌の色や見た目をバカにされたらどんな気持ちに
なるでしょうか。
私も深く考えず、
いつも私を大事にしてくれた父に差別的な発
言をして、
父を深く悲しませてしまいました。
こうした発言は相手がどう思うか
を考えて口に出さないように気をつけるべきだと思います。
私の父も日本に来てから生活する中で、たくさんの差別的な発言を受けたこ
とがあるそうです。ある時私は父にそれでもなぜ日本で生活しているのかと尋
ねました。
私だったらつらくてここにいたくないと思うでしょう。
すると父は、
傷つくようなことを言う人もいたけれど、それよりもっとたくさんの優しい友
達や励ましてくれる人たちが周りにいるので、日本が大好きだし毎日が楽しい
からと教えてくれました。私はそれを聞いて、確かに私の周りにも、私の見た目
のことを全く気にせず、仲良くしてくれる友達や支えてくれる大人たちもたく
さんいることに気づきました。その人たちのことを考えるととても楽しい気持
ちになり、自分の見た目が他の人と違っていても親がどこの国から来ていても、
恥ずかしがったり悪いことをしているような気持ちになったりしなくてもよい
と感じました。
そのような人たちをお手本にして、
私も他の人の見た目や人種な
どで差別しないように気をつけたいと思います。
キング牧師は「私には夢がある」と語り、差別のない社会で黒人と白人が共に
仲良く生活することを夢見ていました。
私にも夢があります。
生まれつきの個性
をお互いに尊重して、みんな自分に自信を持って胸を張って生活する社会を実
現することです。
それはみんなが幸せに生活できる平和な社会にもなります。一人一人が相手への思いやりを忘れなければ、
それは可能です。
みんなで同じ夢を
実現させませんか。
僕らは今を生きる
愛媛県 今治市立北郷中学校 3年
佐野 洸大郎(さの こうたろう)
去年の秋、僕の祖父は、アルツハイマー型認知症だとわかった。
80歳の祖父は、高齢者の運転免許認定講習に行き、実技試験は合格したが、
認知能力検査で不合格になった。
僕たち家族は、
年を取ったから物忘れがひどく
なったのだと思っていた。僕は、祖父自身もそう思っているだろうと思ってい
た。
軽い気持ちで病院に行ったが、
そこでアルツハイマー型認知症だと診断され
た。僕たちは、驚き困惑した。口には出さなかったが、祖父自身が一番ショック
を受けていたと思う。
それから生活は一変した。祖父は、病気の進行を遅らせる薬を飲むために、運
転免許証を返納した。
今までのように外出が自由にできなくなってしまった。僕の塾の送り迎えもできなくなり、僕は自転車で塾に行くようになった。
祖父は陶芸が趣味で、たくさんの作品を作り、たくさんの賞を取った。陶芸教
室では、先生として生徒に指導をしていた。しかし、教室に車で通えなくなり、
陶芸教室を辞めてしまった。「家にある陶芸場でも創作活動ができるよ。
」と、
僕は明るく勧めてみたが、祖父は、陶芸場にも行かなくなった。毎日、寝て、起
きて、食べて、テレビの前に座って、また寝て、同じことを繰り返した。「外食
に行こう。
」と誘っても、行こうとしなかった。祖父の中で、何かが消えてしま
った。
両親が働いていたので、
僕は、
小さい頃からすぐ裏にある祖父母の家で過ごす
ことが多かった。祖父は、優しくおおらかで、僕の願いを何でも笑顔で聞いてく
れた。しかし、今の祖父は、何度も同じ話を繰り返す。昔話ばかりをする。僕は
思わず「さっきもその話聞いた。
」と迷惑そうに言ってしまった。祖父が認知症
であると分かっているのに、
祖父と話をするのが負担で冷たく接してしまう。それを見た母が「おじいちゃんは、今を生きる人になったんだよ。
」と言って笑っ
た。祖父は、数分前の過去を忘れて、今だけを生きている。そう思うと少し笑え
て、それはそれでうらやましいとさえ思えた。祖母と口論になっても、その数分
後には忘れている。覚えていると腹が立つが、覚えていないから仕方がないと、
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
法務事務次官 賞
祖母は苦笑いしながら、祖父にいつも寄り添っている。
ある時、祖父は僕たち家族に言った。
「自分は、アルツハイマー型認知症だか
ら、いつか皆のことを忘れてしまうかもしれない。もしも、それで皆を困らせる
時が来たら、自分にかまわず、病院に放り込んでくれ。
」と。その言葉を聞いて、
僕は胸が締め付けられた。家族と別れなければならない時が来ることを覚悟し
ている。その気持ちを考えると、とても切なく、悲しかった。僕たちは祖父の考
えを知り、今後のことを家族で話し合い、協力して祖父を支えていこうと決め
た。
中学校の総合的な学習の時間に福祉体験学習が行われた。
僕は
『老人ホームで
の過ごし方』という講座を選んだ。少しでも、祖父のことを知りたいと思ったか
らだ。
そこで認知症の人の気持ちや接し方について学習した。
認知症になった人
は、
自分が認知症かもしれないと自覚していて、
自分が以前と違っているのが分
かると不安になり、精神的にも不安定になる。それが、いら立ちや怒りとなって
表れる。祖父が以前より怒りっぽくなったのは、これが原因だった。認知症の人
は、昔のことをよく覚えているが、最近のことを忘れてしまい、理解ができない
ので戸惑いや疎外感を感じる。優しく「違うよ。
」と声を掛けられても、「自分
は間違っていない。
」とプライドが傷つく。そのような時は、違う話題に変えて
気を逸らすと良いなど、いろいろな場面に応じた高齢者への接し方を学ぶこと
ができた。
福祉体験学習での学習を生かし、家族で祖父への関わり方を工夫するように
した。ほんの少し変えただけで、祖父も他の家族も笑顔で過ごす時間が増えた。
あまり外出をしなくなった祖父が、6月にあった市総合体育大会の水泳競技の
会場に、
祖母と一緒に僕の応援に来てくれた。
その夜、
僕の県大会出場を祝って、
家族全員で外食を楽しむこともできた。
今、日本では高齢化が進み、様々な問題が起こっている。祖父との生活を通し
て、
安心してみんなが暮らせる社会を作るためには、
正しい知識を身に付けて相
手を理解することが必要だと思った。そして、一人で抱え込むのではなく、家族
や社会で協力し合うことの重要性を痛感した。
これから、祖父の認知症は進行していくだろう。それは、悲しく辛いことでは
あるけれど、受け入れなければならない。今後のことを想像し準備しながら、今
を精一杯生きる祖父の話を笑顔で聞き、祖父との時間を大切に過ごしていきた
い。

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