ミルラー事件とも呼ばれる本事件
は、
領事裁判権が撤廃されてから最
初に外国人による殺人事件を扱った
裁判として注目を集めました。いわ
ゆる不平等条約の改正が明治政府の
大きな課題であったことは周知の通
りです。
「不平等」
といわれていた理
由として、
条約を結んだ相手国に領事
裁判権が認められていたことを挙げ
ることができます。これにより、
犯罪
を行った在留外国人はその国の領事
のもとで裁判にかけられることと
なっていました。
そのようななか、
明治政府の改正
交渉が功を奏し、
明治27年
(1894)
にイギリスとの間で結ばれた日英通
商航海条約で領事裁判権の撤廃等が
取り決められたことを皮切りに、
他の
欧米各国とも改正条約が締結されま
した。これらの条約の発効は明治32
年で、
同年に外国人居留地が廃止さ
れ、
内地雑居も認められます。
そして、
その明治32年にロバート・
ミラー事件が起きたのです。まず、事件の経緯を確認していきましょう。
明治32年7月17日、
横浜の旧居留地
にあったライジングサンという居酒
屋で2人の日本人女性と1人のアメリ
カ人男性が死体で発見されましたが、
その被疑者とされた人物がロバート・
ミラーでした。ミラーはニューヨー
ク州の出身でしたが、
横浜に滞在して
酒や女性に溺れていたそうです。ラ
イジングサンは売春宿の顔ももって
おり、
店の経営をめぐる諍いや嫉妬で
ミラーは前述の3人を殺害するに至っ
たとされています。
横浜地方裁判所で8月7日に第1回
の公判が実施され、
日本人裁判官が
法廷に立ちました。ミラーには日本
人弁護士に加え、
バリスターの資格を
もっていたイギリス人牧師が弁護を
行いました。また、
通訳の中にはアメ
リカから日本に帰化した小林米珂が
おり、
後述の控訴審も引き続いて担
当することとなります。審理の結果、
8月19日の判決で謀殺が認定されて
死刑が言い渡されました。そして、ミラーが東京控訴院に控訴したことか
ら、
裁判長を小山温、
立会検事を平沼
騏一郎とする控訴審が始まりますが、
10月14日の判決で原判決が取り消さ
れたうえで改めて死刑が宣告されま
した。なお、
原判決が取り消された理
由は第1審で採証の法則に誤りがあっ
たためと説明されています。ミラー
は上告しましたが、
大審院が棄却した
ため、
平沼騏一郎等の立
会いのもとで明治33年
1月に死刑が執行されま
した。
第1審のときから傍聴
人がつめかけ、
連日のよ
うに新聞が裁判の様子
を報道しました。後に
は講談や芝居の題材に
もされており、
国際社会
との新たな関係を象徴
する事件としても注目
を集めたといえるので
はないでしょうか。
外国人居留地と日本人居住地
の境を示していた居留地境界
石。なお、この石碑は山手居
留地の境界を示していた。
(筆者撮影)
小山温
(帝国法曹大観編纂会
編纂『帝国法曹大観』
改訂第三版、1929)
平沼騏一郎
(帝国法曹大観編纂会
編纂『帝国法曹大観』
改訂第三版、1929)明治33年1月18日官報第4961号(国立国会図書館デジタルコレクション)明治 33 年「帰化米人米珂の広告」
(新聞集成明治編年史編纂会編
『新聞集成明治編年史第十一卷』
林泉社、
1940、国立国会図書館デジタルコレクション)
法務史料
展示室だより
第 58 号
(令和5年9月)
ロバート・ミラー事件
CASE 09
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学名誉教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 髙田久実
司法制度調査会関係文書
明治24年
(1891)、大津事件の報に接した政府首脳は周章
狼狽し、
被疑者津田三蔵を死刑にすべく、
担当判事に圧力を
かけたことは夙に知られています。この時、
七人の担当判事
の内、
死刑適用に反対の上に、
その意向は強固で動かし難い、
との理由で政府が接触を試みなかった者が二人ありました。
その一人が安居修蔵です。
安居家は彦根井伊家の臣で禄は三百石。修蔵は嘉永元年
(1848)
に生まれ、
維新後、
彦根藩史生を振り出しに官途に
進み、
明治7年、
司法権大解部として佐賀の乱の処理に当た
りました。一旦元老院に転じた後、
検事として司法部に戻り、
大審院判事、
同検事、
名古屋控訴院検事長など顕職を歴任し
ました。大津事件の翌年、
大審院長児島惟謙らが待合で花札
賭博をした、
との嫌疑で懲戒裁判に付された
「司法官弄花事
件」
が起こりますが、
懲戒裁判所判事であった安居は、
裁判を
請求した検事総長松岡康毅の手続きに誤りがあるとして、激しく非難しました。後年、
彼の死亡記事には
「資性剛直」
と記
されています。
明治31年、
正規の法学教育を受けていない
「非学歴判事」
が、
一斉に職を追われますが、
安居もこのとき休職辞令を受
けました。その後は、
牛込神楽坂界隈で次々土地を買い求め、
無慮百戸もの貸家を建てて理財に努め、
東京府の高額納税者
となりました。尾佐竹猛博士は
『法曹珍話閻魔帳』
の中で安
居を、
不動産賃貸借に係る権利金の創始者と断定しています
が、
そう断ずる根拠は残念ながらわかりません。
安居修蔵 1848−1915年
司法制度改善ニ関スル諸問題 司法制度調査会 予審制度及未決拘禁制度ニ関スル小委員会議事撮要
昭和9年
(1934)
10月、
司法省は
「司法制度改善ニ関スル
諸問題」
と題する文書を裁判所・検事局・弁護士会・大学等の
関係各所へ送付しました。同文書は司法制度の改善について
28項目にわたり意見を募ったもので、
同文書を受けた各界は
諮問事項に対する意見を表明します。
この作業を受けて、
昭和10年7月、
小原直司法大臣のもと
に司法制度調査会が発足しました。同調査会は、
「司法制度
改善ニ関スル諸問題」
で取り上げられた事項を4項目に集約
して小委員会で審議を行い、
昭和11年12月にその結論を司
法大臣に答申しています。その成果として、
未決拘禁施設に
「拘置所」
との名称を付すきっかけをつくったことなどが知ら
れます。
同調査会で重要な役割を担った小委員会については、
「如
何なる審議が行われたかは不明」
(小田中聰樹
『刑事訴訟法の
史的構造』)とされ、
審議内容は当時の刊行物から断片的に知
りうるのみでした。ところが、
法務図書館に所蔵される
「司
法制度調査会関係文書」
から、
その内容の一部が判明するの
です。寄贈された経緯は不明ながら、
本文書は司法制度調査
会の書記を務めた水野嘉蔵氏の旧蔵文書と思われ、
調査会で
配付された資料や、
議事録の草稿と思われる文書が綴じ込ま
れています。
現在のような公文書管理のルールが定まっていない時代に
おいて、
個人文書は、
法制度の改正経緯を解明する有力な史
料の一つになりえます。法務図書館には、
そうした史料も多
数所蔵されています。

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