「大きく息を吸い込む世界へ」
広島県 学校法人盈進学園盈進中学校 3年
松葉 悠乃(まつば はるの)
何を話しているのかわからない。周りの人が怖い。そう感じたことがあった。
私は6歳の頃から3年間、アメリカで暮らした。生活習慣も言語も違う国で、
何もかもが初めてで、不安ばかりだった。英語もまったく聞き取れず、友だち
もできず、孤立した。
アジア人の私を見て、うわさをしているんじゃないか。そう思えば思うほど、
周りに話しかける勇気を失った。しかし、現地の小学校に通い始めて間もなく、
状況が変わった。英語ができず、消極的だった私に、声をかけてくれる白人の
女の子がいた。私が寂しくないようにと、自分から日本語を勉強し、たどたど
しい日本語で話しかけてくれる笑顔の女の子。その気持ちがうれしかった。だ
から、その子といるのが楽しくて、肌の色や言語の違いが気にならなくなった。
そうして私は、少しずつ積極的に、周りに話しかけるようになり、英語も次第
に使えるようになった。
家族でラスベガスへ旅行に行った時、私は衝撃的な場面に出くわした。私の
目の前にいたフードを被った男性に、いきなり白人男性が暴言を浴びせ、唾を
吐きかけた。フードの男性は抵抗もせず、何事もなかったかのようにそのまま
歩いていた。フードの男性は黒人だった。「ひどいことをされたのになぜ、言
い返さないのだろう」と思ったが、小学2年生の私はただ怖くて、震えていた。
でも中学3年生になった今、私は思う。あの瞬間、まさに目の前で人種差別が
起きていたのだ。人として許されない差別が。今の私だったらあの時、唾を吐
きかけられた黒人男性に、何と声をかけるだろうか。そして、白人男性に抗議
できるであろうか、と。
2020年5月、アメリカで、黒人のジョージ・フロイドさんが、白人警察官に
よる行き過ぎた拘束により、命を落とした。私にラスベガスの記憶がよみがえ
り、抗議デモなどの報道に接するたびに、胸が締め付けられる自分がいた。警
官に9分29秒も首を押さえつけられる中、フロイドさんは27回も「息ができな
い」と訴えた。「袋の中の魚のように、ゆっくりと意識を失っていった。次第
に白目になって、体がぐったりして命がついに消えた」。検察側証人の証言だ。
内閣総理大臣 賞
フロイドさんは、この9分間に何を思ったのだろうか。"I can't breathe"。
彼の言葉が私の頭の中で響くたび、私は息苦しくなった。
私の息苦しさは限界に達しかけていた。そのとき、学校の先輩にその思いを
ぶつけてみた。その先輩は、フィリピン人と日本人のダブルで、生まれつき肌
の色が少し濃い。小学生の頃、友だちに「肌が汚い」とからかわれ心に深い傷
を負っていた。先輩は、高校卒業後、アイルランドへ留学したが、その矢先に、
新型コロナウイルス(COVID-19)の問題が世界を駆け巡った。その流行は、中
国が起源とされたため、アイルランドでは中国人が差別の対象として狙われた。
ある日、先輩は、白人から「COVID-19!」と罵られ、唾を吐かれたり、石を
投げられたりしたそうだ。先輩は、普段はとてもコミュニカティブで、多様な
国籍を持つ友人をもつ。だから先輩は、「自分には人種に対する差別や偏見は
ない」と思っていた。だが、そのとき、自分の差別心を突きつけられたという。
「自分が白人から差別されたことに対する怒りより先に、自分が中国人と間違
われたことに対して不快感を覚えた自分がいた。その感情を自覚したとき、自
分が一人の人間として、恥ずかしいと思った」と振り返る。この話を聞いて、
私は思った。「『自分には差別する心はない』と思うことで、差別を見ようと
しない自分をつくっているんじゃないだろうか。先輩の話は決して他人ごとで
はない。差別は自分の心の中で生まれる。自分にも当てはまることだ。自分の
心を常に見つめる自分でなければ、差別は見抜けない。そう考えられなければ、
私の心はずっと『I can't breathe』のままなのだ」と。
アメリカでは黒人の人口が白人の約5分の1。だが、新型コロナウイルスで
の死亡率は白人よりも黒人の方が高い。命に優劣があってはならないが、アメ
リカの一部の病院では黒人の患者に対して、治療どころか検査さえしてくれな
いという現実があったようである。6歳の私に話しかけてくれた女の子は、こ
の現実をどうとらえているだろうか。
"Black Lives Matter"確かにそうだ。でも私は「All Lives Matter.」(す
べての人の命は大切だ)と訴えたい。フロイドさんが繰り返した「I can't
breathe」という魂の叫びといっしょに。誰もが一人の人間として、誰にでも
分け隔てなく、他者と対等に向き合い、誰もが自分の言葉で、自分に誇りを持
って語れる日々が来るために。そして、6歳の私に、笑顔で話しかけてくれた
女の子のように。I deeply take a breath and shout my words to the world.
私は大きく息を吸い込み、世界にこう叫び続ける。「人はすべて平等で、すべ
ての人が生きる権利を有する」と。
偏見は差別
岐阜県 岐阜市立三輪中学校 1年
深尾 和弘(ふかお かずひろ)
ある日、祖母の部屋で、桜の模様の入った手紙をみつけた。それは、刑務
所から祖母宛てに届いた、受刑者からの手紙だった。手紙には、過ちを犯し
てしまった後悔と共に「刑務所から出たら、しろまるしろまるちゃん(祖母のこと)の作
った手料理が食べたい」ということが書かれていた。
桜の模様の手紙が受刑者からの手紙だと知ったとき、僕は少し怖かった。
罪を犯した人と祖母が知り合いなら、
その人が出所したら祖母に会いに来る
かもしれない。僕たち家族が何か怖いことをされたらどうしよう、と心配に
なった。その気持ちを祖母に話すと、祖母は悲しい顔をして、僕にこんな話
を始めた。
手紙をくれた人は、祖母が働いていた児童養護施設の人だった。学校では
仲間と悪さをするいわゆる問題児だったが、施設では、祖母の体調が悪いと
いち早く気付き気遣ってくれたり、
よくお手伝いをしてくれたりする優しい
人だったそうだ。しかし、学校では悪いことばかりしていたため、先生達か
らよく連絡がきたという。ある時、またその人は仲間と一緒に学校で悪いこ
とをした。仲間の中にはPTA会長の子もいたそうだが、家にまで先生が来
て叱られたのはその人だけだった。
先生達はその人の悪いところばかりを話
し、
その時の悪さもその人だけが悪いと話した。
施設の子への偏見もあった。
祖母が感じるぐらいなのだから、その人はもっと嫌な思いをしただろう。悔
しそうな顔をしていたが、
一切何も言い返さずじっと話を聞いていたらしい。
そんな様子を見かねた祖母が、先生に、
「この子の悪いところは十分わかり
ました。でも、この子の良いところはないのですか。
」と尋ねた。すると先
生達は黙ってしまった。祖母がその人のよいところを話し始めると、それま
で黙っていたその人が、ボロボロと涙を流し声も出さず泣いたそうだ。この
子は悪い子と決めつけず、
一人の人間として良さを認めてもらえたことが嬉
しかったのだろう。その時から、その人は祖母を信頼したのだと思う。養護
施設の職員は何人もいたが、手紙が届いたのは、祖母だけだったのだから。
祖母の話を聞きながら、僕は自分が恥ずかしくなった。罪を犯す人は悪い
人、と決めつけて、会ったこともない人のことを怖い人だと偏見の目で見て
いたと気付いたからだ。罪を犯した人は、刑務所で反省して、人生をやり直
そうとして出所するのに、
僕のような偏見をもった人がいることを知ったら、
法務大臣 賞
とても悲しいし、
また人が信じられなくなってしまうと思う。
偏見は差別だ。
自分が差別の心を持っていたことに落ち込んだ。
祖母は、
そんな僕を見て、
その人の話を続けた。
その人はこの手紙を書き、
出所した後また罪を犯し、刑務所に入ったそうだ。そうなってしまった原因
は、やはり、僕のような世間の差別の目だった。出所してすぐは、差別され
ても、
それだけのことを自分はしてしまったのだから受け止めるべきだと耐
えていた。しかし、なかなか世間の目は変わらない悲しみはどんどん募る。
そんなときに、集まってくるのは、結局また悪い仲間。悪いことをしても止
めてくれる人がいない。そして、また罪を犯してしまった。負の連鎖だ。改
心したときに、その人の職場の人や周りの人が、偏見をもたず、一人の人間
として温かく迎えてくれたら、
再び刑務所に行くことにはならなかっただろ
う。そう思うと、ますます、偏見の目の恐ろしさがよくわかる。みんな同じ
人間なのだから、
今のその人に思いやりをもって接することがとても大切だ
と実感した。
二度目の罪を償って出所したその人は、
結婚相手を連れて祖母に会いに来
たそうだ。罪を犯した人への偏見をもつ人はいただろうが、その人の人とし
ての優しさに気付き、人生を共に歩んでくれる人に出会えたことで、その人
は、負の連鎖から外れることができた。祖母の手料理を食べながら、自分を
受け入れてくれた人を悲しませないように、
これから生きていくと笑顔で話
したそうだ。今でもその人は罪を犯していない。
罪を犯すことはいけないことだ。被害者のことを思えば、許すことはでき
ない。しかし、反省し、新しい人生を歩もうとしている人に対する偏見は、
さらなる悲しみを生む。罪を犯した人が、普通の人生を歩むためには、本人
の努力はもちろんだが、周りの理解が欠かせない。偏見を持たず、過去では
なく今のその人を温かく迎えてくれる人や道を外れようとしたら戻そうと
してくれる人が絶対に必要なのだ。僕も、今から偏見の心を捨て、出会う人
を一人の人間として大切にしていきたい。そうすれば、罪を犯した人が普通
に生きられるだけでなく、そもそも罪を犯す人も減るかもしれない。人が人
として大切にされる権利、それが人権だ。誰もがもっている人権は、偏見の
心をもたず、
思いやりの心をもってお互いに大切にしあうことで、
守られる。
まずは、自分が人権を大切にする人になりたい。
「煌太、お姉ちゃんと手をつなごう」
長崎県 平戸市立中部中学校 3年
川上 琴心(かわかみ ことみ)
弟の煌太は大きな頭になで肩。
そして、
いつもにこにこ と笑っている。
弟はソトス症候群という障害がある。ソトス症候群は、出生時から頭囲
や体つきが大きいし、発達の遅れなどがある。また、同じソトス症候群
の人たちは、皆、同じような顔つきだ。ほとんどの場合は、突然変異で
の発症といわれている。
2012年8月13日、弟は生まれた。私は祖母と家にいて、弟が無
事に、元気よく生まれたと聞き、嬉しくて、嬉しくて、その夜はあまり
眠られなかった。翌日、弟との対面。
保育器の中で、すやすやと眠る弟を見て 、
「私が、お姉ちゃんですよ。」と背伸びをして手を振った。弟の体には 沢山の管がついていたため、そ
の日は抱っこができなかった。退院後、初めて弟を抱っこできる時が来
た。
布団の上に座り、
両腕を広げてかまえ、
しっかりと弟を受け とった。
それから私は弟に、
「私がお姉ちゃんだよ。」「これからよろしくね。
」と
話し掛けつづけたのを覚えている。
小学校に入学した私は、少しずつ弟の障害に気づき始めた。弟の同級
生は皆言葉を覚えて話しているのに、 弟は「あ」、「ん」としか言えない
のを疑問に思い、母に尋ねた。すると、母は弟の障害について話してく
れた。私は、最初は驚いたが、そう気にすることなく、弟と楽しい日々
を送っていた。しかし、成長するにつれ、周りと弟の成長の差や、買い
物に行った時の周りの目が気になるようになっていった。そして私は、
徐々に弟と距離を置いて歩くようになった。本当は並んで歩きたい気持
ちがあったが、周りの目が気になりなかなか勇気が でなかった。
中学1年生のある日、弟といとこと母と買い物に行った。母たちの買
い物が終わるまで弟 と店内を回ることになった。弟は少しずつ物事を理
解できるようになっていたので私も安心していた。しかし、突然 弟が大
好きなお菓子を手にとり、外に出ようとした。私は焦って弟の手からお
菓子をとりあげ、弟の手を引っ張った。弟はその場に座りこみ、大泣き
をして暴れ始めた。私は頭が真白になり、ただただ、弟を落ち着かせよ
うと背中を必死でさすった。泣きわめき、暴れる弟を前に 、私にできる
ことはそれだけだった。
すると、
一緒に来ていたいとこが騒動に気づき、
文部科学大臣 賞
母を呼びに行ってくれたので、
「これで大丈夫。
」とほっと胸をなでおろ
した。その時だ。気づいたのは。私と弟を冷ややかに見る 沢山の人の目
に。入り口から入ってきて私と弟を避けるように足早に去っ て行く人達
に。私は悲しい気持ちと自分の無力さに 胸が一杯になった。そして、車
にのりこんだそのとたん、涙があふれ、止めることができなかった。弟
はいつもどおりいとこと手あそびをしていた。そして、母は黙ってハン
ドルを握っていた。
その日の夜、父に呼ばれ、話しをした。私は、お店で起こった事、そ
の時の気持ちを伝えた。すると、黙って聞いていた父は、
「いい勉強にな
ったね。お前の弟は、その場におった子供さんや同じ2 年生の子供と違
うかもしれんけど、お前の弟は 、この家なら大丈夫だと思ってここに生
まれてきてくれたとよ。だから、
『 私の自慢の弟だぞ』って胸を張れ。」と言った。私は胸が熱くなった。話しを終え、弟の部屋に行くと、また
自然と涙がでてきた。でも、今度の涙はあたたかい涙だった。眠ってい
る弟の顔を見ると、弟を初めて抱っこした時の事がよみがえった。あの
時、ずっと弟に掛けていた言葉。
「私がお姉ちゃんだよ。あなたを守るた
めにお姉ちゃんがずっとそばにいてあげるからね。
」私は、眠っている弟
にあの時と同じ言葉をつぶやいていた。そして"一生弟を大切にしよう
"と自分自身に誓った。
それからは、買い物に行く時、弟と手をしっかりつないで、話しかけ
ながら楽しく歩く。もしも弟が暴れたら、落ち着いて母に連絡をする。
すると、時には、弟を見た同級生や年配の方が優しく声を掛けてくれる
こともある。私と弟の周りには、冷ややかな目や足早に去っていく人ば
かりではないことにも気づいた。
私は、あの日以来、弟と手をつなぐことで、人間や社会の現実の姿が
見えるようになったと思う。決して、いいことばかりではない。でも、
人の温もりや優しさを感じることも多くなった。そして私も弟と一緒に
一歩ずつ成長していると感じる。
いつか、煌太と私はつないで いる手を離し、それぞれの生活をする 時
が来る。その時、煌太も、他の障害がある人も、すべての人が、安心し
て、胸を張って生きられる社会を、私は築いていきたいと願う。
今日も、私は、煌太と手をつなぎ、話しかけながら楽しく、しかし力
強く歩いていく。
決断
宮古島市立西辺中学校 3年
上原 美春(うえはら みはる)
人権なんてもの、この世に存在するのだろうか。長い間ずっと考えてき
た。
小学校一年生の頃から、私は明らかないじめにあっていた。
「死ね」
「お
前なんか居ない方がいい」そんな言葉を聞くのは日常茶飯事だったし、怪
我を負わされる事も当たり前にあった。先生や当事者同士の親を交えて話
し合いをしても、母がクラス替えを頼み込んでも、容赦ないいじめは大人
の目の届かないところで姑息に続けられ、徐々にエスカレートした。幼い
私は「辛いのは私だけじゃない、もっと酷い事をされている人が世の中に
は沢山いるんだ」そんな事を考えて、日々繰り返される攻撃から自分を守
っていた。
大人の言う「辛いことがあればなんでも相談しなさい」なんて全くの綺
麗事だと思ったし、人間が全員平等に生きられる世界なんてあるわけ無い
と、そう思わないと毎日に耐えることが出きなかった。
小学校四年生のある日、一面に「死ね」と書かれた四枚の紙が私の机の
上に置かれていたことがあった。そのひとつひとつ別の人が書いたようで、
私が泣いている横でそいつらはクスクスと笑い合っていた。張り詰めてい
た何かが切れたような気がして、この時私は「逃げる」ことを決めたので
ある。幸いなことに母が転校を許してくれ、更に様々な機関に掛け合って
くれたことであの苦しくてたまらなかった日常に一旦の終止符が打たれ
た。
逃げるという行為は、時に負けだとか、怠惰だとか、そういったふうに
捉えられがちだ。しかし、学校から逃げる。人との関わりから逃げる。こ
の選択は私を繰り返される物理的な痛みから解放してくれたし、日々感じ
ていた生きることに対する絶望から掬い上げてくれた。逃げたことで、明
らかに私の人生は前よりずっと明るいものになったと感じている。だから
私は誰がどんなに否定しようとも自分のした選択を100パーセント認
めてあげたい。あの時下した決断、そして周りに何を言われてもその決断
を許してくれた母のお陰で私は今を生きることが出来ているのだと思う。
十四歳になった今も私は、当時のいじめからくる恐怖から逃げ続けてい
る。
いじめられさえしなければ、私も普通に学校に通えたのだろうか。いわ
ゆる「青春」の時間を笑って過ごすことが出来たのだろうか。たまにそん
法務副大臣 賞
な事を考えるけれど、あの時学校から逃げたことで学校にいるみんなとは
違った経験が出来ていることも確かだ。大好きなピアノや絵画や詩作の時
間を好きな時にとれる。普段なら関わりのなかったコミュニティの方たち
との繋がりもできた。全てあの時学校から逃げる選択をして、その決断を
許してもらえてこその経験たちである。逃げたことで変わろうと思えたき
っかけもできた。初めて会う人に自分から挨拶をする。上原美春ですと、
自己紹介してみる。小さいかもしれないけれど、私の中では前進の為の大
きな一歩だ。
そして改めて人権を考えたとき、もしこの世に人権というものがあると
するのならば、それはひとりひとりのより良い未来のための選択がどこか
に受け入れられることではないかと思う。痛みに耐えるだけが美徳ではな
いと私は心から訴えたい。
私をいじめた人達の心はどこか寂しかったのだろうか。家庭で何かあっ
たのかな、
友達がいなくなるのが怖くて、
自分がいじめられるのが怖くて、
私に刃を向けていたのかな。そんな事を今になって思う。
いじめは決して許されることではないし、他人に自分のストレスをぶつ
けていいはずない。ただ、今、その子たちの心の中にあった暗い部分に触
れられるとしたら、私をいじめなくてもそこから逃げられる逃げ道を一緒
に見つけられるのではないかと思う。母がそうしてくれたように、その子
なりの逃げ道を私は認めてあげられるのではないかと思う。
今の私の夢は、誰かの逃げ道を作れる人になること。母がしてくれたよ
うに、
その人の選択を受け入れられる人になることだ。
夢を叶えるために、
法律を学びたい。その人がその人らしく生きられる道を一緒に探すことが
出来るように、私は世の中の仕組みを知ってそれを生かせる仕事につきた
いと考えている。
来年の春から、
私は高校生になる。
学校から逃げ続けている私は、
三月、
全日制の普通高校を受験するつもりだ。とても怖いけど、頑張りたい。高
校生活の中で沢山選択の機会があるだろう。逃げたいと思うことも沢山あ
るだろう。けれど今、頑張れる気がしている。私には私の決断を最大限信
じてくれる母がいる。そして私は、私が私らしく生きるための権利を確か
に有しているのだから。
「知ること、考えることは守ること」
宮城県 村田町立村田第二中学校 3年
小関 ソフィア(こせき そふぃあ)
私は、日本に生まれ育ち、平和な毎日を送っています。時には悩むこ
ともありますが、それは生活を脅かす ようなものではありません。しか
し、今現在、平和な生活どころか、命まで脅かされている人々がいるの
です。
『戦争』・・私はこの言葉を歴史の中の遠い出来事だと思っていました。
でも、今年になって突如としてこの言葉が身近なものになってしまいま
した。
ロシアによるウクライナ侵攻。
たくさんの罪もない人たちの幸せな暮らしを、そして大切な命を奪う
恐ろしい戦争が、今、実際に起きているのです。
私の母はウクライナ人です。ウクライナには今も祖父と祖母、叔父が
暮らしています。
やさしい笑顔の祖母は、ウクライナで料理人をしていたそうです。そ
の影響もあってか、母は時々、ボルシチやピロシキなどのおいしい料理
を作ってくれます。母のふるさとウクライナは私にとっても、大切な場
所です。
私が最後に家族とウクライナを訪れたのは、十年以上前で、まだ小さ
い時ですが、
お店が立ち並ぶきれいな町並みをうっすらと覚えています。
しかし、この戦争で町は砲撃され、近くに爆弾が落ちたため、祖父母と
叔父は住んでいたマンションを出て、別な町に移らなければならなくな
りました。
戦争が始まってから、母と祖母は毎日のよ うにテレビ電話で話をして
います。子どもたちに心配をかけたくない のか、詳しい状況を話すこと
はあまりなく、互いに笑顔を見せ、明るくふるまっています。でも内心
は、どれほど不安で、どれほど悲しい気持ちでいることでしょう。母が
通っていた小学校が焼け落ちてしまったと聞いたときは、とてもつらそ
うで、私も胸が苦しくなりました。
私の父は、世界情勢についていつも色々と調べていて、沢山の情報の
中から私にも戦争の現状を説明してくれることがあります。
あるとき私は、民間人や民間施設を攻撃することが禁止されているに
も関わらず、病院や学校が標的にされ、罪のない子どもや女性など多く
法務大臣政務官 賞
の市民が犠牲になっていることを聞き、怒りを感じ、批判を口にしまし
た。その時父は、確かにそうだ、ただどんなことも、ひとつの方向から
だけ見て判断し、批判することは危険なことだと話してくれました。
その後、この戦争についての色々な記事を見ている中で、私は、日本
に住むロシア人が一方的な偏見から差別や中傷を受け、
「憎悪犯罪」と呼
ばれるものが起きていることを知りました。この日本でも、戦争によっ
て無関係な人たちが傷つけられている現実があったのです。
そういえば、
ウクライナ人の母は、ロシア人の仲のいい友達と、互いに複雑な思いを
抱いていると聞いたことがありました。
直接的な被害の他にも、この戦争で大きな傷を負っている人は世界中
に本当に沢山いるのだと知り、私は『戦争は最大の人権侵害 』という言
葉の意味を、より深く感じました。
ネット社会に生きる私たちは、日々様々な情報を得ています。誰かの
言動を批判する意見を見ると、それを正義のように感じ、自分でもよく
考えずに批判してしまうことがあるのではないかと思います。それが人
権侵害につながるかもしれないと は思わないで・・。
私は、何事もまずよく「知ろうとする」ことが大切だと思うようにな
りました。そして、多角的な視点で情報を集め、自分で考えて判断する
ことを意識するようになったのです。
そんなとき、生徒会でウクライナへの支援募金をしようという話が持
ち上がりました。自分にも何かできないかと思っていた私は、生徒会メ
ンバーと話し合い、全校生徒の前でウクライナの現状を知ってもらうス
ピーチを行うことにしました。ポスターも作り、期間中は毎日呼び掛け
をしました。その結果、二中生はもちろん、保護者の皆さんや先生方に
も賛同してもらい、予想をはる かに上回る支援金を集めることができた
のです。
金額もですが、みんながウクライナの現状を知り、真剣に考えてくれ
たことがとてもうれしかったです。また、募金の役立て方について、生
徒会メンバーで調べ、話し合ったことで、活動がより実りあるものに な
りました。
『人権を守る』というと難しく感じるかもしれません。でも、何事も
まずよく知ろうとすること、色々な方向から情報を得て、自分で考え、
判断しようとすることが、
人権を守る第一歩だと、
今私は感じています。
戦争や人権についてだけではなく、私たちの日常生活の色々な場面で
も同じことが言えます。校内に掲示してある学校安全スローガン『知る
ことは自他を守ること』この言葉の意味が、今の私にはとてもよくわか
ります。
私はこれからも、知ること、考えることを大切にして、みんなの人権
を守れる人間になりたいと考えています。そしていつも、自分にできる
ことを探して行動する気持ちを忘れないようにしたいと思っています。
気づきたい「笑顔」
神奈川県 横浜市立旭北中学校 3年生の作品
しろまるしろまる菌だ!逃げろ〜」一人の子に向かって言い、走り出すみんな。そ
れが、小学二年の頃のある日に始まった。私もみんなが言っていたし、言
われている子も笑って「やめてよ〜」と冗談混じりに言っているように
聞こえたから一緒になって言った。
それが始まって数日が経った朝、先生が
しろまるしろまるさんを菌扱いした人は自分から名乗り出て。」
と、言った。すごく怒っている様子だった。その瞬間心臓がバクンッと鳴
り、教室でヒソヒソと話す声が次第に大きくなっていくのを感じた。数
分経っても一人として名乗り出ることはなく、痺れを切らした先生は一
人ずつ名前を言っていった。
呼ばれた子は
「おい、
お前もやってただろ!」
と他の子の名前を言い、徐々に言っていた人が明らかになっていった。
だが、私の名前は呼ばれなかった。ホッとした。だって、みんなと比べ
て私は一、二回しか言ったことがないから、私は同じにはならない。そう
だ、そうに決まっていると思い込もうとしていた時、
「あれ、しろまるしろまるもやってたよね?」
自分の名前が呼ばれた。頭からつま先まで冷えきっていくのを感じる。
「え、私?」咄嗟に知らないふりをしてしまった。「あ、そうじゃん。言
ってたよね。」という声が聞こえてくる。その声は多分小さくて、他の人
には聞こえてなかったかも知れない。しかし、私の脳内にはその言葉が
繰り返し聞こえ、嘘をついている苦しさが頭 に打ちつけてくるように感
じた。
言った人達が先生に怒られた後、その人達からこんな声が上がった。
「なんで俺達が怒られなくちゃいけないの?」「だってあいつ笑ってた
じゃんね。」「言われて嫌なら嫌って言えよ。」自分は悪くないと私達は
壁を作っていった。そして、私も悪くないんだと勝手に解釈した。先生
は、
「今日あったこと、自分が何をしてしまったのかをちゃんと親御さん
に伝えてください。」と言っていた。けれど、私は悪いことをしていない
から話すこともないと自分に言い聞かせ、親には言わなかった。
次の日の朝学活で先生が、「昨日のことをちゃんと親御さんに伝えた
人は手を挙げてください。」と言った。次々に挙がる手。みんなが挙げて
いくのを見て、私は汗が止まらなくなっていった。ここで挙げなければ
全国人権擁護委員連合会会長 賞
私はみんなから白い目で見られる...私は小さく手を挙げた。罪悪感で包
まれてその日は一日中気持ちが沈んだ。
私は家に帰ったら自分がしてしまったことを親に伝えなければいけな
いのだと思った。でも、母にしっかり説明すればきっとそんなに怒られ
ないだろう。大丈夫。そう思い込んで説明した。その途端、母の顔は青ざ
めていき悲しそうな声でこう言った。「相手は笑うしかできなか ったか
もしれないでしょ。
笑っていたとしてもその子は傷ついていたと思うよ。」今まで作ってきた壁が壊れたような気がした。母はその言葉を言った後、
その子の家にすぐさま電話をして何度も謝っていた。母からの信頼を失
ってしまったこと。変なあだ名をつけてからかってしまったことの罪悪
感で吐きそうになった。
私もその子に謝罪することを決意した。謝ることで、その子の心の傷
が治るわけでもないし、許されることではないと分かっていた。分かっ
ていたけれど、私は謝ることしかできなかった。翌朝その子に謝りに行
こうとした時、拒絶されるのが怖くて足がすくんだ。でも、私のこの恐怖
よりその子はもっと怖かったのだろうと思い出し、勇気を振りしぼって
謝罪した。その子は「大丈夫だよ。」と優しい声で言い、私を拒絶なんて
しなかった。
その瞬間、
全身についていた重りが外されたように感じた。
ああ、なんてこの子は優しい人なのだろうと心から思った。
私はこの出来事を一度も忘れたことはない。変なあだ名でからかわれ
ているときのあの子の笑顔。あの笑顔は上辺だけでは分からない気持ち
があったのだと思うと後悔が押しよせてくる。私はこの事があってから、
誰か冗談でイジラれていたとしてもその子の顔色や傷ついていないかを
見て後から声をかけるようになった。そうするようになってから周りの
子達から思いやりがあると言われるようにもなりたくさんの良い友達に
囲まれている。
私は、一生の後悔を胸に刻み、二度と同じことはしないし傷ついてい
る人を助けようという気持ちを忘れず、今日を生きていこうと思う。
言葉の力
山口県 下松市立久保中学校 3年
倉田 琉生(くらた りゅうき)
「お前、コロナやったん。
」と笑って聞いてくる友達。僕は今年の春、今
流行している新型コロナウイルスに感染してしまいました。僕は今でもそ
の事をはっきりと覚えています。
三年前の僕は、そんなに簡単にコロナに感染することはないと安心して
いました。感染者数が他の県に比べて少ない山口県にいるということもあ
って、余計に安心しきっていました。
そんなある日のこと、体がだるいなあと思いながらも、熱はなかったの
でいつも通り学校に向かいました。
しかし、
学校についたのはいいものの、
体がだるく、勉強どころではありませんでした。すぐに保健室に行き、早
退させてもらい病院で検査を受けました。するとコロナウイルス陽性と判
断されたのです。
コロナが治った次の週の部活の時のことです。その日はいつも通りグラ
ウンドに向かっていました。そして、着くといきなり友達に、
「お前コロナ
やったん。
」と聞かれました。僕が「うん。
」と答えると友達は「まじかよ。
じゃあお前、あんまり近づくなよ。
」と言いました。それを聞いた瞬間、僕
は頭が真っ白になりました。今まで仲が良かった友達に急にそんなことを
言われ、とてもショックでした。そんな現実から逃げるため「友達は僕を
傷付けるつもりはなかったのかもしれない。
」とか「自分の考えすぎだ。」と思うことにしました。それでも、その一言を忘れることが出来ませんで
した。そして、自分はかかりたくてかかったわけではないのに、なぜかか
ってしまったのだろうと自分を責めるようになりました。
そんなある日のこと、別の友達が僕の様子を見て、どうしたのかと聞い
てきてくれました。僕は相談するかどうか迷いました。それは僕の思い過
ごしかもしれないし、わざわざ自分の問題を友達にも背負わせる必要はな
いと思ったからです。それでも、せっかく心配してくれた友達にも申し訳
ないと思って相談することにしました。友達は僕の話を真剣に聞いてくれ
ました。おかげで、自分の気持ちを吐き出すことが出来、少し楽になりま
した。そして、自分の気持ちを少しずつ整理して立ち直ることが出来たの
です。
その後、相談に乗ってくれた友達を交えて「お前コロナか。
」と言った友
達と話し合いをすることにしました。心配してくれた友達も一緒に説明し、
僕の気持ちを代弁してくれました。話を聞くとやはり傷つけるつもりはな
一般社団法人日本新聞協会会長 賞
かったそうです。コロナにかかった僕を冗談で笑わせて、元気づけようと
したということでした。それを聞いて僕は嬉しい気持ちと、その場で彼の
真意を聞けばよかったという、
後悔の気持ちで一杯になりました。
そして、
今も一時的にでも彼を信じられなかったことを申し訳なかったと思って
います。
今では彼とは何でも話し、思ったことが素直に言い合える関係になって
います。あれ以来、友達とのかかわり方について今まで以上に気を付ける
ようになりました。そして、今回のことからさまざまなことを学び、考え
ることができました。
一つ目は、いじめはいじめようという意思がなくても起こってしまうと
いうことです。つまり、思い違いや言葉の使い方が、いじめに発展するこ
ともあるかもしれないということです。今回相手にいじめたい、苦しめた
いという気持ちがないのに、僕はつらい思いをしてしまいました。それは
相手の思っていることと、自分が思っていることとで行き違いが生まれて
いたからだと思います。行き違いが起きないようにするためには、相手の
気持ちになって考え、言葉を選んで使ったり、疑問に思ったことは相手に
尋ねてみたりすることが大切だと思います。そうすれば受け取り方の食い
違いに気づくことが出来ます。
二つ目は問題を自分一人で抱え込むのではなく、頼れる人に相談するこ
とが大切だということです。僕は有り難いことに、そばに頼りになる優し
い友人がいてくれたおかげで、すぐに気持ちの整理も問題の解決もできま
した。相談することは相手に負担をかけてはいけないと最後まで悩みまし
た。しかし、今は相談してよかったと思います。相談しただけで一人では
ないという安心感がもてます。その安心感がもてたからこそ心に余裕が生
まれ、話し合うことが出来、解決にまで至ったのだと思います。やはり自
分の気持ちを誰かに聞いてもらうのは大切だと思いました。
「そういえば、あの時は本当にごめん。
」と今でも友達は謝ってくれま
す。
「いいよ。おかげで、もっと大切なものに気づけたから。
」僕は前向き
な気持ちで仲直りが出来ました。
今回のことを教訓にして、自分の思いを正確に相手に伝えられる言葉の
力とコミュニケーション能力を身につけたいと思うようになりました。そ
して、困っている人やいじめに苦しんでいる人に手を差し伸べられる人間
になれるよう、今までの自分と違う一歩を踏み出していきたいと思います。
「僕は何人?」
福岡県 筑紫野市立筑紫野南中学校 2年
垣内 隆泰(かきうち りゅうた)
僕の父は中国人で、母は日本人です。父と母は日本で出会い、僕と双
子の妹は日本で生まれました。僕たち家族はそのまま日本で暮らす予定
でしたが、
中国の祖父と祖母が度々僕と妹に会いに行きたいというので、
僕たちが二歳になる前に中国に移りました。
僕たちは幼稚園から日本人学校ではなく、周りの中国人の子どもたち
と一緒に現地の幼稚園、小学校に通いました。幼稚園のときは、僕たち
が中国人と日本人のハーフであることで、差別を受けることはありませ
んでしたが、小学校に入学すると、僕たちは「日本鬼子」という言葉を
数人のクラスメイトから浴びせられました。
「日本鬼子」とは 、日本人の
ことを指す差別用語です。 僕と妹が通った小学校は一年生から六年生ま
でクラス替えがなかったので、ずっと同じクラスメイトでした。僕たち
はその中でじっと耐えて生活するしかありませんでした。学校で問題 が
起こったときは父が先生と話し合い、解決してくれました 。しかし、転
入生が入ってくると、また同じことが繰り返されました。
このことについて母は、
「それは昔、日本が中国に対して行ったことを
考えると、仕方のないことかもしれない。」「だからこそ、初めて日本人
に会った中国人のクラスメイトに、どうしたら自分たちを理解してもら
えるか、きちんと考えて行動することが大切だ。
」と教えてくれました。
母はまさに自らその手本を僕たちに示してくれました。母は中国語を
話せませんでしたが、挨拶程度の言葉を覚え、いつも笑顔で周りの中国
人と接していました。挨拶の後の会話はほとんど意味が分かっていなか
ったにもかかわらず、
嫌な顔もせず、
ずっと笑顔で話を聞いていました。
中国では体育祭などの学校行事は日本とは違い、生徒と保護者が一緒に
なって準備や片付けを行っていました。母はそんな行事にも率先して参
加し、言葉も分からないのに一人で黙々と作業をして いました。
日本放送協会会長 賞
母は行事ごとに度々学校に来るので、次第にクラスメイトとも顔なじ
みとなり、クラスメイトたちも自分たちの知っている日本語を母に聞い
てもらおうと母に話しかけるようになりました。母はいつもの笑顔で覚
えたての中国語を使い、
「凄いね!」と言ってクラスメイトたちを褒めて
いました。
母とクラスメイトたちの心の距離は少しずつ近くなっていき、
学校行事の準備などで母が学校に来たときには、日本人を嫌っていたク
ラスメイトさえもだんだん、母と一緒に作業 をするようになっていきま
した。
僕は中国語が話せるのに周りと距離をとっていたのに 対して、母は中
国語が話せないのに母の周りにはクラスメイトたちが集まってきました。
そして保護者も母に声をかけてくれるようになっていきました。母は僕
に「真面目に接していれば、相手はいつか分かってくれるから。
」と言い
ました。その言葉を信じ、諦めずに周りと接し続けると、それまで「日
本鬼子」と言ったり、嫌がらせをしたりしていたクラスメイトたちは小
学校三年生になる頃には僕たちのことを認め、僕たちも少しずつ周りと
馴染めるようになりました。五年生になる頃には問題が起きても自分た
ちの力で解決できるようになっていました。
五年生の冬休みを利用して日本へ一時帰国しているとき、世界中にコ
ロナウイルスの感染が広がりました。中国に入国できない状況が続き、
僕たちは日本の小学校に通うことになりました。四年生の冬休み のとき
にも日本に来て、そのとき体験学習として日本の小学校に通った経験が
あったので少しは知っている友達もいましたが、いざ、転入するとなる
と、一年前は優しかった友達も話をしてくれず、中には差別的に僕たち
のことを「中国人」と言ってくる人さえいました。中国にいるときには
「日本人」と言われ、日本にいるときには「中国人」と言われ、自分は
一体何人なのか、自分の母国や自分の居場所はどこなのか分からなくな
りました。
そのことを母に話すと「ごめん。
」と僕に謝り、それに続けて「あなた
は日本人でもあり、中国人でもある。そのことを恥じることなく、誇り
に思ってほしい。」「既に二か国語 が話せて、これから英語も話せるよう
になったら、将来自分が何をしたいのか日本と中国だけではなく、その
選択肢を世界に広げることができる。」「今はその将来のための準備期間
だと思って乗り越えてほしい。」「中国のことを快く思っていない友達も
心から接していけば、時間はかかるかもしれないけれ ど、いつかは分か
ってくれると思うから。
」と話してくれました。
僕の心はまだ複雑ですが、時間とともに母の言ったことを本当に理解
して、受け止められる日が来ると信じています。その日が来るまで、僕
は僕であることに自信をもって前に進んでいきたいと思っています。
だれもが理解し合える社会に
京都府 京丹後市立大宮中学校 1年
岡田 芽依(おかだ めい)
「人権」私は人権と聞いて、いじめ、友達 、障害者、差別などいろい
ろな言葉を思い浮かべます。
私は学校で、
「友達を大切にする」
「いじめはしてはいけない」と聞い
たことがあったり、
「自分らしさ」について学習したことがあります。で
も、障害者の人についてはあまり勉強したことがなくて、身近に感じた
ことがありませんでした。店等で見かけると、近寄りがたく思ったり、
変だなと思ったりしていました。
そんな私に、大きな出来事が起こりました。それは小学 二年生の時、
妹の結愛ちゃんが生まれたことです。結愛ちゃんはお母さんのお腹にい
るとき病気が見つかりました。それは、
「 18 トリソミー」という病気で
す。
結愛ちゃんは心臓や脳にたくさんの病気があることが分かりました。
無事に生まれてくる確率は6%で、
平均寿命は二週間だと言われました。
一歳まで生きられるのはほんの 10%だとも言われました。さらに、耳が
聞こえなかったり、立ったり歩いたりすることは難しいとも言われまし
た。ついに結愛ちゃんが生まれてきました。大きな手術を乗り越えて結
愛ちゃんは今四才です。生まれる前に言われていたように、耳が聞こえ
なかったり、首が座らなくて立ったり歩いたりができなかったり、言葉
を話すことができません。
他にも、
手や足に繋がっている指があったり、
食べ物を飲み込むこ とができないので、鼻から胃まで入っているチュー
ブからミルクを飲んだりします。耳の形も違います。こんなふうに、他
の人とは違うところやできないことがたくさんあるけれど、私にとって
それが結愛ちゃんで、結愛ちゃんはただただかわいい妹です。結愛ちゃ
んは、遊んでほしい時は大きな声で叫びます。だっこをしたり、遊んだ
りしてあげると大きな声で笑って喜びます 。私は、人と違うからって結
愛ちゃんのことを恥ずかしいとはまったく 思いません。それよりも、た
くさんの病気の治療をがんばりながら 強く生きている結愛ちゃんを自慢
に思っています。
前に、結愛ちゃんの繋がった指を見た友達が、すごくじろじろ見てき
たことがありました。また、お店ですれ違う人が振り返って見てきたこ
ともありました。
そのとき私は嫌だなと思っていました。
でも今思うと、
法務事務次官 賞
それらはその人が結愛ちゃんのことを知らなかったから、すごく不思議
に思っていただけなのかもしれません。
指の形が違っても、
耳の形が違っ
ても、チューブをしていても、私は何も変だと思いません。それは、結
愛ちゃんが生まれた時からずっと一緒にいて、結愛ちゃんのことをよく
知っているからです。
だから人権を大事にするには、
相手のことを知る、
知ることができなかったら想像するということがすごく大切だと思いま
す。
結愛ちゃんが「あーあー」と大きな声を出して「眠たい」
「遊んで」と
怒るように、他にも障害があって突然大きな声を出す人が いるかもしれ
ません。そういう人を見ると、
「近づきづらい な」などと思うかもしれま
せん。でもきっとその人にも怒っていたり、喜んでいたりと気持ちがあ
るはずです。だからそんな時には、その人の気持ちを想像すると「その
人にもいろいろ思っていることがあるのかな」と少しでもその人のこと
を理解できるのではないでしょうか。
結愛ちゃんは、これまでも今も病気の治療 のためたくさん痛いことを
経験してきました。毎日一生懸命生きています。結愛ちゃん以外の障害
者の人も結愛ちゃんと同じで一生懸命生きていると思います。だからこ
そ障害のある人を見たら、その人も自分と同じ一人の人間で、一生懸命
生きているのだということを考えてほしいです。
人を理解するということは障害者だけではありません。身の周りの友
達でも同じです。相手のことをよく知って理解し、気持ちを考えて付き
合うことで人権を大事にできると思います。まずは相手のことを「知る
こと」で「理解すること」ができ、人権を大切にしていくことにつながっ
ていくのです。
私は結愛ちゃんのおかげで、障害者の人と関わることが増えたり、障
害がある人のことを考えたりできるよ うになりました。だけどまだまだ
人のことを知らなかったり、相手がどう思っているかを考えられていな
いときがあったりします。だから私も、もっといろいろな人と関わり、
いろいろな人のことを知り、相手の気持ちを想像して人と関わっていこ
うと思います。
「また明日。」和歌山県 有田川町立吉備中学校 2年
江川 好香(えかわ このか)
「言葉とは何だろうか。
」そう言われても「言葉とはこうです。
」という
明確な答えのようなものは出てきにくい。それは、言葉がこの世界を構成
しているものの一部として私達の生活に溶け込んでいるからだろう。ある
時には人を勇気づけ、またある時には人を傷つける。そんな言葉と私達は
どのように向き合えば良いのだろうか。
私はある日の休日、スマホでニュースの記事を読んでいた。すると、私
の目に一つの記事が飛び込んできた。それは"ある有名人が自殺によって
亡くなった"という内容であった。そしてその自殺の原因は誹謗中傷だっ
た。
私はこの時こう思った。
匿名で自分の正体が分からないからといって、
他人を罵倒し、誰か一人が非難を始めると、その非難にのっかる。こうい
う人達は自分が発した言葉に責任を持とうとせず、自分がその人より優位
な位置に立っていると錯覚している人達なんだなと。それと同時に、私達
が普段使っている言葉は、人の命をも奪ってしまうほどの力を持っている
のだと気づき、少し恐怖を覚えた。
誰かからの言葉によって自ら命を絶ってしまう、そんな悲しいニュース
を多く目にする中、私はある一人の少女の話を見つけた。その少女は中学
生で、学校ではいじめを受け、先生は見て見ぬふり、勇気を振り絞って親
に打ち明けても、まともに聞いてもらえずにいた。それでも彼女は、中学
校はあと三年間なのだから耐えればいいのだと思っていた。でも、日に日
にいじめはエスカレートしていった。彼女は「何で私がいじめられないと
いけないのだろう。パパやママは私の話を聞いてくれない、先生は見て見
ぬ振りばかり。誰も私の味方なんていない。
」そう思ったそうだ。そして彼
女はついに、明日命を絶とうと決意した。彼女が命を絶つ日、ある一人の
少女が彼女の前に現れた。その少女は、小学校の頃の親友で、中学校に入
り、クラスが離れてからあまり接点がなかった。二人は、久しぶりに話を
した。そして彼女は親友に、涙ながらにいじめを受けていることを話した
のだ。今日、死のうと思っていることも。その後、親友は何も言わず「そ
っか。
」とだけ言ったらしい。そして別れ際、ずっと静かだった親友が彼女
にこう言った。
「また明日。
」音にすれば五文字、文字にすれば四文字。た
ったそれだけの言葉が、彼女がこの世から去ることを引き止めた。彼女は
法務事務次官 賞
この時、こう思ったそうだ。
「生きよう。
」例え親や先生が味方してくれな
くとも、クラスでいじめられようとも、誰か一人でも、私が明日という日
に存在する事を認めてくれるのなら「生きよう」と。私がここで言いたい
のは「自殺はダメだ。
」ということや、
「いじめはいけないことだ。
」という
ことではなく、人の命を奪ってしまうような力を持つ言葉には、それと同
じくらい、人の命を救う力もあるのだということだ。
私は、言葉は扱い方が難しい「道具」なのではないかと思う。例えば、
私達が普段使う包丁、それは料理を作ることもできるが、扱い方を誤れば
人を傷つける凶器にもなる。それと同じように、言葉は、扱い方によって
人を傷つけたり、勇気づけたり、希望を与えたりと、色々な力を持つ「道
具」に変化する。だからこそ、言葉をただの五十音の組み合わせだと思わ
ないでほしい。同じ言葉でも、発する人によって、他人に与える影響は違
う。また、それを受けとる側によっても、その言葉をどう捉えるのかは違
う。言葉はただ存在するだけのものではない。人が自分の中で最もコント
ロールしにくい感情の影響をとても多く受けてしまうからだ。だからこそ、
言葉は扱いが難しく同時に美しく、そして残酷だ。
私は十四年間の人生で、言葉に何度も救われた。大きな舞台に立つ前の
親友や母からの「あなたならできる。」、周りの目ばかりを気にし、苦しん
でいた時の父からの「他人は思ってるよりも、お前のことを見ていない。
大丈夫。」、そんな言葉達を、次は私が誰かに与えたい。何でもない言葉の
一つが、力を持ち、時には誰かの人生を暗闇にしたり、時には誰かの人生
を支えたりして、その人の一部になることもある。そんな「言葉」を理解
したり伝えたりできる能力を持っているのだから、どうせなら人の心を明
るくする為に遣いたい。たとえ、誰かの命を救うなんていう、大きなこと
ができなくとも、日常の小さな言葉で、誰かを笑顔にしたり、勇気づけた
りできたらいいなと思う。
インターネットが普及し、私達は暮らしの中でより多く、他人の言葉に
触れるようになった。そんな現代社会で言葉の使い方を誤れば、どのよう
な世の中になるのだろうか。また、一人一人がたった一言だとしても言葉
に責任を持ち、正しく遣えば、世の中はどのように変化していくのだろう
か。一度、考えてみてほしい。
高齢者の人権を考える
岡山県 津山市立中道中学校 1年
高田 美歩(たかた みほ)
人は誰でも人として尊重され、
人間らしく生きる権利を持っています。
これは子供から高齢者まで全ての人に与えられています。日本は少子高
齢化で長寿社会なので、高齢者の人権問題は大きな社会問題になってい
ると思います。身体的、心理的、経済的、介護の放きや放任などもよく
ニュースに取り上げられています。
私の家は、ひいおばあちゃん、おじいちゃん、お父さん、お母さん、
お兄ちゃんの六人家族です。今はめずらしい四世代が一緒に暮らしてい
ます。ひいおばあちゃんは九十五歳、元気ですが寝たきりで生活をして
います。五年前までは娘であるおばあちゃんが介護をしていましたが、
八月十五日大動脈解離という病気で突然私の前から姿を消しました。そ
の後は孫のお母さんが介護をすることになりました。ひいおばあちゃん
を施設には入れないという決断をしたことにはお兄ちゃんが深く関わっ
ています。おばあちゃんのお葬式が終わるとすぐに、ひいおばあちゃん
のケアマネージャーが家に来てくださって、今後の事について話しまし
た。ケアマネさんは 家で介護を続けるのは無理だろうと、いくつか入れ
そうな施設のパンフレットを持って来て お母さんに紹介していました。
その話を聞いていた小五のお兄ちゃんが、急に
「ひいおばあちゃんは施設に入れません。家が大好きで家族一緒に居た
方がいいんです。帰って下さい 。」と大きな声で怒って言ったのは今でも記憶に残っています。このお兄ち
ゃんの言葉でお母さんは心を動かされ、家で介護をしようと決まりまし
た。お母さんの妹家族にも助けてもらい、それぞれの役割を決め、出来
る人が頑張るということを家族で話しました。しかし、おばあちゃんが
亡くなって五年、お母さんは家事、私達子供の事、仕事、介護、全て必
死でし、自分の事は全てがまんしているように見えます。忙しそうにし
ているお母さんを見ると、時々お兄ちゃんは、
「あの時、言い切ってしまったけんなあ。」と私に言うときがあります。悪かったなあ、かわいそうだなあ、でも家
に居させてあげたいなあというお兄ちゃんの気持ちは痛いほどわかりま
す。お母さんは介護をしながら色々な事を教えてくれます。
「大好きな人
法務事務次官 賞
の介護でも嫌になる時がある」、「訪問入浴やヘルパーさんにも助けても
らい、心通じ合う仲間になる」、「介護されている側でも現状を伝え、が
まんすることも覚えさせる」、「沢山話を する」、「自分で出来ることは手
伝わない」など高齢者と接する時でも相手に 気持ちを伝える大切さを学
びます。お母さんはいつも最後に、好きな物 を食べて、好きなテレビを
見て、好きなことをして寝るのが一日の楽しみだと言っています。そう
して毎日、気持ちを奮い立たせ、気合 いを入れているのだと思います。
この作文を書く前にお母さんが持っている介護の本の中に「人生の最
後の迎え方に関する全国調査の結果」
と書いてあるものを見つけました。
私は気になり、少し読んでみることにしました。人生の最後に迎えたい
場所、
「自宅」58.8%、次いで「医療施設」33 .9%とかいてあり
ました。その理由は、
「自分らしくいられる」
「住み慣れているから」な
どがあげられていました。
日本では、
約八割の人が病院で亡くなる一方、
人生の最後は自宅で迎えたいと多くの人が望んでいることがわかりまし
た。また、介護して いる人も高齢者という「老老介護」や、介護のため
に仕事を辞めなければならないといった「介護離職」の問題も起こって
いるようです。家で過ごしたくても、さまざまな条件が整わないと無理
だということも理解できました。
今年もお盆が来る前にお母さんと一緒にお墓掃除に行きま した。暑い
夏ですぐに花はかれてしまうけど、おばあちゃんは花が大好きだったの
で、色んな種類の花を花筒に入れました。私はお母さんに、
「忙しくてなかなか掃除に来れんかったけん、きれいにして帰ろう。」と話しました。掃除が終わると、お母さんが私に、
「 お 墓 に 居 る 人 や ひ い お ば あ ち ゃ ん が 頑 張 っ て く れ た か ら 今 が あ る ん
よ。」と言いながら線香を渡してくれました。私は最後に手をあわせて帰りま
した。
高齢者は身体的におとる場合が 多いけれど、知識や経験は誰よりも豊
富です。私達を助けてくれ、家庭 や社会にこうけんしてきたのだと思い
ます。自分が居たい場所で、一日でも長く生活できるために、私が今出
来ることを考えていきたいと思います。

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