法制審議会刑事法(性犯罪関係)部会 試案に関する意見
第1-1 暴行・脅迫要件、心神喪失・抗拒不能要件の改正について
委員 小西聖子
精神科医の立場から上記の試案の項目第1-1の1(1)ア・イの(イ)について意見
を述べる。
ア・イでは、行為が行なわれる時点での状態が例示されている。
(イ)
(ウ)
(エ)
(キ)
等の項目は、精神医学的に見ればそれぞれ重なりもあり、排他的な分類ではなく、包括的
な分類でもないことは明らかであるが、このような被害の様態が現実によく生じていると
いう点では、経験上、理解できる例示であると考える。
そう考えた時に(イ)に、急性解離反応が含まれることを確認しておきたい。それによ
って、被害時の行動に大きな影響を及ぼす反応があることを性犯罪被害者に関わる専門家
に認識してもらい、より正確な判断が可能となってほしい。性犯罪の被害者から話を聞く
と、被害の最中から急性解離反応が起きていて、苦痛や恐怖が突然消えてしまったり、離
人症が生じたり、身体の麻痺が生じたりすることは少なくない。この状態は、本人の同意
しない意思を形成し、表明し若しくは全うすることが困難な状態をもたらす可能性があ
る。しかし、そのことが司法の関係者に理解されていることは少なく、また、後日診察す
る精神科医にも見えないことが多い。臨床で被害者を診察する精神科医は、被害体験の後
に、慢性的に生じてくる精神的な不具合、すなわち、抑うつ状態や、PTSD 症状には関心
を持つが、すでに消失したり、慢性の症状に変化したりしている事件中から生じる急性期
解離については、問うことが少ない。
以下「急性解離反応」という診断の DSM-5 と ICD-10 上の位置づけについて、簡単に
説明する。DSM-5 と ICD-10 は、公式に日本語訳がなされている国際的な診断体系のそれ
ぞれ最新のものである。
DSM-5 における急性解離反応
日本語の定訳のある最新版である米国精神医学会による「DSM-5 精神疾患の診断・統
計マニュアル」
(日本語版)によれば、急性解離反応は、第 8 章 解離症群/解離性障害群
の中の「他の特定される解離症・他の特定される解離性障害」に分類される。診断表記と
しては、
「他の特定される解離症:ストレスの強い出来事に対する急性解離反応」とな
る。
「このカテゴリーは、典型的には1か月未満、時には数時間から数日のみ持続する、
急性で一過性の状態のためのものである。これらの状態は意識の狭窄化、離人感、現実感
消失、知覚の混乱(例:時間の減速、大視症)
、微細健忘、一過性昏迷、および/または感
覚運動機能の変化(例:無痛覚、麻痺)などによって特徴づけられる。
」と説明されてい
る。
DSM-5 では、急性ストレス障害及び PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、第 7 章に分類
されている。急性ストレス反応は、トラウマ体験後 3 日から 1 か月の間に診断可能であ
り、心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、1か月以上の症状持続を待って診断可能とな
る。すなわち、どちらも、危険は過ぎ去ったのに、それにもかかわらず事件に関連する症
状があることを問題としている。これらの疾病概念では、事件中にも生じるような急性反
応をとらえることができない。解離症群については、
「解離症群はしばしば心的外傷の直
後に生じ、症状に対する当惑や混乱、または症状を隠そうとする願望を含む症状の多く
は、心的外傷とつながりのある事柄から影響を受ける。
」と説明されている。
ICD-10 における急性解離反応
日本語の定訳のある最新版である「ICD-10 精神および行動の障害 臨床記述と診断ガ
イドライン」(日本語版)は、1993 年の出版で、この 30 年間に新たな知見が積み上げられ
ている。ICD-10 には、急性解離反応という言葉はないが、F4 神経症性障害、ストレス
関連障害及び身体表現性障害に分類され、急性ストレス反応という名称で診断されると考
えられる。ICD-10 と DSM-5 で、急性ストレス反応(障害)という言葉が異なる定義で使わ
れているため分かりにくいが、ICD-10 では、急性ストレス反応の期間を区切らず、主に
トラウマ体験直後の解離やトラウマ反応をとらえる。解説では、トラウマ体験直後に意識
野の狭窄や、注意の狭小化、刺激の理解ができないこと及び失見当識を伴った「困惑
(daze)」という初期状態を含む、としている。すなわち、ICD-10 においては、急性スト
レス反応は、直後の解離的な反応を収める。急性ストレス反応は、通常出来事の衝撃から
数分以内に出現し、2、3 日以内(しばしば数時間以内)に消失するとしている。
両者に共通しているのは、トラウマ体験の直後(それはまだ事件の最中であることもあ
る)から解離を中心とする意識狭窄等の解離症状が発現することがあること、それらは数時
間程度で消失することもあることである。
(注記) なお、両者の原語の最新版は、未邦訳の DSM-5-TR、ICD-11 である。DSM-5-
TR の診断基準については、変更はない。ICD-11(未邦訳)では、解離及びトラウマ
の部分に関して大きな改定が行われ、複雑性 PTSD の概念が登場し、解離については
強化された。しかし、大まかな言い方をすれば、PTSD を中核とするトラウマ反応の
大枠についてはそれほど両者の判断に違いがあるわけではない。ただし、ICD-10 の
急性ストレス反応は、精神疾患ではなく、
「健康状態または保健サービスの利用に影
響を及ぼす要因」の項に移された。何らかの反応、症状があっても治療の対象ではな
いものは敢えて病理化しないというのが ICD-11 の方針だと言える。一方で、解離に
ついては、多彩な知覚や運動に関わる解離症状が診断名として登場した。急性解離反
応の一部については、離人感・現実感喪失症や解離性神経学的症状(新設の診断名)と
してそれぞれ扱われることになるだろう。
性犯罪の被害時に起きる急性期解離は、事前の脆弱性がない場合は、持続が比較的
短いことが多く、自然寛解することも多い。治療の観点からは正常の反応であるとみ
なした方が適切であるともいえる。医学的な治療の必要性と、法律上の重要性とは全
く異なる評価軸であるので、急性解離反応の性犯罪被害における重要性が変わるわけ
ではない。しかし、裁判などで教条的な診断基準や精神障害の理解が主張されたりす
る可能性を考えると、ここで確認しておくことが必要であると考える。
参考文献
1)American Psychiatric Association: Diagnostic and Statistical Manual of Mental
Disorders, 5th
ed(DSM-5). American Psychiatric Publishing, Arlington, 2013 (日本精
神神経学会 日本語版用語監修, 高橋三郎, 大野裕監訳:DSM-5 精神疾患の診断・
統計マニュアル, 医学書院, 東京, 2014)
2)World Health Organization: The ICD-10 Classification of Mental and Behavioural
Disorders : Clinical Descriptions and Diagnostic Guidelines. World Health
Organization, Genova, 1992 (融道夫, 中根充文ほか監訳: ICD-10 精神および行
動の障害-臨床記述と診断ガイドライン-, 新訂版. 医学書院, 東京, 2005)
3)金吉晴:ICD-11 におけるストレス関連症群と解離症群の診断動向. 精神神経学雑
誌 123 (10); 676-683, 2021.

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