昭和8年
(1933)
6月17日午前11時
30分頃、
「天六」
の愛称で親しまれて
いる大阪市北区天神橋六丁目の交差点
で、
一人の通行人が交通信号を無視し
て道路を横断しようとしました。そこ
で、
その行動を目撃した曽根崎警察署
の巡査が注意を加え、
通行人を派出所
まで連行します。この何気ない、
現在
でもあり得そうなできごとが、
警察・
内務省や軍、
それに天皇までも巻き込
む大事件へと発展していきました。そ
れが、
ゴー・ストップ事件です。
事件が大きくなったのは、
注意され
た通行人が、
兵士であったためでした。
兵士は、「(軍組織内の警察活動を担う
―引用者注)
憲兵の指図はうけるが巡
査の指図はうけない」(『内務省史』)と
述べて、
巡査の指示に従おうとしませ
んでした。そして、
派出所まで連行さ
れたところで巡査と兵士との間で格闘
が生じ、
双方ともに負傷してしまった
のです。
この経緯を問題視したのが、
兵士が
所属していた陸軍第四師団司令部―現
在も大阪城公園内にその建物が残され
ています―で、
当時の師団長は寺内寿
一中将
(内閣総理大臣を務めた寺内正
毅の長男)
でした。彼らはこの事件を、
軍の威信を揺るがすものと捉え、
新聞
記者を招いて警察に対して非を唱えた
のです。一方の警察
(当時は大阪府の
一部局でした)、そして彼らを管轄し、
当時強大な権限を有していた内務省
も、
一歩も譲りません。警察は、
「兵隊
が私人の資格で通行している時は一市
民として交通信号に従う」
(前掲同書)
べきとして、
軍部に対して真っ向から
反論します。
膠着状態におちいったかにみえた事
件は、
発生から5か月が経過した同年
11月18日、
警察と軍とが共同声明を
出すことによって、
ようやく解決をみ
ます。一説には、
天皇が本事件につい
て陸軍大臣に下問したことが、
事態急
転の理由ともされています
(菊地博
「ゴー・ストップ事件」
法学セミナー
239号)
。なお、
本事件の過程では、双方から何度も呼び出しを受けていた目
撃者の一人が行方不明となり、
後日死
体で発見されるといった悲劇も生まれ
ました。
事件が起きた昭和8年は、
満州事変
(昭和6年)
や五・一五事件
(昭和7年)
が起きてから間もなく、
まさに軍部の
影響力が強くなっていた時期と重なり
ます。たった一つの信号無視がひき起
こした事件にも、
その後の時代の流れ
を示唆するような、
ある種の"影"をみ
てとることができるでしょう。
現在の天神橋6丁目交差点
(2021年、筆者撮影)
旧第四師団司令部庁舎
(2014年、筆者撮影)
ゴー・ストップ事件
法務史料
展示室だより
第 54 号
(令和3年 9 月)
CASE 05
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学名誉教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 髙田久実
『琉球科律』
正長2年・宣徳4年
(1429)
に成立した琉球王国では、
慣習や
先例が重要な法源とされ、
また
「国家を治むるの道ハ、
徳教を
本とす」
と考えられていました
(徳教は儒教の教えです)
。し
かし、
それでは裁判の公平性が保たれないという課題が浮き
彫りになり、
天明6年・乾隆51年
(1786)に『琉球科律』
という
刑法典が制定・公布されました。
18巻103条からなる
『琉球科律』
は、
構成・内容とも清律の
影響を強く受けており、
各篇の名称やその順番も清律と同じ
です。とはいえ、
清律には存在する
「職制」
などの12篇はなく、
条文数も清律と比べるとかなり少ないという特徴がありまし
た。一方、
本文は漢字仮名交じりの候文で記されるなど、江戸幕府法の影響も見られます
(103条という条文数が、
江戸幕
府の
「公事方御定書」
下巻と同じであることは興味深い点です)。また、
それまでの慣習や先例も取り込まれており、
序文
には
「唐大和代々の刑書及び当邦之例をも考ひ合せ」
と記され
ています。 『琉球科律』
と合わせて重要なのが、
同時に成立した
『糺明法
条』
です。これは16条からなっており、
裁判実務を行う際の注
意事項についてまとめたものです。さらに、
天保2年・道光11年(1831)
には、
『琉球科律』
を補う法典として、
16巻95条か
らなる
『新集科律』
も成立しました。
沖縄に残存していた
『琉球科律』
の写本は、
沖縄戦で全て焼
失したと考えられており、
現在法務図書館が所蔵しているも
のはとても貴重です
(他に、
慶應義塾大学も所蔵しています)。表紙には
「明治廿三年」
という記載や長崎控訴院検事局の押印
があり、
罫紙には
「沖縄県」
と入っています。長崎控訴院は九
州全体を管轄しており
(昭和20年
〈1945〉
に福岡に移転)、管
轄区域である沖縄の法制資料も収集していたものと考えられ
ます。
芳川 顕正 1842−1920年
芳川顕正は、
天保12年12月10日
(1842年1月21日)、蜂須
賀藩統治の阿波国麻植郡川田村に生まれました。家は祖父の
代より医業で生計を立て、
芳川も数えで16歳のときに城下に
出て医学・漢学を学んでいます。それから長崎に遊学し、
漢学
から英学に転じ、
何礼之の私塾に入るなどして研鑽を積みまし
た。その後、
佐幕の徳島に帰ることを拒んで薩摩藩に雇われ、
海軍所で英書の翻訳などに従事しています。
明治3年
(1870)、大蔵省に出仕し、
伊藤博文の渡米に随行し
て国債償還の事務などを調査しました。
帰国後は紙幣頭となり、
工部・外務・内務の各省に出仕します。明治15年には東京府知
事にもなりました。
芳川は藩閥の出ではありませんでしたが、
伊藤博文や山県有
朋の覚えがよく、
明治18年に伊藤が初めて組閣したとき、山県内相のもとで内務次官となりました。明治23年には文部大
臣となり、
以後、
司法・内務・逓信と計7度にわたって大臣を歴
任しています。
司法大臣の職は、
第2次伊藤内閣のとき、
明治26年3月16日
から明治29年9月26日まででした。この時期の司法大臣は、
いわば貧乏くじでした。前任の山県が、
大審院判事による花札
賭博の懲戒事件の後処理にあたり、
大津事件で名高い児島惟謙
らを辞職に追い込んでいたからです。そして芳川自身もまた、
名村泰蔵や西岡逾明など、
黎明期から日本の司法の近代化に貢
献してきた
「老朽判事」の「淘汰」
を実行しました。那覇地方裁
判所長への転補を突然命じられた大審院判事千谷敏徳が、
弁護
士などを味方につけて抗命を続けたことは、
新聞で盛んに報じ
られています。
なお、
エンデ&ベックマンの設計による司法省の新庁舎が竣
工したのも芳川の在任中でした。
大正9年
(1920)、80歳でその生涯を終えています。

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