法務・検察行政刷新会議(第 3 回)意見書
〜今回の 3 つの論点〜
2020 年 8 月 27 日 冨山和彦
今回、提起されている三つの問題とそのきっかけとなった二つの事件に対する国内外の
強い反響の背景には、1刑事訴訟手続きが追求すべき二つの価値、すなわち犯罪の摘発・抑
止に関わる真実究明と、
被疑者・被告人の人権保障に関わる適正手続きとの間における緊張
関係を縦糸に、2三権分立において非政治部門である司法(裁判所)と、政治部門である立
法(国会)及び行政(内閣)との間で、検察と法務がそれぞれ組織レベル、個人レベルで取
るべき立ち位置の難しさを横糸に、この縦横(たてよこ)が織りなす構造的な問題構図が横
たわっているように思います。
戦後、
我が国の刑事訴訟手続きは、
戦前からの実体的真実主義に重きを置き検察官の準司
法官的な役割を重視する考え方と、現行憲法で導入された英米法的な適正手続主義を基盤
として当事者対抗主義の一方を行政権の側から担うことに重きを置く考え方との間におい
て、時代背景の変化の中で、どこにバランスを置くべきか、という難しい問題に対峙してき
ました。現在の刑事訴訟法と法務・検察のあり方は両方の要素を取り込んでおり、それ自体
は私も妥当なものと考えていますが、時代背景の変化が著しい中にあって、刑事司法・行政
は常にデリケートなバランス感覚を求められています。村木厚子さん事件に端を発した前
回のあり方検討会においても、
この根本的な問題構図が論じられていますが、
これは普遍的、
恒常的に重要な問題意識であるべきで、本刷新会議でもその意識を持って議論がされるこ
とを期待しています。以上の脈絡から今回の 3 つの論点について見解を述べます。
論点1 倫理問題及び検察庁・法務省と政治部門の距離感
上記1の二つの価値の緊張関係において、真実究明すなわち検察官の実体的真実主義的
役割、準司法官性に傾くほど、検察官の行動倫理に関する要請として、組織上・役職上はも
ちろん個人としても政治部門である内閣や国会との一定の距離を置くべきであり、そうし
た政治部門には法務省も含まれることになるし、かつまた検察官に対して高い廉潔性を公
私問わず国民が期待するのは自然な流れです。ましてやネット時代の到来で公私の区別な
く言動が世間(≒主権者)の目に晒される現代的な状況においては、
(ことの良し悪しは別
として)
準司法官でありかつ捜査権、
公訴権に関わる大きな裁量的権力を有する検察官に対
する国民の目は、より高官になるほど厳しくならざるを得ません。また、真実究明に関して
被告人に有利な証拠の尊重やたとえ起訴後でも無罪を指し示す事実が判明した場合に訴追
者の立場よりも真実究明を優先すべき行動倫理も、個人と組織の両方が強く要請されるこ
とになります。実際に 99%を超えると言われる高い有罪率の我が国の刑事訴訟において、
起訴便宜主義のもとで実質的に公訴権を独占している検察官が裁判官に近い役割を果たし
ていると認識される実態もある中で、こうした空気が強まることは否定できないでしょう。
他方、適正手続主義、当事者対抗主義に傾けば、検察官は法執行に関わる一方当事者、ま
さにプロセキューター(訴追者)であることが強調されますから、武器対等原則や証拠法則
の中で粛々と捜査と公判における訴追業務を担い、真実は訴追側と弁護側からなる当事者
同士の証拠と弁論による戦いから立ち現われ、その戦いのプロセスの公正性と戦いの勝敗
としての真実性
(≒合理的疑いを超える証明がなされたか否か)
をジャッジするのは裁判官
や陪審員のほぼ専権的な役割となります。ここでは検察官に対し現在の日本ほどの準司法
官的な役割は期待されず、
持っている強い権力を行使するにあたっての法律的、
倫理的な縛
りは当然あるとしても、プライベートにおいて聖人君子的な廉潔性まで期待することはや
や行き過ぎということになるのではないでしょうか。
また法務省との関係でも、
立法政策や
法務行政執行を行う法務省と、
捜査と訴追に関わる法執行を行う検察官、
検察庁と言う程度
の距離感でも不自然ではないでしょう。
この刷新会議においては、かかる刑事司法が追求すべき二つの価値の間のバランス論を
基盤に、
検察官の倫理問題に連動しかつその背景にある政治部門
(内閣に直属する法務省を
含む)
と準司法官的性格を持つ検察ないしは検察庁との間の距離感、
両組織の人事システム
上、キャリアパス上の位置関係についての議論は避けて通れないと考えます。
論点 2. 法務行政の透明性、文書管理問題とその背景にある法務省の組織経営のあり方
私は、
経験上、
組織において現象として起きる不祥事などの問題の真因には、
組織の構造、
ガバナンス構造と組織構成員のフォーマル・インフォーマルな動機づけ構造が横たわって
いるものと確信しています。
現在、
官僚組織全体がかかる意味で色々な問題に直面しており、
多くの省庁で人材の劣化やモチベーションの低下が指摘されています。
実際、
若い世代の多
くにとって、中央の官僚組織のキャリア職はベスト&ブライテストが志望する就職先では
なくなっています。
これは単なる給料の問題ではなく、
やりがいや自己実現欲求を含めたト
ータルな動機づけ体系として未だ強固な終身年功秩序の呪縛の中にあるキャリア官僚の仕
事が魅力的ではなくなっているということです。
その一方で、私自身、一時期はフルタイムで、その後も色々な形で政府の仕事を手伝って
きた実感として、
中央官庁が求められる役割は、
むしろ重要かつ複雑なものになっており、
求められる組織能力の高度化と現実の組織能力の劣化によるギャップの拡大は、国家と国
民にとって深刻な問題となっていくものと思われます。
他の官庁でも透明性や文書管理の問題がクローズアップされましたが、いわゆる忖度問
題も含めてそのような事案が繰り返し生じる背景には、こうした構造矛盾の中で国家公務
員制度、取り分けキャリア官僚制度を巡る制度疲労とそれに起因するモラル低下が背景に
色濃くあると考えざるを得ません。
法務省については、
こうした多くの省庁と共通の問題が存在するであろうことに加え、最高幹部ポストの多くを法曹資格者、
取り分け検察庁出身者が、
ほぼ固定的に年次順繰りで占
める慣行となっており、はっきり言ってかなり硬直的な組織人事運営が行われているよう
に見えます。
法務行政の重要部分を刑事司法に関わる政策の立案と遂行が占め、
検察官とし
ての経験や両組織間での情報共有がそこで有用であることは否定しませんが、そのことは
法務省の幹部ポストが検察庁、
検察官のいわゆるエリートコース、
キャリアパスとして固定
化されることを必然化しないと思います。
組織の幹部人事においては、
時代的要請の変化の
中で適材適所のダイナミズムがあるべきで、法曹資格のない人材が官房長や事務次官にな
ることが普通に起きて然るべきはずです。
民間企業においても、
かつては固定的なエリート
コースが決まっていて、次の社長どころか次の次まで予想できるような会社が少なくなく、
むしろ優良企業ほどそう言う予定調和的な人事システムで運営される傾向がありました。
しかし、今やそう言う慣行は完全に崩壊し、年次、出身分野、理系文系などではなく、真に
人物本位、その時々の組織的課題によって幹部人材の顔ぶれが決まる時代になっています。
現代の時代認識として、
法務行政はますますダイナミックで幅広いスコープの知見、
グロ
ーバルな視点を取り込みながら、時にスピーディーな政策対応を迫られる時代になってい
きます。だとすれば、優秀な法務行政官は、ますます時代の変化に対する感度を持ち、柔軟
で、法曹の枠、官僚の枠を越えた経験と知識の多様性に富む人材、そして民主的政策形成過
程に強い人材である必要が出てくると思います。組織の長として検事総長と法務事務次官
の適性条件は重なる部分があるかもしれませんが、非共通集合部分も大きくなるとすれば、
キャリアパスの硬直性は望ましくないし、前述のように準司法官として組織人としても個
人としても厳しい廉潔性、
純理性要求にさらされる傾向が強まる検察官のあり方と、
政治的
ダイナミズムのなかで行政官としていい仕事をすることを期待される法務行政官のあり方
は、今後、距離が遠くなることこそあれ、近づくことはないと思います。
もし法務行政の透明性や文書管理に問題があるならば、かかる問題が生じた組織的病理
の根源を掘り下げ、
単なるもぐら叩きにとどまらず、
法務省の組織能力を現代的な環境変化
に対応できるように高めるためにどうすべきかの議論に発展させることを望みます。
論点3.武器対等原則を巡る刑事司法制度のあり方
これは我が国の刑事訴訟手続き及びその実質的な主役である検察官が、まさに真実究明
と適正手続きという二つの価値の間でいかなるバランスを取っていくかに関わる高度な政
策的選択です。私は、日本の戦後の刑事司法制度は、英米法的な刑事訴訟手続観を反映した
新憲法のもと、
真実究明と適正手続きの間でアンビバレンスを抱えながら、
トータルとして
そのバランスを取ってきたことが、
ある種、
過度なくらいの刑事司法制度と検察官に対する
国民の期待感を形成してきたという評価をしています。
しかし、
その一方でそのバランス感
覚への国民的期待感の高さゆえに、
それを少しでも裏切る事件
(権限行使が捜査訴追抑制的
にみえる事件でも、
逆に冤罪事件的な過剰的にみえる事件でも)
が起きると激しいバッシン
グにつながる土壌も形成されていますし、
「あれも、これも」を追うことは、それぞれのい
いとこ取りになればいいのですが、逆に両者の悪いとこどりに陥る危険性も孕みます。
村木厚子さん事件やカルロス・ゴーン事件が、
特に長期勾留と取り調べにおける弁護士同
席に関わる問題について、
武器対等原則と言う被疑者、
被告人の人権保障により重点を置い
た適正手続主義的な世界観から我が国の刑事司法制度がまだまだ遠いところにいるのでは
ないか、
と言う議論を今後も惹起し続けるのも自然なことだと思います。
前回のあり方検討
会でも、武器対等原則に関して、被疑者被告人の防御力を高めることと合わせて、本人供述
以外の部分での捜査・訴追側の武器の強化の議論もされていますが、
適正手続き
(人権保障)
と真実究明(犯罪摘発・抑止)をより高いレベルで両立させるための議論は、私はこの会議
を含めてあらゆる機会において国民に開かれた形で行うべきだと考えます。これはまさに
憲法 31 条を源とする根幹的な問題であると言うだけでなく、国際情勢の変化や犯罪行為の
国際化やサイバー化、さらにはコロナショックでさらに進展するネット空間における人権
意識のグローバル化の進展を睨みながら、
日々、
大きなダイナミズムに晒されている問題で
もあるからです。
実際、我が国においても、限定的ではありますが捜査の可視化、有罪取引、裁判員制度な
ど、大きな流れは適正手続き主義、当事者対抗的な訴訟観に動いていく方向なわけです。ま
た、知識集約産業化の時代において、資源小国の日本が持続的に繁栄するためには、海外の
高度人材に日本を選んでもらい、長期滞在、定住してもらうことは、非常に重要な国家的課
題であり、そうした人々(当然に権利意識が強い人々)にとって刑事司法手続きが制度と運
用の両面で他の先進国に近いものであるということは、実態面とイメージ面の両方で重要
です。
コロナショックはいわゆるDXを加速させ、
産業の知識集約化はさらに加速しますか
ら、
これは我が国の経済社会の持続性、
成長性とさらにダイレクトにリンクしていきます。
私は激変する世界のなかで、
この数年の間をとっても、
最適なバランス点は変化して然る
べきだと考えるので、
あり方検討会の議論の達成度の検証も含めて、
この論点はここでも議
論されるべきものと考えます。
刑事司法を巡っては、世論は一方で政官財に対しても遠慮なく積極的に真実究明と捜査・
訴追を行うことを特に検察官に対して期待し、
他方で冤罪事件に関連して被疑者・被告人の
人権保障とそのための手続き的保障の強化と刑事的権力作用のけん制を捜査・訴追・公判の
全般に対して求めます。そこには現実的にアンビバレンスが存在します。また、政府運営に
おける政治主導が民主的正統性を基盤として強まる中で、
「官僚たちの夏」で描かれたよう
な官僚組織の政治からの独立性、
超然性は良くも悪くも薄れ、
法務省もその例外ではない一
方で、国民はむしろそれゆえに検察官に代表される刑事司法執行の政治からの独立性を強
く期待します。
ここでも検察・法務と言う単位で見た時にはアンビバレンスが深まります。
公訴提起においては、高い有罪率が示唆するように謙抑的な運用を行う一方で起訴した
らとにかく有罪判決に向けて全力努力する。
組織論においては、
検察官をより司法の側に寄
せる一方で検察庁と法務省の幹部人事を一体的に運用する。
こうした今の仕組みは、
アンビ
バレンスのなかで絶妙のバランスを取る組織運営上の仕組みとして機能してきたように思
います。
しかし、
このアンビバレンスが変質しながら深まっている現代的な状況が従来のバ
ランスを危うくし、
色々な意味での問題を繰り返し惹起していると思います。
本刷新会議が、
新たなる均衡に向けて、冒頭で指摘した縦糸、横糸問題の未来志向のリ・バランスに貢献す
ることを期待します。

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