気軽な助け合いができる社会をめざして
香川県 土庄町立土庄中学校 1年
篠原 和誠(しのはら かずなり)
僕は,生まれつき脳性まひという病気のため,車いすで生活している。車いす
生活では不便なことが多いのだが,時々,温かい気持ちになることがある。
それは,毎週通っているリハビリに行くためにバスに乗ろうとした時のことだ
った。いつもは運転手さんが手伝ってくれるのだが,その日は,車いすに気がつ
いた乗客のおじさんが,すぐさま,「手伝おうか?」と声をかけ,車いすを持ち
上げてくれたのだ。バスを停め,かけつけた運転手さんも座席を上げ,車いすを
置くスペースを作ってくれた。無事バスに乗れたことにほっとしていると,後ろ
に座っていたおばさんが,
「これ,もらい物やけど食べて。」
とかしわもちを僕の手に渡してくれた。一人暮らしだと言っていたおばさんは,
僕を見て,離れて暮らすお孫さんのことを思い出したのかもしれない。しかし,
全く見ず知らずの僕に,こんなに優しくしてくれる人がいるのかと驚いた。思い
やりは伝染するのか,こんなやりとりがあったバスの中は,いつもより穏やかな
空気に包まれ,居心地がよかった。ほんの三十分ほどのできごとだが,僕の心も
温かくなった。
この日は本当に気持ちのよい一日だったが,こんな日ばかりではない。バスや
電車の乗客に露骨に嫌な顔をされたり,バスの運転手さんがうまく介助できなか
ったりして悲しくなることもある。僕のような車いすの人も,健常者と同じよう
に心配や遠慮することなく生活できないものかと考えていたところ,先日テレビ
で車いすユーチューバー寺田ユースケさんのニュースを見た。寺田さんは「車い
す押してくれませんか?」と声をかけ,車いすを押してもらいながら全国を回る
車いすヒッチハイクの旅をしている。
寺田さんは,僕と同じ脳性まひのため歩くのが不自由だが,健常者に負けたく
ないと杖を使って生活していた。
しかし,両親のすすめで二十歳の時から葛藤しながらも車いすに乗ると,想像
以上の自由に感動し,世界が広がったそうだ。そして,「体が動く間に,新しい
世界を観る旅がしたい。」という気持ちが芽生えた。また,旅の中で「車いす押
してくれませんか?」とお願いすることで,町の中に「気軽な助け合い」を広め
られるかもしれない。さらに車いすだけでなくベビーカーやご年配の方など,生
きづらさを感じている全ての人が気軽に「助けて」と言えるような世の中にでき
内閣総理大臣 賞
参考1
たら・・・。と考えるようになったそうだ。今では四百組以上の人に車いすを押
してもらいながら,三十を超える都道府県を三年かけて回り,今年の四月には香
川にも来ていた。
僕は寺田さんのことを知り,僕と同じ障害のある人がこんなに壮大なチャレン
ジをしていることに驚いた。僕は,いつも人に遠慮をしてしまい,なかなかお願
いできない。相手に迷惑をかけてしまうのではないかと思うからだ。しかし,寺
田さんは知らない人ともすぐに仲良くなり気軽にお願いをする。僕もそのような
明るく前向きに人と関わる姿勢を見習いたいと思った。また,寺田さんから,社
会をよくするためには,ただ心の中で思うだけではなく,それを行動に移し,ま
わりの人に働きかけたり理解してもらったりすることが大切だと学んだ。
今までの僕は,健常者に負けたくない,同じように見てほしいという思いのあ
まり,自分勝手で,人への感謝の気持ちが欠けていたように思う。中学校では,
校舎のあちこちにスロープがつけられ,僕が生活しやすいように段差もなくして
もらった。フェリーにはエレベーターがつき,行く先々でいろいろな人が声をか
けてくれる。僕は,まわりのたくさんの人に支えられながら生きているのだ。
では,僕は支えてもらうだけの存在なのだろうか。家族は十三年間僕を支え続
けてくれているが,僕も家族の支えになっている(はずだ。)両親は特に口には
出さないが,手のかかる僕を愛おしんでくれているのはよくわかる。僕は三つ子
で,二人の弟たちに宿題を教えることだってある。そう考えると,一方的に「支
える」ということは,ないのではないだろうか。誰かの存在が誰かの支えになる。
「お互い様」で人間関係は成り立っているのだ。
だから,僕は素直に「助けて。」と言おう。そして,それを当たり前だと思う
のではなく,してもらったことに対して素直に「ありがとう。」と言える人にな
りたい。困ったときは「お互い様」だ。僕も困っている人がいたら,力になりた
い。身体を使って助けることは難しいけれど,相談になら乗れる。僕だって誰か
の「大切な存在」になりたいのだ。助けて助けられて,感謝する。それが僕がで
きる「気軽な助け合い」の第一歩だ。
星塚のじぃやん
宮崎県 宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校 3年
藤原 凜華(ふじわら りんか)
「星塚のじぃやんと言ってくれ」かつて,「私にさわらない方がいい」と言っ
て握手を拒んだあなたがそう言ってくれた時,本当にうれしかった。あの時私た
ちは本当の家族になれたのだ。
私には,キティちゃんと阪神タイガースが好きなとってもおちゃめなおじぃち
ゃんがいる。彼とは血のつながりはないけれど,それ以上の絆を感じられるすて
きな人だ。私は,おじぃちゃんに年一回会えるのをいつも楽しみにしている。そ
のおじぃちゃんが暮らしているのは,鹿児島県にある国立療養所星塚敬愛園。そ
う,おじぃちゃんは,国の非道な政策によって家族も故郷も自由に選ぶ人生もす
べてうばわれた元ハンセン病患者である。
ハンセン病とは,
らい菌に感染することで起きる病気だ。
感染力はとても弱く,
現代の日本で感染し発病することはほとんどない。しかし,有効な治療法や薬が
なかった時代には,顔や手足が変形するというような外見に症状が表われてしま
うことから忌避されてきた。また,感染を防止するには患者を隔離する以外にな
いとも考えられていた。日本では,一九三一年の癩予防法によってハンセン病患
者をハンセン病療養所に強制的に入所させ一生に渡って世間から隔離する政策を
行っていた。それだけでなく子どもを持てなくさせたり,患者の出た家を消毒し
たり,無らい県運動を進めるなどしてハンセン病は恐ろしい不治の病という誤っ
た認識を国民に植え付けた。この政策のために,治療薬ができ,ハンセン病が治
る病気だとわかった後も,ハンセン病患者やその家族は極端な偏見と激しい差別
に苦しむことになった。しかもこの政策が終ったのは一九九六年。そんなに古い
話ではないのだ。かく言う私もおじぃちゃんに出会うまで何も知らない人間だっ
た。
私がハンセン病について知ったのは,今から五年前,宮崎県主催の「ふれあい
ハンセン病療養所訪問事業」に参加した時だ。鹿児島県にある国立療養所を訪問
し,ハンセン病について正しく知ろうというプログラムだ。園での全体説明のあ
と,語り部として私たち家族の担当になったのがおじぃちゃんだった。彼を見た
時,正直私は言葉が出なかった。なぜかというと彼は義眼をはめていて,手は爛
れ,指がなかったのだ。それだけでなく,ちょっと怒っているような,話しかけ
にくい雰囲気ももっていたのでますます何を話していいのかわからなくなった。
でも,帰るまぎわ,せめて仲良くなりたい気持ちをこめて握手を求めた。しかし,
法務大臣 賞
そんな私に彼は「私にさわらない方がいい」と言って,パッと反射的に手をひっ
こめたのだ。私はその時,なぜ?と複雑で切ない気持ちになった。彼はもうすで
に病気は治っている。なのになぜ,と。しかし,少し考えて,彼をそうさせたの
は,これまで受けてきたすさまじい差別や偏見によって深く傷つき,その心の傷
が行動に表われてしまうものだと思った。
私たち家族は,
彼の心の傷を知り,
彼という人の人生について知りたいと思い,
今度は元ハンセン病患者のだれかではなく個人をたずねることにした。二度目に
お会いした時は,過去の歴史を聞くのはもちろん,一緒に歌をうたったり,散策
をしたりして打ちとけた時間を過ごすことができた。
それから私たち家族は,毎年おじぃちゃんの所をたずねている。まるでお正月
におじぃちゃんおばぁちゃんの待つ故郷に帰るように。
おじぃちゃんはもともと誰かとコミュニケーションをとることが苦手な方で写
真に写ることも嫌っていた。でも,私たち家族と交流するうちに少しずつ心を開
いてくれた。今では,手紙や電話でやりとりしたりもするし,一緒に写真に写っ
てもくれる。その写真をかざってもくれる。また,私の中学受験のときには誰よ
りも合格を祈ってくれた。だから,おじぃちゃんから「星塚のじぃやんと言って
くれ」と言われた時は,私たちを実の子や孫のように思ってくれていることや安
心して手をにぎってもいい相手として信頼してくれたのだと思えたのでうれしく
てたまらなかった。
これまでのあまりに過酷な経験が彼につけた心の傷は消えることはないでしょ
う。失った時間や家族をとり戻すことはできないけれど,私たちと新しい時間を
重ねることで,おじぃちゃんの人生が少しでも笑って過ごせる時間になるように
していきたいと思う。それは私たち家族にとってもかけがえのないすてきな時間
になるでしょう。おじぃちゃんが私にくれた喜びを私も家族もそれ以上の喜びに
しておじぃちゃんにこれからも返していきたい。
おじぃちゃん,あなたに会えて本当によかった。
二人の私
埼玉県 学校法人文理佐藤学園西武学園文理中学校 3年
北澤 夏紀(きたざわ なつき)
私には,4 歳年上の姉がいる。生まれつき足が悪く,脳性麻痺という脳の障害
を持っている。私は生まれてからずっと,車いすに座っている姉しか見たことが
ない。言葉もたどたどしく,精神年齢も,普通の人より進み方が遅い。けれど,
明るく笑顔で,誰にでも優しい姉は,周りの人からとても愛されている。
でも,私は姉が嫌いだった。「障害者のくせに」「私より何もかも劣っている
くせに」そんな事を思い始めたのは,小学校三年生の頃だった。学校に行っても,
「〇〇ちゃんは見てるだけでいいからね。」といわれて勉強をまともにしていな
い姉。あたり前のように学校に行って,あたり前のように勉強をする私。でも母
は,「お姉ちゃん,今日も学校行ってこれたの。偉いわね。」...悔しかった。毎
日毎日学校に行って勉強している私は褒めないで,週に 1 回行くか行かないかの
姉を,母はずっと褒めていた。どうして。どうして私の事は褒めてくれないの。
どうしてお姉ちゃんより頑張っている私を褒めてくれないの。
それをきっかけに,
私の姉への嫌いな気持ちは募っていった。
ある日,家族で外食をすることになった。正直,私は外食が好きではなかった。
姉が居ない時は楽しいけど,姉が居る時の周りからの視線が嫌いだった。チクチ
ク,ズキズキと皮膚や心に突き刺さってくるような気がした。冷たく,とても差
別的な視線だった。入店をして,席についておちついた頃,隣りのテーブルのカ
ップルが不機嫌な顔をして,手を上げて店員さんを呼んでいた。店員さんを待っ
ている時,こちらをチラチラ見てはコソコソ話をして,嫌な感じ。と思っていた
が,店員さんが来てそのカップルがお願いした事が衝撃的すぎて,思わず口が開
いてしまった。「隣りの車いすの人が急に暴れだしたら嫌なので,席を変えても
いいですか?」
信じられなかった。怒りがふつふつとわき上がり,頭に血がのぼった。幸い,
カップル側の方の外側に座っていた私にしか聞こえなかったらしく,姉も母も父
も楽しく会話を続けていた。けれど,私の頭は噴火寸前だった。第一姉は,暴れ
もしなければ騒ぎもしない。そんなお願いをいきなりされた店員さんもどうして
いいか分からなかったらしく,「申し訳ありません。当店ただ今大変混んでおり
まして,他のテーブルが空いていないんです。」といい,すぐに別の人のオーダ
ーをとりに行った。すると諦めたのか,カップルはお店を出ていった。
食事をし終わり,会計をしている母と父をお店の外で待っていると,ぷーぷー
文部科学大臣 賞
と可愛らしい音を鳴らしながら小さな女の子が歩いてきた。私と姉の周りを三周
小走りした後,姉の車いすのスポークカバーをぺたぺた触って「かわいい」と笑
顔で言った。嬉しかった。そういうと女の子は,どこかへ行ってしまった。
その後,私は家に帰ってじっくりと考えてみた。何故あんな酷い事を言う人が
いるのだろう,と。でも,それと同時に思った。「自分はどうなのだろうか。」
誰かが障害者の方に暴言や差別的な言葉を言っているのを見たら,酷い,と思う
のに,そう思っている自分も,姉に酷い態度をとっている。他の人はダメで自分
はいい。そんなのは間違っている。そして,入店した時に感じたあの冷たい視線。
直接向けられた姉は,どう感じたのだろう。私は思いきって,姉に聞いてみた。
「お姉ちゃん,お姉ちゃんはさ,いろんな人に見られたら,どう感じる?」いつ
も嫌な態度をとっている私にこんな事を聞かれて,姉は少しとまどっていた。し
かし,姉はにこりと微笑んで,「確かにソワソワするけど,平気だよ。なっちゃ
んがずっとそばにいてくれるから。」すると,自然に私の目から涙がこぼれた。
何故か分からなかったけど,大声で泣きたかった。
人はそれぞれ,違いがある。肌の黒い人,左利きの人,二重の人,障害も,人
それぞれの違いだと,私は思う。けれど人は,その違いを嫌う生き物だ。自分と
違う物を見つけると,関わりたくないと無意識に思ってしまう。でもよく考えて
みよう。自分と同じ人なんてどこにもいない。自分はこの世で一人だけなのだ。
そして,その無意識な差別のせいで,少しでも傷ついている人がいるという事を
分かってほしい。「自分は差別なんかしていない」と思っている人も,もう一度
ふり返ってほしい。
一人一人が,少し心の広さを大きくする事で,違う誰かが笑顔になる。あの小
さな女の子の笑顔が,世界中で咲くことを願って。
曽祖母との関わりから見えてきたこと
和歌山県 和歌山県立古佐田丘中学校 1年
俵 和花(たわら のどか)
「和花だよ。ばぁば」
耳元で大きな声でゆっくりと話しかけると曽祖母はいつも「のどかちゃんってい
うの?いくつ?」とやさしく聞いてきます。
私の曽祖母は,認知症という病気でした。その病気のせいで,すぐに私の事が
分からなくなり,いつも自己紹介から曽祖母と私との会話が始まるのです。
しかし,病気になる前の曽祖母は,私の顔を見るなり「和花ちゃん,よく来て
くれたね。」と声をかけ抱きしめてくれていました。曽祖母に絵本を読んでもら
ったり,お手玉を教えてもらった思い出が今も私の心の中でしっかり記憶されて
います。曽祖母と過ごす時間は友達や両親と過ごす時間とは,また異なり,とて
もゆっくりとした時間が流れ温かい気持ちになれました。
そんな大好きな曽祖母が認知症という病気になり,しだいに私の事も曽祖母の
記憶から消えるようになると今までのように同じ時間を一緒に楽しむ事ができな
くなり,私の中でどこか曽祖母に対する心の距離ができてしまっていました。
私の事はよく「みっちゃん」と間違えました。「みっちゃん」とは母によると
曽祖母の妹で戦時中に栄養失調で亡くなったそうです。曽祖母は「みっちゃん」
と私に呼びかけては引き出しから,食べかけのお菓子を出して私に手渡してきま
した。私は「ありがとう」とお礼は伝えるものの,その後,どうすればいいのか。
曽祖母の行動に,ただ,とまどっていました。
父の事も曽祖母の記憶の中から消え,色々な人に変身しました。私の記憶の中
で一番印象深く残っているのは,曽祖母が父の事を自分の弟だと思い込んだ時の
事です。曽祖母の弟は戦死しているのですが,曽祖母は父を見るなり,「よう無
事で帰ってこられた」
と父の手をしっかり握って泣き出したのです。
しかし父は,
笑顔で「長い間待たせてすみません。無事帰ってまいりました」と答えていまし
た。すると曽祖母は,とてもうれしそうな顔になり,弟がいない間の戦争中の大
変だった生活を何度もくり返し父に話していました。
その時の私には,父の行動が理解できず,不思議な世界にいるかのように父と
曽祖母との会話を聞いていました。
それから間もなく曽祖母は亡くなったのですが,亡くなって曽祖母と過ごした
日々をふり返ると「曽祖母に私がしてあげられる事はなかったのか」心の距離が
うめられないままのお別れになってしまった事に後悔が残りました。
法務副大臣 賞
そんな時,出会ったのが「忘れても好きだよ。おばぁちゃん」という本でした。
この本は認知症であるおばぁちゃんと孫との関わりが描かれていました。また,
おばぁちゃんの人生を大きな一本の木に例え,上の葉を最近の出来事,下の葉を
昔の思い出。上の葉から順に散っていくというお話は認知症という病気の事がよ
く分かり,私の頭の中にすっと入ってきました。
曽祖母が私や父の事は記憶からすぐに消えるのに戦争の時の事はよく覚えてい
た事も,父が曽祖母の弟になり切った行動をとっていた事も,今の私には理解で
きます。しかし,私は曽祖母の気持ちに寄り添った関わりができていたのか。と
いう疑問がわきました。それが曽祖母に対する心の距離だったのではないか。病
気がしだいに進行していく中で不安や孤独を感じていたのかもしれない。もっと
曽祖母の気持ちに寄り添う事ができていたなら,最後まで曽祖母との時間を楽し
む事ができたかもしれないと思いました。今,高齢化が進み,
認知症という病気は特別な病気ではなくなってきています。
しかし認知症という病気を正しく理解している人は少ないと思います。
先日も学生の集団が歩いていた時,「認知症やん」と友達同士でからかって言
っているのを見ました。それを認知症の方や家族の方が聞けば,どう感じるでし
ょうか。
実際に経験しないと自分事として考える事はできにくいけれど,私は,みんな
にもっと認知症という病気の事を知ってほしいです。「認知症」という病気に対
する誤解や偏見をなくし正しく理解する事で認知症の方の気持ちに寄り添った関
わりができてくるのだと思います。また,その事が認知症の方にとっての安心に
つながりお互いに気持ちのよい関係が築けるのではないかと私は考えます。
これから,ますます認知症の患者が増えてくると言われています。それは,誰
もが認知症の問題を抱える可能性があるという事です。だからこそ,認知症とい
う病気を正しく理解する事が「令和」という新しい時代を迎えた今,必要になっ
てきているのではないでしょうか。
思いやりのバトン
東京都 小金井市立南中学校 3年
安齋 さくら(あんざい さくら)
ある日の夕方,私は奇妙な光景に出会いました。駅の改札口の前で,若い女性
が四人,縦一列になり前の人の肩をつかんでつながってじっとしているのです。
帰宅ラッシュの人混みの中,まるで電車ごっこをしているかのような女性たち。
近くまできて,私はその理由がわかりました。彼女たちは,白杖を持っていまし
た。視覚障害のある方たちだったのです。
一緒にいた母が彼女たちに駆け寄り,声をかけました。
「大丈夫ですか。何かお困りでしたら,お手伝いします。」
母の声に反応して,四人が一斉にこちらに顔を向けました。
「お願いします。西武線と中央線,二つの改札があって,どちらに行けばいいの
かわからなくなってしまったのです。」
母は,二つの路線のそれぞれの改札横の窓口に彼女たちを連れて行き,駅員さ
んにサポートをお願いしました。別れ際に,彼女たちが母の手を握って何度もお
礼を言っていたのが印象的でした。
帰り道,私はずっとその光景を思い出していました。そして,私が「奇妙」だ
と感じた理由は,電車ごっこのような女性たちの姿だけではなく,彼女たちを目
にしていながら何事もないように通り過ぎていく人々の様子にもあったことに気
付きました。彼女たちの周りには,携帯電話をいじりながら待ち合わせをしてい
るような人も大勢いました。しかし,まるで彼女たちが存在していないかのよう
に,誰もが無関心でした。母が声をかけるまで,一体どれほどの時間を彼女たち
はあの場所で立ちすくんでいたのでしょう。もし自分だったら......と,私は目を
閉じて想像してみて怖くなり,そして悲しくなりました。
母が,白杖を頭上に高く掲げている人がいたら,それは SOS のサインだと教え
てくれました。しかし,彼女たちは誰も白杖を掲げていませんでした。調べてみ
ると,そのサインは,視覚障害者の方たちですらまだ知らない人が多い,という
ことがわかりました。また,SOS のつもりで白杖を掲げたが,誰も声をかけてく
れず悲しかった,という体験談も読みました。サインが世間に周知されることは
もちろん重要です。しかし,それよりも,「誰かを気遣う気持ち」が広まってほ
しいと思いました。「困っていないかな」「大丈夫かな」と,思いやりを持って
気遣うことができれば,サインがなくても助けになれるのです。
「バリア(障壁)フリー」は,様々な場所で進められていることがわかります。
法務大臣政務官 賞
段差をなくす,電光掲示板を設置する,音声案内を流す,など,物理的なバリア
は取り除かれつつあります。しかし,最も大きなバリアは,私たちの心にあるの
ではないでしょうか。
困っている人に気付いても,
自分には関係ないと思ったり,
誰か他の人が助けるだろうと人任せにしたり,どうしたらいいかわからないから
と見て見ぬふりをしたり――。「無理解」,「無関心」というバリアがなくなれ
ば,私が駅で体験したような出来事は起こらないはずです。では,そのバリアを
取り除くために必要なのは何でしょうか。私は,「想像力」と「勇気」だと思い
ます。目を閉じて,初めて来た駅で人混みの中立っている自分を想像してみてく
ださい。車イスに乗っている自分が,階段しかない建物にいる場面を想像してみ
てください。とても不安で,「誰か助けて」と思うのではないでしょうか。想像
力を働かせれば,困っている人が求めていることに気付くことができると思いま
す。そして,少しの「勇気」を出して,声をかければいいのです。
心のバリアフリーが実現できれば,その他のどんなバリアも乗り越えられると
思います。
私の住む小金井市には,「障害のある人もない人も共に学び共に生きる社会を
目指す小金井市条例」があります。その中に,「共生社会」という用語の定義が
次のように書かれています。
『共生社会 差別を解消し,障害者と障害者でない者とが分け隔てられること
なく,相互に人格と個性を尊重し合いながら,地域の中で共に手を取り合い安心
して暮らすことのできる社会をいう。』
私たち一人ひとりの意識と思いやりの心が,社会を変えていくのだと思いまし
た。私も母のように,困った人を見かけたらためらわず声をかけて手助けしよう
と強く思いました。
駅で,視覚障害のある女性たちを見送った後,母が言いました。
「思いやりのバトンがつながるといいね。」
彼女たちが家に着くまでの間,どうか彼女たちに優しく手を差しのべる人が現
われますように。私もそう祈りました。
「ふつう」の多数決
福岡県 福岡県立嘉穂高等学校附属中学校 1年
兒嶋 杏奈(こじま あんな)
「ふつう」って何だろうと,小さいときから思うことが多かった。誰かにとっ
ての「ふつう」は他の人から見れば「異常」で,
「ふつう」かどうかなんて,
「ふ
つう」だと思う人の数と「異常」だと思う人の数を比べて,どちらが多いかで決
まっているようなものだ。一般的な意見なんてものは,所詮は多数決で,だから,
物事の本質ではないはずなのに。
女子は女子らしく,男子は男子らしく。これが「ふつう」なら,「私が私らし
く」あることがなぜ「ふつう」ではなくなるのだろう。
スカートをはいて,「私」という一人称を使うのが「女子らしい」のなら,普
段はズボンをはいて,日常的な会話で「僕」という一人称を使う私は,一般的な
意見――あくまで多数決だが――では,「ふつう」ではないのだろう。そんな私
が,今日は「表現の自由」と「ふつう」について考える。
学校の制服は,女子用で,もちろんスカートだ。あまり嬉しいことではない,
できれば男子の着ている制服が着たいが,私の戸籍の性別は女で,仕方のないこ
とだと思う。でも,私が「僕」とつかうと,たいていの場合,疑問に思われる。
「え,何で」
仲の良い人はそのことを認めてくれている。でも,あまり関わりのないクラス
メイトの躊躇のない質問は,些細なことかもしれないが,何度も続くと,だんだ
んきつくなっていく。
「ボクっ娘なんだね」
中途半端な知識から,無理矢理カテゴライズする人もいた。だんだん,自分が
分離していくような気がした。そんなとき,作文を書くときに「私」と書くこと
にも違和感を覚えるようになった。本当に,これは自分の考えていることなのだ
ろうか。悩みに悩んだ末,私が最も信頼する方に相談することにした。
私の相談をその方は真面目に聞いてくれて,
「作文や,
先生に対するときの
『私』
は敬語だと考えれば良い」「最終的に社会人になったら性別に関係なく『私』と
使うから」「変だという人とはあまり関わらなければいい」という風に,アドバ
イスしてくれた。「私」が敬語だという考え方は,今までの私にはないもので,
言葉の一つ一つが,励ましとなった。
私は,できることなら男子になりたいけれど,それを学校で言うのは,あまり
にリスクが大きい。イジメられるかもしれないし,不必要に優しくされるかもし
全国人権擁護委員連合会会長 賞
れない。実際は,この作文を書いていることすらも,かなり危険なことだと思う。
けれど,人間は一人一人同じようにはできていないのだから,言葉にしないと,
私の「ふつう」とあなたの「ふつう」が違っているということすらも分からない。
分かっていないことが分からない限り,分かるには絶対到らない。だから,私は
今,この作文を書いている。
LGBTQの方々にとっての「ふつう」は他の人から見れば「異常」かもしれ
ない。でも,それはLGBTQだからという訳ではなくて,人間の一人ひとりの
思考回路が違うから起こることなのだと思う。だから,同じ家族でも,同じ学校
の人でも,いくら気が合う人でも,一から十まで全部,まるっきり同じというこ
とはない。みんな違ってみんな良いかは別として,みんな違うのである。
もし,あなたがみんなと違うからという理由で,「ふつう」ではないからとい
う理由で,イジメられているとすれば,それはイジメている人の「ふつう」があ
なたの「ふつう」と違っただけである。だから,自分はおかしいのだと悩まなく
ていい。他のところへ行けば,あなたが「ふつう」で彼らが「ふつう」ではない
かもしれない。「ふつう」はただの多数決である。
自分を表現することは自由で,それは基本的人権の一つだ。表現の自由は権利
なのだから,
それでもしイジメられるのなら,
確実にイジメた方が悪いのである。
自分達が「ふつう」だと思っている人は用心した方が良いかもしれない。せっか
く表現の自由があるのだから,自分の「ふつう」と誰かの「ふつう」の違うとこ
ろを見つけるために,自分の「ふつう」を表現してみたら良いと思う。
私も公の場ながら,最後に一つ言わせてもらいたい。
僕はこのままの僕でありたい。
「人権の階段」
千葉県 船橋市立三田中学校 2年
三冨 詩花(みとみ うたか)
「コツ,コツ,コツ」街で白杖をつくこの音を聞くたびに,私はつい振り返っ
てしまう。そして大好きな「杖のオジさん」の事を思い出すのだ。私は思わず「大
丈夫かな?困っていないかな。」そう心の中でつぶやいては,その方をただただ
じっと見守る。そして,無事見送ると安心して歩き出すのだ。
私の親戚に強度の弱視で白杖をついているオジさんがいる。祖母の兄にあたる
オジさんは,生まれつき強度の弱視があるにもかかわらず,もう片方の目を不運
な事故で失ってしまった。私が物心ついた頃には,オジさんが杖をついて外出す
るのも,小さな私にはごくごく当たり前の風景だった。目が見えなくて大変なは
ずなのに,そんな素振りを少しも見せず,いつも明るくて優しいオジさんが私は
大好きだった。それどころか,幼い私にはオジさんがヒーローのように思えてな
らなかったのだ。なぜかというと,オジさんは複雑に並べられた点だけで文字を
読んでしまうし,親戚が集まればみんなにマッサージやお灸をやって,まるで体
の中が心の目で見えているかのように,
悪い所もピタリと当ててしまう。
それに,
声や足音だけで誰がいるかを見分けられるし,
私の声のトーンを聞くだけで,
「何
かあったか?」そう気遣いもしてくれる。オジさんは,たとえ目が見えなくても,
その数十倍も,数百倍もいろんな事が出来るすごい方だと思っていたのだ。
月日がたち,
私は去年親戚のお葬式で久々にオジさんに会うことになった。
「コ
ツ,コツ,コツ」懐かしい白杖の音と,「詩花ちゃん!」と明るく呼んでくれる
優しい声。振り返るとそこには,少しシワが多くなった笑顔と,腰を痛そうに丸
めてゆっくりと近づいてくるオジさんの姿があった。「大丈夫?」何人もの親戚
がオジさんに手を差し伸べた。そして,「段差があるよ。」「椅子に腰かけて。」
と声をかけ,人々はオジさんを囲んだ。その時に普段明るいオジさんの表情が少
しだけ曇ったように思えた。人一倍周りに気を使うオジさんだから,お葬式の席
でみんなの目が自分に集中してしまった事に,恐縮してしまったのだろう。オジ
さんはみんなが集まっている部屋を出て,廊下の目立たない隅の方の椅子にポツ
ンと座った。私がすぐ隣に座るとオジさんは少しびっくりして,声を聞いて少し
ほっとした顔になった。そして,「みんなに悪いな。」とため息をついた。「会
社関係の方々もいてまずいから,これはしまおうか。」とそっと白杖をカバンの
中にしまった。オジさんが自分の障害の事を隠し,気まずそうな姿を見た時,私
の心の中に黒いモヤがかかり,前が見えなくなっていくような衝動を受けた。周
一般社団法人日本新聞協会会長 賞
りは優しさゆえの行動だから何も悪くない。ましてやオジさんは何も悪いことは
していない。でも,オジさんが一歩下がらなければいけない状況を見ているうち
に,私の中に強い風が吹いてきてそのモヤを追い払おうとした。「私がオジさん
の杖になろう!」そう思うと一筋の光が見えてきたように感じた。
気を使うオジさんだから,過剰に気を使った話などせずに,そばにいて普通の
話をしながらオジさんの手を支えた。少しだけ難しかったけど,いつも通りにす
る事,周りの人となんら変わらない接し方をする事,それがオジさんの居心地の
良い場所なんじゃないかと私には思えたのだ。「詩花ちゃんがいるから大丈夫
ね。」周りの親戚が私に任せてくれた時,私は嬉しかった。オジさんが周囲に気
を使い,一歩一歩と下がっていくその心に寄り添う事ができたのだ。オジさんが
いつもの笑顔になってきた時,私はオジさんのもう一つの目になれた気がした。
その時まで私は障害がある人がいると,自分が手となり足となり,身の回りの
事を全て手助けする事が良い事だと思っていた。それを望む人もいるだろう。で
も,オジさんのように,そうすることで,その人の居心地が悪くなってしまうの
だとしたら,今までの考え方を反省しなければならない。なぜなら,それは障害
者より一段上に上がって上から見下ろしていたようなものだったからである。
人の感じ方や捉え方は,その人によって違う。その人のニーズを間違えると,
それはとたんに人権差別につながるかもしれない。私は今回の件で最初は杖をし
まったオジさんが可哀そうと思っていた。しかし,後から考えると,実はオジさ
んがしてくれた気づかいを,周囲の人が無にせずに受けいれた素晴らしい瞬間だ
ったのではないかと考える。それこそが,障害者が平等に社会で生活していける
ために,目指すべき姿なのではないか。障害者が,障害の事で,人権の階段を一
歩下がってしまうのは悲しい。そうならないよう,周囲がその人の気持ちに寄り
添い,一緒に階段を上がっていけるような社会を作りたい。そのために,私はそ
の人,一人一人の気持ちを何よりも大事にしてゆきたいと思う。今日も,オジさ
んが笑顔で一歩を踏み出せるように。
諦めない心を持って
大分県 大分市立竹中中学校 3年
甲斐 潤樹(かい みつき)
「読み書きが苦手なのでパソコンを使わせてください。聴覚が過敏なのでヘッ
ドホンも使いたいです。」
初めて会う中学の先生たちの前で僕は勇気を出してお願いをしました。
僕には障がいがあって,苦手なことや出来ないこと,少し大変と感じる場面が
あります。
みんなと同じように学び,一緒に学校生活を送るために,中学に入学する時に
合理的配慮を求めました。
「読むこと書くことは諦めたの?」
黙って聞いていた中学の先生が僕を見ました。「大丈夫ですよ。」その言葉を
期待していた僕は怖くて何も言えなくなりました。
「読むこと書くこと,学ぶことを諦めないために配慮が必要なんです。」
隣で母が答えました。
こうして僕の中学校生活は始まりました。
授業中パソコンを使い,騒がしい時はヘッドホンを付けます。疲れた時は保健
室で休むことも出来ます。みんなと同じように授業を受けて勉強できること,友
達の中で生活出来ることがとても嬉しかったです。
けれど,いつも僕とみんなの間に目に見えない大きな壁があって,僕は孤独を
感じていました。心無い言葉に傷つき,理解ない対応に心が折れそうになること
もありました。みんなが頑張っている時に頑張れなくて罪悪感で惨めになること
もありました。
そんな時は,信頼できる先生に何度も相談して助けてもらいました。それでも
うまくいかない時は母に学校に来てもらい先生方と話し合いを重ねました。一緒
に過ごして僕を見てもらい,心を割って話し合うことで,僕とみんなの間の壁は
小さくなっていきました。
今では全く壁を感じることなく,僕は当たり前のように配慮を受け,みんなは
そんな僕をそのまま受け入れてくれています。
中学三年になり進路を考えるようになりました。先生にお願いして,いくつか
の高校に問い合わせてもらいました。
「配慮を申請している生徒はいません。」
「前例はないが前向きに検討します。」
日本放送協会会長 賞
その言葉を聞いた時,
「また一から説明して何度もお願いしなくてはいけない。」と思いました。僕の言って欲しかった「大丈夫ですよ。」という言葉は聞けませ
んでした。「みんなは行きたい高校を目指して勉強を頑張ればいいのに,何で僕
は配慮のことまで心配しなければならないのか。」イライラして母に八つ当たり
をしました。
「もう面倒だからいちいち説明したくない。高校なんか行かなくてもいいや。」
そして,勉強する気にもならなくてダラダラしていたら一冊の本が目に留まり
ました。
「ぼくの命は言葉とともにある」福島智先生の本です。福島先生は,盲ろう者
として初めて大学進学をした人で,今は東京大学の先生です。
僕は小学校の時,福島先生と会って話す機会がありました。先生の隣には指点
字で僕たちが話している言葉を先生の手に打っている人がいました。見えなくて
聞こえない先生と僕たちは向き合って普通に会話をしました。僕たちの間に壁は
ありませんでした。
「自分のやってみたいことは簡単に諦めないほうがいい。諦めずにやっていた
ら案外うまくいくよ。」
先生が僕に言ってくれた言葉です。
目が見えなくて,
耳が聞こえなくなった時,
指点字という方法が見つかったこと,入れてくれる大学がない時も諦めずに挑戦
したこと,先生は自分の経験を話してくれました。そして,「壁にぶつかっても
打ち破る方法を見つければいい。」と教えてくれました。
僕にはやりたいことも将来の夢も,そのために行きたい高校もあります。僕も
みんなと同じように行きたい学校に進学して,夢を実現したいと思いました。
高校の体験入学が始まりました。
「聴覚過敏があるのでヘッドホンを使用していいですか?」
受付の人に声をかけました。ヘッドホンを付けた僕に向けられる人の目が気に
なります。大きな壁を感じて怖くなります。
けれど,安心して中学校生活が送れるように僕を支えてくれた先生,いつも応
援してくれる家族に見守られて,勇気を出して一歩を踏み出しました。
僕はこれからも必要な配慮を求めて,学ぶことを諦めない。行きたい学校に進
学して夢を叶えたい。そこに壁があるのなら,僕を見て知ってもらって打ち破り
たい。次に続く誰かが「大丈夫ですよ。」と言ってもらえるように,前例がない
のなら僕が第一号になりたいと思います。諦めない心を持ち続ければ,わかりあ
うことは出来る,壁はなくなりきっとうまくいくと信じています。
見えないマークに目を向けて
神奈川県 横浜市立南高等学校附属中学校 3年
森 彩夏(もり あやか)
妊婦さんがつけるマタニティマーク,体や心に何らかのハンデがある方がつけ
るヘルプマーク。日々色々なマークを目にする機会があるでしょう。マークは文
字の読めない小さな子供にも分かり,それをつけるだけで見た人は理解し手を差
し伸べられる,とても便利なものです。
では,こんなマークを知っていますか。「わけあってこちら側で止まっていま
す」その言葉とともにエスカレーターのイラストがかかれています。私は知りま
せんでした。電車の乗りかえでエスカレーターを利用した際,初めてこのマーク
を目にしました。
もちろん文字を読むことができるので理解はできます。
でも
「わ
けあって」とはどういうことなのか分かりませんでした。その駅にはいくつもの
路線が集まり,エスカレーターにもたくさんの人が溢れていました。そんな中で
そのマークをつけた男性がエスカレーターの右側で止まっていたのです。男性の
後ろには長い列ができていました。そのことに腹を立てた方がその男性に「早く
進めよ。右側は歩く奴が乗る側なんだよ。」とどなり立てたのです。男性はただ
ただ申し訳なさそうにしていました。私は「何か訳があるみたいですよ。」と声
をかけるか迷いましたが結局声はかけられませんでした。家に帰ってからふとそ
のことを思い出し,そのマークについて調べてみました。「マナーアップキーホ
ルダー」
というらしいそのマークは,
体の麻痺などをかかえる方向けだそうです。
例えば,体の左側が麻痺している方は右側で手すりにつかまらなくてはいけませ
ん。けれども多くのエスカレーターでは右側が歩く人用というまちがった暗黙の
ルールが生まれているので,そうした人たちが右側で止まりにくいことがありま
す。そんな時,そのマークがあれば麻痺を抱えた人も,その後ろにいる人も嫌な
気持ちにならずに止まっていることができます。私はいいアイデアだなと心から
思いました。
しかし,同時になぜマークをつける必要があるのだろうかと不思議に思いまし
た。何らかの事情があるのだろうとおおらかに考えられればこのマークはいりま
せん。きっとエスカレーターの右側で止まるという本当に小さなことすら,許せ
ないような雰囲気があるからだと思います。もしも自分がマークをつけなくては
いけなくなったら今の社会はとても生きづらいものでしょう。では理想の社会と
は何だろうと考えたとき,私はマークなどつけなくても互いに互いの違いを尊重
し手をさし伸べられるような社会だと思います。互いの違いを尊重することはお
法務事務次官 賞
互いの人権を守ることでもあります。
私は今年の春,初めて松葉杖をつきました。松葉杖はマークと同じくらい,自
分が怪我をしているということを周りにしらせます。私に気がついたたくさんの
人がバスで席をゆずってくれました。時には荷物を持ってくれる方もいました。
私にとって歩くのはとても難しいし,揺れるバスの中で立つのも難しいことでし
た。だからそうした人たちの温かい気持ちにふれるたび私はとても嬉しい気持ち
になりました。そんな経験から誰が,いつ,どんなハンデを背負うかは分からな
いけれど,そうした時に手をさしのべてくれる人がいたとしたらきっととても救
われるのだろうと思うようになりました。
そして私は自分が分けてもらった優しさを今度は誰かをたすけることに使って
いきたいと思いました。
もちろんマークをつけている方への配慮は必要です。でも,それだけではなく
て周りの人に心配りをすることが理想の社会の実現に不可欠なのです。見ためで
はわからない,いわば「見えないマーク」に気がつくことは難しいことかもしれ
ません。時に空回りすることもあるでしょう。でもそうやって周りの人たちを気
にかけることでいつか優しさに溢れた社会に近づいていくのだと思います。いつ
の日か,マークなどつけなくても互いを助け合えるような社会にしていけるかは
自分たちの行動次第なのです。
「いじり」は「いじめ」
兵庫県 姫路市立高丘中学校 2年
尾﨑 七星(おざき ななせ)
「いじられキャラ」という言葉を聞くと,「みんなから愛される人」という印
象を持つと思う。だが,本当にそうなのだろうか。
私の友人に,よく周りからいじられている子がいた。その子はいつもニコニコ
していて,誰にでも優しく,全く怒らないタイプだった。だからみんなは毎日そ
の子をいじっていた。最初のころは,軽いいじりだった。私もその子のことをい
じり楽しんでいた。だがそのいじりはだんだんエスカレートしていった。その子
のことをひどくバカにしたり,みくびった発言をしたりしていた。日が経つごと
に,いじりはひどくなっていった。ひどい時にはその子を部屋に閉じこめ,出ら
れないようにドアを押さえたり,カギをかけたりした。
「ねぇ開けてよ!。」
そう言ってもみんなは笑っていた。さすがに私は,いじめなんじゃないかと思っ
た。周りの人も,何人かはそう思っているようだった。しかし,その場の空気や
本気で楽しんでいる人達に怖気づいてしまい,私は何も言えなかった。そして何
よりその子も笑っていたからだ。嫌そうな顔をせず,楽しんでいるように見えた
からだ。なので私はこの子は大丈夫なんだなと思い,そのままみんなと笑ってい
た。この頃から,その子へのひどいいじりは毎日になり,あたりまえになってい
った。その子をたたいたり強く押したり,その子から逃げたり避けたり,もうな
んでもありだった。しかしその子は一度たりとも嫌な顔をしたり怒ったりはしな
かった。ただ笑っていたのだ。もう私は,ひどいいじりを受けている所を見ても,
何とも思わなくなっていた。私はその子のことを,「何をされても怒らない子」
と勝手に決めつけていた。
ある時から,私も周りの人からいじられるようになった。初めはちょっかいを
かけられるぐらいで,私も楽しかった。だがそのいじりもだんだんひどいものに
なっていった。まず,私のことが嫌いだと何人かに大きな声で叫ばれた。冗談だ
ということは分かっていたが,何だか惨めな気持ちになった。私がみんなの方に
行くと逃げられたりした。くつをとられたり,隠されたりした。すごく嫌で,や
めてほしかった。本当は嫌って言いたかったけど,もし言ったら空気を壊してし
まいそうで言えなかった。何より,仲の良い友達にいじられるからすごく言いづ
らかった。だから笑って耐えることしかできなかった。ところが私へのいじりは
日に日になくなっていった。ホッとしたが,心の中はもやもやしていた。
法務事務次官 賞
私は実際にいじられてみて,気付いたことがあった。それは,
「いじり」は「い
じめ」と変わらないということ。いじっている人からすれば,「いじめ」ではな
く「いじっているだけ」と思うかもしれないが,いじられている本人からすると,
「いじめられている」と感じてしまう「いじり」もあるのだ。
そのことを身に染みて実感する出来事があった。毎日みんなからひどいいじりを
受けていながらも,笑顔だった友達が泣いたことだった。私はすごく驚いた。こ
の友達は「何をされても怒らない子」ではなかったのだ。そもそも,そんな人な
んていないのだ。そして私は気がついた。それは,無意識に私は「いじめ」をし
ていたということだ。「軽いいじり」は,いつのまにか,「いじめ」に変わって
しまっていたのだ。私はその子に謝り,それ以来いじることをやめた。
私は実際にいじられることで,「いじられキャラ」の辛さを知った。「いじら
れキャラ」はけして「愛されキャラ」ではなかったのである。私は「いじめ」と
「やりすぎたいじり」は同じだと思うが,私は「やりすぎたいじり」の方が恐ろ
しいことだと思う。それは仲の良い友達にされるからである。嫌われたくない思
いがあるから,
嫌と言えないし助けを求められないのだ。
私はそんな恐ろしい
「や
りすぎたいじり」をする人がいなくなってほしい。そのいじりはいじめと変わら
ないということに気付いてほしい。そして何より「いじめ」や「いじり」に苦し
んでいる人がいなくなってほしいと思う。いじられて嫌な思いをしている人は,
嫌と言える勇気が必要だと思う。その空気を壊さなければ,状況は何も変わらな
い。いじっている人は,自分がいじめをしているという自覚がない。だから勇気
を出して行動を起こさなければならないのだ。
私は,「いじり」は「いじめ」と変わらないということを多くの人に知ってもら
いたい。そして何より,「いじめ」や「いじり」がこの世界からなくなってほし
い。
もし,
いじめやいじりで苦しんでいる人を見つけたら,
手を差し伸べようと思う。
ものの見方は一つじゃない
三重県 学校法人三重高等学校三重中学校 2年
川瀬 彩(かわせ ひかる)
今年の夏休み,私は久しぶりに小学校の同級生に会った。別々の中学校に進学
したため,お互いのクラブや友だちについてしばらく話した後,ふと友だちが,
「私たちの中学校にな,車椅子の先生がおるんやに。」
と話し出した。車椅子の先生・・・?どうやって授業をされるのだろう?黒板に
手が届くのだろうか?何の教科の先生なのだろう?自宅から中学校までどうやっ
て通勤してみえるのだろう?疑問に思った私は友だちに聞いてみた。すると,授
業は主に電子黒板を使い,手元のタブレットやスマートフォンで操作をされるこ
と,自動車で通勤してみえることなどを話してくれた。
車椅子の先生なのにすごい,と思った私は家に帰って家族に話した。
「車椅子の先生やのに,めちゃわかりやすく教えてくれるんやって。すごいと思
わへん?」
私は,家族から当然「そうやな。すごいな。」
という返事が返ってくると思っていた。私の母は小学校の先生をしている。「や
りがいのある,楽しい仕事だよ。」といつも話してはいるが,常に忙しく体力も
気力もいる仕事であることは私にもわかる。そんな母だから,車椅子で中学校に
勤め,わかりやすい授業をされる先生のすごさを共感できると思っていた。しか
し,母から返ってきたのは,
「車椅子の先生『やのに』わかりやすい,ってどういうこと?」
という言葉だった。聞かれた意味が分からなかった私が黙っていると,母は続け
た。
「その先生は,何かの理由で車椅子で生活してみえるんだね。きっとお体の中で
うまく動かないところがおありになるんだろうね。でも,そのこととわかりやす
く教えることは関係ないやんか。お母さんたちも,他の小学校や中学校の先生た
ちもみんな,教え方はいつも考えたり工夫したり研究したりしとるよ。その先生
もそうやって毎日研究したり工夫したりしてみえるから授業がわかりやすいんや
ろ。それと車椅子に乗ってるか乗ってないかは関係ないやん。」
いつもと違う母の口調になんと返事をしていいかわからずにいると,そばで聞い
ていた父が言った。
「いろいろ不便なこともあるやろけど,子どもたちのことが大好きな先生なんや
ろな。なんていう名前の先生や?」
法務事務次官 賞
父に尋ねられて,私はその先生の名前を友だちに尋ねなかったこと,友だちも私
にその先生の名前を言わなかったことに気づいた。
「わからん。聞かへんだし,友だちも『車椅子の先生』しか言わへんだもん。」
と答えて居間を出た。
自分の部屋に戻ったが,父の言葉が気になった。友だちはなぜ,先生の名前を
言わなかったのだろう。そして私はなぜ「何ていう先生?」と聞かなかったのだ
ろう。いろいろ考えているうちに,ふと小学校の時の「友だち発見!」の活動を
思い出した。いつもいっしょにいるクラスメイトと,得意なことや好きなこと,
実は苦手な物や将来の夢などをお互いに話し合い,聞き合った。よく知っている
と思っていたクラスメイトのいろいろな面が見えてとても楽しい時間だった。ど
の子にもいろいろな個性があること,自分が持っている狭いイメージだけで相手
を判断してはいけないことを小学生なりに感じた。そのことを思い出した時,私
は自分の中の「決めつけ」に気がついた。友だちの「車椅子の先生」という一言
で,その先生に対して「かわいそう」「私たちにはできることができない」「で
も先生だなんてすごい」と思い込み,その先生の名前も知らないのにその先生を
わかったような気持ちになっていたと思う。もしかしたら,私に話した友だちも
「車椅子の先生」の一言でその先生の全てを私に紹介した気になってしまったの
かもしれない。
家族に自分の考えたことを話すと,母は,
「そやな。彩は一人っ子やけど『一人っ子はわがままや』『一人っ子はかわいそ
うや』と言われてうれしい?『A型は整理整頓が得意で几帳面。でもまじめすぎ
ておもしろくない』ってよく言われるけど,少なくとも彩に関してはそれは違う
わなあ。整理整頓とか。」
と笑った。そしてそのあと言った。
「車椅子の先生は,
車椅子に乗ってるってだけで,
他の先生と何も変わらないよ。
人を決まった見方でしか見られないと,その見方からちょっとでもはみ出す人と
は自分から壁を作ってしまうよ。それはとても寂しいよ。」
中学校に進学し,私の世界はぐっと広がった。今後さらに広がり,職業・性別
・国籍・年齢・生き方や心身の個性―――様々な違いに出会うと思う。今回,私
は「決めつけ」は「壁」「差別」を生むことに改めて気づけた。そのことを忘れ
ずに,自分だけでなく学級や学年,地域や社会の中でもみんなが笑顔でいられる
ような日々の過ごし方をしていきたい。

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