資料5
学ぶことは生きること
岡山県 岡山県立岡山操山中学校 2年
小西 珠生(こにし たまき)
目を閉じて想像して欲しい。あなたは日本人で大人だと仮定しよう。家から一
歩外に出ると,あなたは不安で落ち着かず,自信がなくなる。街を歩くと,目に
入る看板や案内の文字が分からず,あれは何を意味しているのだろうと考える。
そしてそんなことも分からない自分はクズだと思う。バスに乗っても,「運賃」
という漢字や行先を告げる文字が読めず,乗るのが怖くなる。自分はいつも不確
かで分からないものに囲まれた世界で生きていると感じる。あなたは,なぜこん
なに困っているのだろうか。
私は今年の夏休みに,岡山自主夜間中学へ学習ボランティアとして通った。先
ほどの例は実際にここに通われている A さんの話だ。A さんは幼い頃に大病を患
い,小学三年生から不登校となった。中学校もほとんど通わないまま卒業証書だ
けを受け取った「形式卒業者」である。きつい肉体労働の仕事に就くが病気のた
めに辞めてしまい,その後も職を転々とした。字が読めない,書けない,計算が
できないために仕事が選べず,恥ずかしい思いを数え切れないほどしてきたとい
う。
夜間中学校とは,A さんのように不登校など様々な事情で十分な教育が受けら
れないまま中学校を卒業した人,現在不登校の中学生,戦後の混乱期の中で義務
教育を修了できなかった人,外国籍の人など多様な背景を持った人々に義務教育
を受ける機会を保証するために作られた学校である。現在,全国に公立夜間中学
校が八都府県で三十一校,ボランティア団体等が行う自主夜間中学校は十六都道
府県で三十七校ある。私がボランティアに通った岡山自主夜間中学には,十代か
ら八十代までの五か国の生徒が約四十人通っている。生徒はみんな私と同じ「中
学生」ということだが,教室を見渡すと多様性に富み,世の中には本当に様々な
中学生がいるものだと驚いた。
ある日,私は自分の祖母よりも年上である B さんの分数の勉強を手伝った。こ
こでは基本的に先生と生徒が一対一で勉強する。B さんは,現役中学生の私がボ
ランティアとして通っていることに驚き,なぜ自分が今になって夜間中学に通っ
ているのか,義務教育を受けなかったために,今までどれほど苦労して生きてき
たのかを話してくださった。そして「珠生ちゃんのように若い時にこんな勉強が
できていたら,今頃もっと幸せなのかねえ。」と呟かれた後,驚くべきことばを
発した。
内閣総理大臣 賞
「今日習ったことを忘れたくないから,宿題を出してください。」
と言われたのだ。私は自分の耳を疑った。宿題は私の天敵である。私が通う中学
校では,生徒の意志に関わらず,自動的に宿題が山のように出される。勉強が得
意ではない私は,
「どうして勉強しなければいけないの?こんな勉強,何の役に立つの?」
と学ぶこと自体を否定し,宿題も嫌々していた。だから,B さんに宿題が欲しい
と頼まれたとき,私は自分が恥ずかしくなった。B さんをはじめ,夜間中学に通
う方たちの学びに対する情熱がまっすぐでとてもまぶしかった。そして多くの方
は,この夜間中学へたどり着くまで「何のために学ぶのか」など考える余裕もな
いほど,ただ必死で生きてこられたことを思うと,自分がいかに恵まれていて甘
えているのかを痛感した。
統計的には,日本の義務教育課程における就学率は約九十九パーセントだ。し
かし,全国夜間中学校研究会の推計では,一度も学校に通ったことがない未就学
者と小・中学校中退者を合わせると,全国で百数十万人の義務教育未修了者がい
るという。
その中には複雑な家庭環境を背景に,
出生届を出していない無戸籍児,
親の虐待,ひきこもりや不登校など,様々な社会の問題が原因で義務教育未修了
者となった者もいる。私たちは日本国憲法や教育基本法等で,教育を受ける権利
を保証されているはずである。しかし現実には夜間中学で出会った方たちのよう
に十分な教育が受けられず,劣悪な状況に追いやられて生きている人たちがいる
ことを私たちは忘れてはならないと思う。
学びを求めている人たちに,
もっと
「教
育の機会」を届けたい。
私が尊敬するマララ・ユスフザイさんの国連でのスピーチが私の背中を押して
くれる。
「一人のこども,一人の教師,一冊の本,そして一本のペン。それで世界を変
えられます。教育こそがただ一つの解決策です。教育を第一に。」
私は本当に小さなことしかできないが,これからも夜間中学の学習ボランティ
アの一員として,学びの場を守り,共に学んでいきたい。学ぶことは生きること。
私はこの夏,岡山自主夜間中学の皆さんに,学ぶことの意味を教えていただいた
と思う。
弟が教えてくれたこと
熊本県 天草市立本渡中学校 1年
松本 華英(まつもと はな)
私は,父,母,妹,弟の五人家族です。その中の弟は,ダウン症候群という障
害をもっています。
ダウン症とは,約 800 人から 1000 人に1人の割合で生まれて,普通は,46 本
の染色体がありますが,ダウン症の方は,47 本あり,一般的に発達はゆっくりで
個人差があるそうです。
私の弟は,私が五歳の時に生まれました。生まれてすぐ救急車で熊本の病院へ
運ばれて行ったのを十三歳の今の私でも覚えています。すごく肌が真っ白で,生
まれた時泣き声も聞こえず,すごく心配でした。私は弟とも会えず何もしてあげ
られなく辛かったです。
しかし,幸いなことに心臓の手術は成功しました。入院中,弟の病院へ行くこ
とはできても,直接弟と会うことはできませんでした。決められた時間にガラス
越しに見える弟の姿に,ショックで言葉も出ませんでした。鼻や胸などチューブ
が体中に入れられている状態でした。なぜこんな小さな男の子がこんな目に遭わ
なければいけないのかその頃私にはよく理解できませんでした。
そして三ヶ月後,弟は退院し,一歳半になると手話ができるようになり,手を
使って自分の思いを伝えるようになりました。二歳になると歩けるようにもなり
ました。自分のペースで頑張っている弟が私に元気や希望をたくさん与えてくれ
ました。
十二歳の頃,私は二つの記事を見ました。それは私にとってはとても衝撃的な
ものでした。その記事の内容は,新出生前診断についてです。日本で 2013 年に取
り入れられたもので,お腹の中にいる赤ちゃんが障害等を持っているのか調べる
診断でその検査は 99%正確な結果が出るというものでした。
そこで約 800 人が異
常があるという理由で赤ちゃんを中絶したそうです。
また,もう一つの記事には,アイスランドでダウン症の子供が生まれてこない
社会を目指しているという記事です。なぜそんな社会にしていきたいのか全く理
解ができません。
私の家族にとっては,弟が生まれて良いことばかりが起こったと感じます。例
えば,私はスポーツなどで勝つのが一番大事だと思っていました。しかし弟を見
て,みんなと一緒にスポーツを楽しみ,大会に喜んで参加している姿やマラソン
で最下位であっても周りで応援している人に笑顔で手を振っている姿を見て,ス
法務大臣 賞
ポーツの目的は,決して優勝することだけではないと,考えさせられました。
母は,弟を産んでいろいろな人と出会い他の人の気持ちがよく分かるようにな
り,弟のおかげで母もたくさん学ぶことができていてとても感謝しているそうで
す。
父は,弟の誕生をきっかけに,障害を持つ人が社会に参加できる事業を立ち上
げました。やりがいのある実りある仕事が今できているのは弟のおかげだと話し
ています。
このように,私の弟は私たちの家族にはなくてはならない存在です。ダウン症
の人がいない社会を目指すのは大間違いです。ダウン症の方は,多くの人たちと
同じで様々な性格の方がいますが,私の出会ったダウン症の方は,ほとんどの方
が人付き合いがうまく,陽気で思いやりのある人が多いです。どんなに勉強やス
ポーツが苦手であっても,どんなに成長するのが遅くてもダウン症の人は周りの
人をとても幸せにしてくれます。私の弟もそうです。そういう人が,この社会に
は,とても重要な人だと私は思います。
しかし残念ながら,ダウン症の人は社会の一部から見ると価値のない人間だと
思われています。そのような見方をする人は,完璧な人間を目指しているのでし
ょうか。私は,人が完璧でないという理由で命を奪う社会はとても恐ろしいと思
います。そうなるのであればお腹の中の赤ちゃんにちょっとした異変があれば社
会は中絶を勧めるのでしょうか。これからの未来がすごく心配です。
世の中には,いろいろな人がいるからこそそれぞれが個性を出し合うことで社
会が明るくなり,人や国が豊かになると思います。
ある時,母が私にある事を聞きました。
「もし,弟からダウン症という障害を取る事ができるのであれば取りたい?」
と。その時,私は絶対に取って欲しくないと思いました。今の弟が,私の大切な
弟だからです。成長が遅くても,発音が完璧でなくても,スポーツがそんなにう
まくなくても,私の明るい,面白い弟は,私にとっては,そのままで完璧な弟な
のです。
待つ
山口県 防府市立桑山中学校 3年
澁澤 佳奈実(しぶさわ かなみ)
私の祖母は,目があまり見えていません。視界の中心が見えないという目の病
気です。私はこの祖母と,週末になるとスーパーに買い物に行きます。
スーパーに行くと,祖母が探している品物のところに行きます。そこでは,や
はり,祖母の視力では,知りたい品物の情報が読めないことがよくあります。祖
母は,ここ最近耳も遠くなっています。ですから,私が文字を祖母の耳の近くで
読むのです。すると,いつも「ありがとうね。」と祖母は言います。祖母は,私
のことをとても頼ってくれています。
他にもスーパーに行くと困ることがあります。それはお金の支払いです。レジ
の店員さんから言われる値段が,よく聞き取れないことと,お札や小銭を取り出
すのにとても時間がかかることです。ある日,こんなことがありました。祖母が
レジで,一枚ずつ小銭を財布から出していた時です。祖母の後ろに並んでいた人
が,「チッ。」と舌打ちをしたのです。横目で見ると,靴底で床を蹴り,せわし
なく貧乏揺すりを始めました。祖母の会計が遅くて,イライラしている様子がは
っきりと伝わってきます。私は焦り,祖母から財布を預かると,急いでお金を支
払いました。「なぜ,待ってもらえないのか。誰もが同じように素早くお金が払
えるわけではないのに。」と,とても悲しい思いをしました。
しかし,別の日,こんなことがありました。その日は特にレジが混んでいまし
た。その時の私には,あまり心に余裕がなかったのだと思います。レジで支払い
をする祖母の後ろに,長く列が続いていました。それを見た私は,つい焦ってし
まい,一人でお金を払おうとしていた祖母に言いました。「おばあちゃん。もう
ちょっと急いでよ。」と。すると,祖母の後ろに並んでいた一人のおばあさんが
言われました。「そんなに急がんでもいいよ。あんまりあなたのおばあさんを急
かさないであげて。」私はその時,気が付きました。自分がしたことは,前にス
ーパーで出会った舌打ちをした人と同じだということにです。なぜ,あのように
きつい口調で言ってしまったのか,待つことができなかったのか,自分を責めま
した。その日祖母は,いつもの「ありがとうね。」ではなく「ごめんね。」と言
いました。自分の中で,恥ずかしい気持ちと悲しい気持ちが渦巻いていました。
私は祖母と一緒に生活することで,大切なことを学びました。それは「待つ」
ということです。自分の心に余裕をもって,急かすのではなく,相手を「待つ」
ということが大切だということです。誰もが同じようにできるわけではないこと
文部科学大臣 賞
に気付かなければなりません。時間がかかる人も当然いるのです。祖母の後ろに
並んでおられたおばあさんは,その後ゆっくりと会計をされていましたが,誰も
急かす人はいませんでした。この,「待つ」ということは高齢の方だけでなく,
小さな子どもや障害のある方にも通じるものだと思います。
他にも考えさせられたことがあります。これも会計の時の出来事です。いつも
のように私が支払いを手伝おうとしました。
すると祖母から
「一人でもできるよ。」と言われたのです。お金を支払うときの手伝いは,特に頼まれたわけでもなくし
ていました。この行為は,「おばあちゃんが困っている。」という私の判断や,
「早く払わなければ。」という私の焦りからくる行動だったと思うのです。祖母
の人権を尊重しての行動ではありませんでした。人の人権を尊重することと,人
を手助けすることとは全く違うことに気が付いた瞬間でした。私は自分の思い込
みで行動してしまい,親切を祖母に押しつけるような形になっていました。祖母
のできることまで,待たずに奪っていたことになります。相手の気持ちをよく考
え,お互いに気持ちよく支え合うことが大切なのだと思います。
もう一つ,祖母に教えてもらったことがあります。祖母は,いつも顔を合わせ
る度に声をかけてくれます。そして,私が何かするとすぐ,「ありがとうね。」
という言葉を返してくれます。この声掛けは,気持ちを温かくしてくれます。祖
母は,私たち家族にとてもよくしてくれます。でも,私は母に言われないと「あ
りがとう。」と感謝の言葉を伝えるのを忘れてしまいがちです。感謝の言葉に限
らず,挨拶は相手のことを確認し認める行為だと聞いたことがあります。そうな
らば,相手に感謝の言葉をかけたり,挨拶をするということが,相手の人権を尊
重する第一歩ではないかと思いました。それなら私にもできます。人権の尊重と
聞くと,何かとても難しいことのように感じていましたが,こんな身近なところ
でも人権尊重の精神は生かせるのです。
私は祖母から,皆がもっている人権を大切にするヒントを沢山もらいました。
このヒントを無駄にしないよう,私にできることを一つずつ実践していきたいと
思います。
「自分の種類とその性別」
佐賀県 白石町立白石中学校 3年
小川 一花(おがわ いちか)
今は成長もあって珍しいことになったが,昔私はどこに行っても男の子に間違
えられた。初対面の人は必ず私の顔を見ては首をかしげ次に出てくる言葉は「男
の子?」だった。一応否定していたものの,私にとってそれは確かにうざったい
ことではあったが,男の子と思われることに対しては嫌ではなかった。どちらか
というとかっこいい物のほうが好きだったし,女の子のような身なりにはなりた
くないと思っていた。何より自分が女の子であることに少し違和感があった。祖
母から「女の子なんだから」と言われるたびに嫌な気持ちになり,ワンピースも
ピンク色も身につけないようになった。
しかしそれは昔の話であって,今は「女の子用の物」嫌いも幾分かやわらいだ。
そんなある日,
私は
「LGBT」
という性的少数者に指す言葉を初めて知る。
「LGBT」
はそれぞれの頭文字で,レズビアン,ゲイ,バイセクシャル,トランスジェンダ
ーを組み合わせたものだ。
同性が恋愛対象の人,
異性同性共に好きになりえる人,
心と体の性別が一致しない人。私はその人たちの存在にすごく興味を持った。そ
の当事者たちの苦労話の記事をたくさん読んで,
その苦しみを理解していくうち,
あたりまえに過ぎる日常や,決して深い意味のない言葉に苦しめられていたのだ
と知った。しかしそれは私にあてはまるものではなかった。まだ少しもやっとす
る気持ちを残しながら,もっと深く調べていくうち,新たに「LGBT」という言
葉だけでは表せない性,「LGBTQ」を知り,「X ジェンダー」にたどりついた。
その記事を読んでいくうち,長年のわだかまりがとける瞬間が分かった。X ジェ
ンダーとは,男性,女性に完全にあてはまらない人を指すものである。その自認
は人によって多様で断定できるものではない。例えば私だと,女でありたくない
が男になりたいわけでもない無性と呼ばれるものになる。今はそれが一番しっく
りくる性自認だ。私は自分が女性だとどこかであきらめていたのだろう。X ジェ
ンダーの例にあてはまる部分がたくさんあったことで,仲間がいるということ,
別におかしくないということが分かってスッキリした。やっと自分という人間の
種類がはっきりしたように思えたからだ。
しかし,自分のような X ジェンダー,LGBTQ をすんなり受入れてくれる人は
いるのだろうか。一般的に考えてそのような人は少ないと思う。その人たちにと
って異性を好きになることがあたりまえで,性別の例になるような格好でいるこ
とを普通とする。それは私たちにはあてはまらないことだ。つまり「普通ではな
世界人権宣言70周年記念 賞
い」と判断されてしまう。それによっていろんな偏見が生まれ,差別されてしま
うので心に秘めたままの生きづらい世の中になってしまう。
私は叫びたくなった。
「普通」とは誰が決めたのか。誰かが決められるものなのか。何故自分を隠さね
ばならないのか。そう考えるとこの世の中はおかしいことであふれている。
今の時代,LGBTQ がメジャーになりつつある。支援団体の発足や LGBT とい
う言葉の広がりなどで,テレビにとりあげられたりして世間による認知も高まっ
てきていると感じる。私たちマイノリティーに共感しろとは言わないが,理解し
てほしい。「どうせ女だろ」「そんなことして何になる」「普通にしろよ」全て
私たちを傷つけていることを理解してほしい。
私たちは一人一人違う生きものだ。
誰一人として同じ人はいない。しかし人間という生きものは支え合ってお互いを
理解しあって生きていけるはずなのだ。今,この瞬間も心の溝をうめられない人
が苦しんでいる。差別の目があるから,SOS も怖くて自分から出せない人もいる
のだ。私達は助け合える。ぜひ手を差しのべて「大丈夫だよ」と言ってほしい。
そしてもしも世間というような大きな壁があなたの自己をふさいでしまうのな
ら,どんなに小さくてもいいから救いを求めてほしい。それがセクシャルマイノ
リティーの理解を求め支援できることにつながると思う。そしてこの社会にはセ
クシャルマイノリティーが特別で異質なものという認識ではなくごく自然なあた
りまえで人それぞれのものという認識をしてほしいと思う。
今や十三人に一人といわれている LGBTQ。決して他人ごとではなく,あなた
の周りにも言わないだけでいるかもしれない。生きやすい世の中にするために女
らしさ,男らしさを求めない社会になってほしい。私自身も自分のことを深く理
解し,今後の行動に生かそうと強く思った。
"ダイバーシティ"の推進力に!
東京都 八王子市立加住中学校 3年
瀬戸 秀一(せと しゅういち)
「夏の甲子園。」百回を記念する今年,全国から代表五十六校が出場し,連日,
熱戦を繰り広げた。なかでも,秋田県立金足農業高校の快進撃と,校歌を一生懸
命歌う姿は,投手の力投と相まって,大いに注目された。
そんななかで,私が最も注目したのは,高知商業高校の主将を務めた山中大河
選手だ。山中選手の背番号は一〇番。レギュラーではない。主に三塁コーチとし
て選手たちを励ましつづけた彼が主将に選ばれたのは「部員の総意」と監督は語
る。
山中選手の右手には親指と人差し指しかない。だから,ボールを投げるのもキ
ャッチするのも,左手一本でおこなう。グラブを右肩と顎で挟んで投げるその技
法は「グラブスイッチ」と呼ばれている。
かつて,米メジャーリーグには「グラブスイッチ」を操る投手がいた。一九八
八年のソウル五輪で金メダルを獲得したほか,メジャー通算八十七勝をあげたジ
ム・アボット氏。山中選手のプレースタイルは,アボット氏を参考にしているそ
うだ。
幼いころから,何度も何度も,限界を超えながら,身体と心を鍛えてきたのだ
ろうと想像しながら,私は観ていた。山中選手のひたむきなプレーと三塁で仲間
に声をかけつづける姿に,私は胸が熱くなった。監督が語った「部員の総意」と
は,きっと全魂を込めて野球に打ち込む山中選手の姿にあるし,自分との戦いの
なかで培ってきた「人間力」によるのだろうと思う。
私の右手にも,山中選手と同じくハンディキャップがある。私の場合,親指が
欠損していて,他の四本の指も曲げにくく,「物をつかむ」など握力を必要とす
る手の動きはできない。
そんな私にとって,山中選手は,私の目標とすべき人なのである。
私は今,中学三年生。来年の高校受験を控えている。将来への不安が無い,と
言えば,うそになる。
しかし,一筋の光が見えた。
昨年秋に,学校の授業で職場体験があり,私は,東日本旅客鉄道株式会社に行
かせていただくことができた。
幼いころから鉄道路線図を覚えることが好きだった私にとって,夢の一つが叶
った瞬間であった。
法務副大臣 賞
学校の先生のすすめで,履歴書にはハンディキャップがあることも記入し,将
来の就職活動を思い描きながらの職場体験であった。
職場体験当日,JR八王子駅で私に仕事を体験させてくれた職員の方は,上肢
機能障がいを持つ男性だった。ハンディキャップをもちながら職場の第一線で活
躍する姿は,とても輝いてみえた。
そこで,"ダイバーシティ"という言葉を教えていただいた。
"ダイバーシティ"とは,多様な人材を活用し,それぞれの力が最大限発揮さ
れることに,組織は留意するべきであるという考え方のことで,全て構成員が相
互に,一人ひとりの持つ固有の特性,属性に敬意を払い,尊重し合うという精神
が,その考え方の軸となっている。
JR東日本では,性別や年齢,国籍,障がいの有無にかかわらず,多様な人材
がさまざまな業務において活躍しているそうだ。
この"ダイバーシティ"の取り組みをしている企業について調べてみると,私
が思ったより多くの企業が取り組んでいることがわかった。
私が就職する頃には,もっと多くの人が,この理念を理解し,実践する企業が
増えていてほしいと思う。
この職場体験のおかげで私は,障がいをかかえていても障がいのない人と同じ
仕事ができることを知り,一つの"希望"を見いだした。
"ダイバーシティ"というこの企業理念を推進していく一人になって,自分と
同じくハンディキャップを持つ人が,職場の第一線で働ける環境が整っていくよ
うに貢献していきたいと思う。ハンディキャップを持つ人が,差別されない世の
中を目指して――。
差別や偏見は無知から始まる
滋賀県 滋賀大学教育学部附属中学校 1年
中村 燎(なかむら かがり)
「ハンセン病家族差別敗訴 国の責任一転認めず」(平成三十年七月二十五日
朝日新聞より)
私は今年の夏,家で目にしたこの新聞記事に触れるまで,ハンセン病について
全く知らなかった。その記事の内容は,ハンセン病患者の隔離政策により患者だ
った母親と共に差別を受けたとする鳥取県の男性が,国などに損害賠償を求めた
というものだった。私は,今の日本で一体どんな差別があるのかを知りたいと思
い,資料やインターネット等で調べることにした。そして今回ハンセン病につい
て調べていくうちに,今の日本で本当にこのような不当な差別や人権侵害があっ
たのかと驚き,ショックを受けた。さらに,この差別が今もなお現在進行形であ
ることに,私の中での疑問や憤りがどんどん増してきた。
そんな時である。この憤りについて母に話した際,母から古いビデオテープを
手渡された。テープの内容は,小学校の教員をしている母が,若い頃ハンセン病
患者の方が,病の中で絶望的な状況の中,どのように立ち上がり,またどのよう
に患者の方々を支えていくことが大事であるかに興味を持ったため,実際に患者
の方々をインタビューした時の記録だった。そのビデオには,瀬戸内海に浮かぶ
離島という環境が,隔離に適していたため,日本初のハンセン病の国立療養所と
して発足した長島愛生園での患者の方々から,多くのことが語られていた。私が
生まれる前,今から十五年ほど前のインタビューではあるが,その中には患者さ
ん自身の肉声があった。例えば,母と話をしていた女性「島さん」。島さんは,
とても穏やかな表情で丁寧に話しておられる。その手指の曲がった容姿から,ハ
ンセン病であったことを伺い知ることができた。そして,島さんの名前は本名で
はない。
患者さんたちは愛生園に入所するにあたり偽名を使用させられたと言う。
その時点で,患者さんたちは世の中から存在を消されてしまったのだ。そんな島
さんから,ここに書きたくもないような迫害と差別を受けてきたこと,そして長
い長い時間をかけて「らい予防法」が廃止されるまで,人権を取り戻すための闘
いがあったと知った。
私は,怒りを持ってそのビデオを見ていたが,なぜか島さんには,自分の運命
への恨みつらみがない。
島さんから出てきた言葉は,
「ここに来られて良かった。
差別は受けたけれど,一緒に闘い生きた仲間や先生,お医者さんが居てくれたか
ら。」というものだった。
法務大臣政務官 賞
数多くのハンセン病患者の方々全員が,島さんのように感じておられるわけで
はないかもしれない。でも,私は島さんの言葉を聞いて恥ずかしくなった。ハン
セン病について調べ,患者の方々の心を理解したようなつもりでいながら,実は
よく分かっていなかった。私の中にかわいそうだというような偏見があったので
はなかったか。私は,ビデオを見てしばらくの間,心が重く自分の何が間違って
いたのか考えることさえできなくなってしまった。数日後,私はもう一度心の中
を整理してみた。私の「思い込みや無知が偏見や差別を生み出す」ことを強く感
じた。島さんの「苦しかったけれど,自分の心まで病気になってはいけない。相
手のことを思い続けることで,いつか差別はなくなっていく。」という言葉が重
く,心に染みていく。これまでの私のように,何も知らなかったではすまされな
い。ハンセン病は治る病気であるのに,誤った知識が広まって,人権侵害が長く
続いてしまった。
同じ間違いを繰り返さないためにも,
事実の風化を防ぐことが,
今の私に出来ることだ。正しい知識を活用し,人々を助けられる人間でありたい
と,私は思う。
「知る」努力と人権侵害
愛知県 愛知県立一宮特別支援学校中学部 3年
佐々木 杏夏(ささき きょうか)
世界中の全ての人が人権を持っている。そして,差別や偏見は度合いに関わら
ず,紛れもない人権侵害である。そのことを踏まえた上で,それを防ぐ方法を考
えていこうと思う。
まずは,私を知ってもらいたい。私は今,中学三年生だ。脳性まひという障害
がある。歩くことが難しいので,現在は特別支援学校に通っている。小学生まで
は,地域の小学校にある特別支援学級に在籍していた。私はできないことが多か
ったので,色々な支援をしてもらっていた。楽しいこともたくさんあった。しか
し,そんな中,私が常日頃感じていたのは,自分がいわゆる普通ではないという
ことだ。時々ふとどこかに壁を感じることがあった。例えば,小学校の終業式の
日。クラスメイトや下級生でさえ,その日特有の大きなかばんを重そうに持って
いた。それに比べて私は,車イスを押してもらいながら帰っていた。荷物も車イ
スにかければ,
私は手ぶらだった。
当然,
クラスメイトからは
「良いな楽そうで。」と言われた。座り続けることは,かなり辛いもので,身体もよく痛くなる。そう
いう面での辛さを知らない相手の言葉には,やり場のない気持ちがわいてきてし
まう。それに私もできることなら,重い荷物を持ってでも,友達と長期休みの予
定を話しながら帰ってみたいと考えていた。
当時は分からなかったが,今思えばこの考え方の差を作ったのは,私とクラス
メイトの間にあった「知らない」という壁だったと思う。私にはできないことが
多いのが普通だったから,障害のない人やできて当たり前の人の気持ちは分から
なかった。今でもきっと分からないと思う。ちょっとした言動に傷ついたことも
ある。ある人が私への質問を母に聞いていた。その時私は,母と二人で外にいた。
目の前の私をしっかり見ていたので,確実に目は合っていたのに。母は困ったよ
うに私を見た。あわてて私が答えると,その人は少し驚いて「あれ,しゃべれる
んだ。」と言った。それに悪意がなかったと分かったのは,最近のことだ。クラ
スメイトやあの人も,障害のある人と関わることがなかったために私のことがよ
く分からず,こういう言動になったのだろう。
知らないというのはそれだけで怖いもの。誰でも,それまで存在すら知らなか
ったものに近付くのは勇気がいるだろう。だから,皆身を守るために,知らない
ものには心の壁をこしらえて,更に距離を置く。お互いを壁で遮っているのに,
更にまた距離を置いているとなれば,分かり合えるはずがない。分かり合うため
全国人権擁護委員連合会会長 賞
には,この壁を取り払って,距離を近付ける必要がある。
私は,差別や偏見は,お互いを十分に知らないことで生まれると思う。だから,
まず知る努力をしたい。あの「知らない」という壁を打ち破るためだ。しかし,
身構える必要はない。知る努力はそんなに難しいものではない。インターネット
で調べる。本を読む。漫画を見る・・・。手段はたくさんある。自分がなじみや
すい方法を見つけ,知るきっかけを作る努力をすることが大切なのだ。
私にとっての「知る」きっかけは,特別支援学校に入学したことだ。環境が変
わり,今まで経験してきた辛いことや悲しいことがさほどたいしたものではなか
ったと気付き,きちんと「経験」としてとらえられるようになった。小学校の頃
の悩みだった「意見が言えない」ことも,機会がなかっただけのようで,今とな
っては笑い話だ。他のことでも,以前のように相手からの反応を待っている消極
的なものではなく,自分から意見を言い行動するような積極的な過ごし方を見つ
けられたと感じている。これはささいなことかもしれない。しかし,かつての自
分は数年後の自分が人権について考えたり,生徒会に関わるような人になるとは
思いもよらなかった。もしこのきっかけがなければ,今の自分はなかった。
今,もし小学生の自分にアドバイスができるとしたら,「周りを見て,知ろう
としてみて」と伝えたい。小学生の時に傷ついたのは,知らなかったから。人見
知りの私が,中学で変われたのは,人と関わるために初めて「知る」努力をした
から。これは障害者差別だけでなく,全ての差別に言えることだと思う。
知るという努力をするだけで,少し距離を近付けるだけで,差別や偏見をなく
すことができる。これが,今の私が考える人権侵害を防ぐ方法だ。
「大切なこと」
高知県 須崎市立朝ケ丘中学校 3年
寺村 優奈(てらむら ゆうな)
「ねえ,優奈だったらどう思う。」
新聞を置いた母は,ゆっくりと昔のことを話し出しました。それは母が学生時
代,レストランでアルバイトをしていた時の体験でした。
ある日,車椅子に乗った方とその方を介助していた人が,トイレを借りるため
に店内に入って来られました。その時,店長さんは,
「ご飲食されない方のトイレの使用については一律五百円いただいておりま
す。」
と伝えたのでした。その店長さんの言葉を聞いた介助の人は,
「この人は障害者なんですよ。」
と,店長さんの対応に驚いたような口調で言いました。しかし,店長さんはそれ
でも店の方針を変えなかったそうです。そして,二人はそのままバスで帰ってい
ったといいます。
私は母からこの話を聞いて,
「店長さんの対応は当たり前やん。」
と答えました。私の言葉が意外だったのか,母は目を丸くして,
「どうしてそう言い切れるが。でも,すごい。私が今でも答えに迷うことを優
奈はちゃんと判断できるがや。」
と言いました。
母は高校生の頃から,ボランティアサークルに所属し,障害者の人達との交流
が多くありました。そこで学んだノーマライゼーションという,障害者と健常者
が助け合いながら暮らす社会のあり方が身についていたので,店の対応に疑問を
感じつつも,介助者の方の「この人は障害者なんですよ」という一言が心に引っ
かかっていたといいます。
私はこれまで色々な場面で沢山の人権教育を受けてきました。障害者も健常者
も,みんな同じ尊い命です。「障害者は特別な存在」,「障害者はかわいそうな
人」という考え方は間違いで,障害者にとって障害は「個性」なのだと考えるよ
うになっていました。だから,障害の有無に関係なく一貫した対応をとった店長
さんは正しいと,まっすぐな気持ちで答えることができました。
しかし,私は障害者との交流がほとんどありません。習った知識だけでしか,
障害に対して理解していないと気が付きました。障害者ともっと交わることがあ
一般社団法人日本新聞協会会長 賞
ったなら,私の中の答えも変わっていたのかもしれないと思います。
看護学生だった母は,身体機能の低下がもたらす生活の困難さや,障害者を取
り巻く社会情勢について学び,障害者の障害を,「個性」という側面だけで見る
ことが出来なかったと話していました。
障害者が自分の障害を個性だと語るなら,
それはその人にとっての個性だと思います。けれど,その個性の裏には,健常者
が知ることのない様々な生活のしづらさがあります。だからこそ相手を思う心が
必要だというのが母の本音です。
教科書通りに障害者を理解しようとすると,本当に大切にしなくてはいけない
根本的な部分を見落としてしまうかもしれないと感じました。
ここまで考えを深めて,やっと私は介助の方の一言の,違和感の正体が分かっ
た気がしました。
たぶん,あの時の介助の方は,正義感にあふれていたのだと思います。「障害
者という社会的弱者を私が守らなければ」
「皆が支え合う社会が当たり前だから,
店の対応は間違っていないか」そう伝えたかったのではないかと思います。けれ
ど,一番大切にしなければいけなかったのは,介助の方の発した言葉を頭上で聞
いていた,車椅子の方の気持ちではないでしょうか。
自分の身体を信頼してあずけている人に,「この人は障害者なんですよ」と言
われた時の車椅子の方の気持ちを想像すると,
私は胸が痛くなります。
自分を
「障
害者」としてしか見られていなかったことへの驚きと悲しみの気持ちで一杯だっ
たのではないでしょうか。
母の心に長年このことがつっかえていたように,車椅子の方の心にも,ささい
な日常の一コマが,消化されずにすみついているのかもしれません。
私は最初にこの話を聞いて,すぐに「店長さんは正しい」と判断しました。で
もそれは十五歳の私の小さな世界で出した答えです。きっとこの先,沢山の出会
いや経験をすると思います。一つ一つの出会いを大切に積み重ねていくと,今回
の私の答えも変わって,今のような気持ちで,誰が正しいかと言えなくなる日が
くるかもしれません。でも,一つだけ迷わず持ち続けたいと決めたものがありま
す。それは,障害者は障害がある人であって特別ではない。でも健常者も障害者
も共存していく社会の中では助け合う心が大切だということです。
十年先,二十年先,またこの出来事を考えてみたいです。その時の私はどんな
答えを出すのか楽しみです。
障がい者が生活しやすい社会
神奈川県 横浜市立早渕中学校 3年
神谷 綾音(かべや あやね)
みんなの口をジッと見つめる。しばらくすると,みんなの肩が微妙に上がり,
口が開く。
「今だっ!!」
私は口を開ける。でも,自分の喉は動かない。それに対して口はみんなの口の形
と同じように動いていく。
隣の子がこちらをチラチラ見てくる。
「あー、
まただ。」悔しさの粒が目の奥にたまる。そして,私は心の奥底から叫ぶ。誰かに。「みん
なと同じように歌いたい!音楽を嫌いになんかなりたくない!」
音楽の授業。それは,私が苦手な科目だ。なぜなら,私は生まれつき聴覚障が
いを持っているからだ。聴覚障がいの中でも私は,重度難聴だ。いつも人工内耳
と補聴器を耳につけている。しかし,それをつけたからといって,みんなと同じ
ように聞こえるようになるわけでもなく,リズムや音程が分かるようになるわけ
でもない。だから,私の歌声はリズムも音程も全く合っていないメチャクチャな
ものなのだ。みんなに迷惑をかけたくなくて,歌う時はいつも口パクになってし
まう。しかし,それが隣の人にばれてしまい,チラチラと見られることがしばし
ばあるのが辛い。
私が困っているのは,それだけではない。本当は人と話すことが大好きで明る
い性格だ。一対一で会話をする時は,聞こえを補うために口を大きく開けて話し
てもらえば,口の形から話の内容を想像することができる。しかし,大勢での会
話はあちこちで話すため,今誰が話しているのか分からなくなり,口の形を読め
ず,内容を理解することがとても難しくなるのだ。よって,会話の中に入れず,
「おとなしい子だ。」と思われてしまうのだ。それが,私が話しかけても薄い反
応しかしない子がいる原因につながると私は考えている。本当は私も大勢の仲間
達と楽しく話したり,笑い合ったりしたいのだ。でも,何を話しているのか分か
らないので,みんなが笑っている時はなぜ笑っているのか分からないまま,みん
なに合わせて笑っている私がいる。
自分だけが内容を理解出来ていないと思うと,
いつも辛く悲しい気持ちになる。
二〇一六年四月一日より施行された,「障がい者差別解消法」を知っているだ
ろうか。これは,障がいの有無によって分け隔てられることなく,互いに尊重し
合いながら共生する社会の実現に向け,障がいを理由とする差別の解消を推進す
ることを目的としている。この法律が施行された翌年にアンケートをとったとこ
日本放送協会会長 賞
ろ,「障がい者差別解消法を知っている人」は二十一・九%,「知らない人」は
七十七・二%にも上ったそうだ。また,「障がいのある人に対しての差別や偏見
がある」と思う人は八十三・九%もいたそうだ。
私も,普段の生活で障がい者差別解消法が社会にあまり浸透していないのでは
...と感じることがある。最近でも,娯楽施設で「付き添いのない障がい者の方の
入場は,安全確保に不安がある」と,聴覚障がい者が耳が聞こえないことを理由
に入館を断られたという出来事があった。障がい者差別解消法の目的と真逆のこ
とをやっているともいえる。また,聴覚障がい者は音楽のリズムや音程が分から
ないため,音楽の評価や基準が皆と同じでは,圧倒的に不利になってしまう。そ
れは不公平だと感じている。努力してもどうにかなるものではないからだ。だか
ら,障がいを持っている人には別の基準を作って欲しいと私は思う。
逆に,浸透していると思うこともある。私は以前,英語のリスニングでテロッ
プ表示の特別措置の対応をしてもらったことがある。本当にありがたかったが,
特別措置対応可能日が一日のみであるため,都合がつかない場合,英検を受ける
ことが出来なくなってしまうのだ。だから,特別措置が受けられる日を増やして
欲しいと願っている。
私は,来春には受験を控えている。受験したい高校全てが英語のリスニングで
配慮してくれるだろうか。私が打診したり,受験したりすることで,そういう子
がいると気付いて,対応する学校が増えることを望んでいる。
障がい者差別を解消するために,私の立場で出来ること-。多くの人に聴覚障
がいのことをもっと積極的に伝えることだ。人は本能的に見慣れないものに不安
を感じ,近づかないようにする。どのように接すれば良いか分からず,声を掛け
られない人もいると思う。だから,自分は何に困り,どうすれば助かるのかをア
ピールしていこうと思う。
私の夢は,デフリンピックのバドミントン選手になることだ。「デフリンピッ
ク」とは,まだまだ認知度は低いが,聴覚障がいを持つ人々のためのオリンピッ
クのことだ。選出されて私が目立つことにより,障がいのある人がますます活躍
しているのが当たり前の社会になって欲しい。そのために,日々努力を重ねてい
こうと思う。
『良い学校』って?
岐阜県 恵那市立恵那北中学校 3年
纐纈 ほのか(こうけつ ほのか)
「この学校はいじめのない良い学校です。」ある先生が言った言葉。あなたに
は,どう聞こえますか。この言葉,私にとっては信じがたいものでした。
いじめ。この言葉はすごく曖昧です。私は中学二年のとき,何人かの女子から
悪口を聞こえるように言われたり,嫌がらせを受けたりしていました。とても辛
かったです。でも,いじめだと思ったことはありませんでした。いじめって,不
登校とか自殺とかにまで人を追い込んでしまうもの。私が受けているのは軽い嫌
がらせ。いじめはもっとひどいものだ。そう考えていたからです。休んだら女子
たちに負けたことになる,思うつぼだ,そう思って,歯をくいしばり毎日学校に
行き続けました。ただただ耐えて,涙をこらえて過ごしていました。
辛い状況が少しでも良くなればと,母や担任の先生にも相談しました。私は先
生に「辛い状況は変わってほしいけれど,みんなには言わないでほしい。」と話
しました。もし私の気持ちをみんなに伝えたら,もっと状況がひどくなるのでは
ないか,でもこんなに辛いのは嫌だ,そんな気持ちの葛藤の末の言葉でした。話
した数日後の,道徳の授業。先生が配ったプリントには,自殺した生徒たちの遺
書がいくつか載っていました。読んでみて衝撃を受けました。「私とされている
こと一緒じゃん!」そうです。遺書には,「聞こえるように言ってくる悪口に耐
えられない」
など,
私と同じようなことをされて亡くなっていく子がいたのです。
私のされていることもいじめなのか,初めてそう思いました。また,「何年か前
にいじめられていて,今は何もないけれど,突然記憶がよみがえってきて発作の
ようになり,屋上から飛び降りて亡くなってしまった。」という子もいました。
耐えれば良い,いつかは変わる,私はそう思っていたからこそすごく怖くなりま
した。そして気づきました。状況が変わればすべて終わるわけではないのだと。
「この学校はいじめのない良い学校です。」このような心境にあった私に降り
かかってきたのがこの言葉です。聞いたとき,耳を疑いました。周りの目を気に
しつつ,溢れてくる涙を拭っている私がいました。苦しみが伝わっていない。こ
の学校では辛い思いをしている人が誰一人いないことになっている。
悔しかった,
ものすごく。後輩にも,苦しんでいる子がいるのに。なぜそんなことがはっきり
と言えるのか。悲しみと共に怒りもこみ上げてきました。
「いじめ」って何だっけ。やっぱり私の受けていたものはいじめではないのだ
ろうか。では,自殺してしまった人たちの場合は..?頭も心もぐちゃぐちゃで,
法務事務次官 賞
訳が分からなくなり,私は母に涙ながらに話しました。母が教えてくれたのは,
「いじめ防止対策推進法」でした。調べてみるとそこには,いじめの定義として
主に「児童に対して他の児童などが行う心理的または物理的行為であり,その対
象となった児童が心身の苦痛を感じているもの」と書かれていました。つまり,
受けている側が苦痛を感じている,それだけでいじめとなるということです。い
じめている側は,いじめているつもりはないかもしれません。周りも,いじめで
はないと思うかもしれません。たとえ,本人がいじめだと感じていても。人それ
ぞれ感じ方は違います。当たり前です。だから,あの先生が「いじめのない学校」
と言い切ることはできないはずです。苦しんでいる生徒がいるかもしれないのに
...。
私は,小学生のときも立場が弱く,言い返すことも何もできず,されるがまま
でした。だから,中学でも「ほのかになら何をしても良い」そうなっていたのだ
と思います。「これくらいなら大丈夫。」そんなことは一つもないのです。いじ
めに基準はない,私はそう思います。
『良い学校』って?
やっぱり,「いじめのない学校」とはっきり言えるところでしょうか。いや私
は,一人ひとりの気持ちを尊重し,いじめをなくそうと努力している学校だと思
います。
なぜなら,
「いじめられている」
そう感じた時点でいじめと言えるから。
周りの人が勝手に決められるものではないから。苦しんでいる子がいるのに,人
の気持ちを知らずして,「いじめがない」と言うのは信じられません。
私は今,辛い思いをせず,楽しい学校生活を送ることができています。理由は
わからないけれど,悪口や嫌がらせがぐんと減りました。すごく辛かった,でも
あの経験に学ぶことは多くありました。いじめを全てなくすことは不可能に近い
と思います。だからこそ,いじめを「ない」ことにしてしまうのではなく,しっ
かり向き合って,なくす努力をするべきです。
境界線のない社会へ
大分県 大分市立原川中学校 2年
熊谷 一輝(くまがえ かずき)
小学校からの僕の友達に,たっくん,りょうが,みっくんがいます。たっくん
は,体が大きくて,力がとても強いです。時々不機嫌になるけれど,根は真面目
です。りょうがはとても素直で,裏表がありません。そして,みっくんは人とコ
ミュニケーションをとるのが苦手だけど,生物の知識はとても豊かで,東京大学
の先生が主宰する異才発掘プロジェクトのメンバーに選ばれるほどです。ぼくの
この三人の友達は,ひまわり学級にいました。
三人の中でも,みっくんとは一番よく話をしました。僕も,みっくんも,海の
生物が大好きで,生物に詳しいみっくんとは,とても話が合いました。先生のす
すめで,みっくんは僕と同じ委員会や係活動をすることが多かったです。
僕にとって,三人はとても大切な友達です。今,三人は違う中学校に通ってい
るので,
なかなか会うことが出来ません。
僕は時々,
「三人はどうしているのかな」
「みっくんと,生物の話を沢山したいな」と,思います。
そんな時,テレビで日本理化学工業という会社の事を知りました。この会社では,チョークを生産していて,
国内の三割の生産率という立派な業績があります。
僕が驚いたのは,それだけではありません。全従業員の七割が知的障がい者で,
そのうちの約半数が重度の障がい者という事です。しかも,五十八年前から知的
障がい者を雇用しているのだそうです。僕は,とてもすごい会社だなと思いまし
た。
健常者にとっては簡単で,当たり前のことでも,知的障がい者にとっては,理
解したり,行ったりするのが難しい時がよくあるのだと思います。でも,この会
社では,知的障がい者にも理解しやすいように,そして,作業しやすいように,
一人一人に合わせて,社長さんたちが工夫していたのです。僕は,会社や工場で
は,決まったやり方で仕事をしなければいけないのだと思っていました。でも,
そうではなく,障がい者の目線に合わせて変えることが出来たら,障がい者に出
来ることが増えるんだということに気付きました。
日本理化学工業の社長さんは,どうして障がい者を雇用するようになったかと
いうと,禅寺のお坊さんの教えがきっかけでした。
「人間の究極の幸せは,一つは愛されること,二つ目はほめられること,三つ目
は人の役に立つこと,四つめは人に必要とされることの四つです。福祉施設で大
事に面倒を見てもらうことが幸せではなく,働いて役に立つ会社こそが,人間を
法務事務次官 賞
幸せにするのです。」僕は,すごく素晴らしい教えだなと思いました。そして,その通りだなと,とて
も納得しました。
社長さんが,
仕事が終わると毎日,
「今日もよくがんばったね,
ありがとう」と,声をかけると,知的障がい者の人たちは,心から嬉しそうな顔をするのだそうで
す。それで僕も,ふと思い出したことがあります。僕がひまわり学級に行った時
の三人の顔です。
学年活動の時間の前,僕はよく三人をひまわり学級に誘いに行きました。する
と三人は,とても嬉しそうで,やる気に満ちて生き生きとした顔になりました。
ひまわり学級の先生から,
母は,
「いつも一輝さんが三人を誘いに来てくれるから,
とても助かっています。
」と,言われたそうです。僕は,みんなで一緒に活動でき
たらいいなと思って誘いに行っていました。特に決めていたことではなく,いつ
も何気なく誘いに行っていたけれど,三人は,
「必要とされている」と,感じてく
れていたのかもしれません。そう思うと,僕は,三人を誘いに行ってよかったと
感じています。
障がいがある友達と,ない友達の,違いは何だろう。僕は考えてみたけれど,
何の違いも思い当たりません。障がいがあっても,無くても,僕にとってはみん
な大切な友達です。何も差はありません。
この世がもしも,健常者だけで成り立っている世界だと想像したら,何の具も
無いタコ焼きみたいなものです。タコ焼きには,タコも入っていれば,キャベツ
やネギも入っている。ソースやマヨネーズもかかっているし,青のりやかつおぶ
しだってかかっている。僕は,社会も同じだと思います。健常者だけでなく,障
がいや病気をかかえる人たち,
小さな子どもやお年寄り,
日本人や海外の人たち,
男の人や女の人,いろんな人がいるのが社会です。健常者が偉いわけでも,一番
なわけでもありません。
大切なのは,
理解すること,
協力することだと思います。
そして,みんなが平等であれたら良いなと思います。決して簡単ではないと思う
けれど,それでも僕は,境界線のない社会になっていくことを目指して,僕に出
来ることを考えながら,これからも行動していきたいです。
心をつなぎ 伝えたい
福島県 福島大学附属中学校 1年
橋本 花帆(はしもと かほ)
私は外国人だった。ある日突然,外国人になった。そして初めて,痛みを知っ
た。差別されることの悲しみを知った。
小学五年生の秋,木枯らしが吹く寒い日だった。その日は,放課後のスイミン
グスクールがあり,駐車場に停めた車から降りたところだった。目の前をゆっく
り走る車の窓から,白人の若者達が何かさけんでいる。
「・・・Go back・・・。」
聞き取れた言葉はそれだけ。ゴーバック,帰れ?少し不安になり母を見上げた。
「見てはだめ。走ろう。」
母は私の手を引き,急いで建物へ向かう。顔が青ざめていた。私はあの若者達か
ら嫌われているらしい,そう思ったらカッと身体が熱くなった。
アメリカに来て初めての出来事だった。小学三年生の時,父の転勤でシカゴへ
やってきて,たくさんの人が私を助けてくれた。髪の色が違う。肌の色も,目の
色も,言葉も生まれた国も違う。でもそんな事は関係なく,皆優しく親切で,困
っている時には,支え助けてくれた。幼かったからなのか,気付かなかったのか,
私には全然見えていなかった。知ろうともしなかった現実があったのだ。
「シカゴの南はブラックの犯罪地区だから近付いてはいけないよ。」
と現地の人に言われた時は,
ここは北だから安心だな,
という認識しかなかった。
区別も差別も,何も考えられなかった。
ところが,大統領選挙が近付くと,少しずつ周りの雰囲気が変わってきた。そ
れが五年生の秋。あの日のスイミングスクールの帰り,母が言った。
「白人に何か言われても,気付かないふりをして通りすぎなさい。若者は熱くな
ってるだけだから。大丈夫,少しのがまん。」
運転しながら話す母の声は,緊張していた。そんな事を言われたのは,初めてだ。
けれどそれは,すぐに現実となる。
買い物へ行くと,私達を見てムスッとする人,笑って通り過ぎる人もいた。何
かを言われた時,ある言葉が私につき刺さった。
「Immigrant!」
イミグラント,移民と呼ばれる人々の事だ。難しい政治の事は分からない。なぜ
移民が悪い人のように言われるのか,なぜ私もそう呼ばれるのか,分からないけ
れど知りたいと思った。
法務事務次官 賞
「今の一部の白人にとっては,メキシカンもアジアンもブラックも,ここから出
て行ってほしい存在だから。」
母はとても悲しそうだった。
「今週もダウンタウンで差別反対のデモがある。しばらく街中には近付かない方
がいい。」
父はニュースを見ながら怖い顔で言った。
私は大人達の声に耳を傾けた。友人にも話を聴いた。大統領がメキシコ国境に
壁を作ろうとしている事,古き良き時代を取り戻すため移民を排除しようとして
いる事,
自国第一主義という考えが広がっている事,
そういう話を初めて聴いた。
初めて知った。
心に小さなトゲが刺さった。待ち針が刺さったような,チクッとした痛み。そ
の待ち針は増えていって,私の心は針山のようになってしまった。けれど,汚い
言葉や怖い言葉を針のように投げつけられてチクッと刺さったこの心で,差別さ
れる側の痛みを知る事が出来たのだ。人は同じ痛みを知る事で,心から相手を理
解出来る事がある。
日本へ戻り,中学生になった私は,見えなかった世界にようやく気が付いた。
安い賃金でやとわれるアジア人労働者,日本の技術研修に来ていたはずが,知ら
ずにやらされていた原発での除染作業,朝鮮学校前でのヘイトスピーチ。外国人
の人権問題は,新聞やテレビ,ネットの世界でも取り上げられていた。そして私
は,日本で「外国人」と呼ばれる人々の差別や痛みを知ったのだ。
差別はなぜ生まれるのか。なぜ人種や国で区別され,ひどい扱いを受けること
があるのか。どうしたら差別を無くす事が出来るのか。経験から分かった事は,
知る事だ。大切なのは,知る事なのだ。相手を知り,痛みを知る事で人種や国で
の区別も,そこから生じる差別もなくなる。知る事で,知り合う事で,他人は友
人になる。外国人は,大切な一人の友人になる。差別を生んでしまうなら,「外
国人」なんて言葉は必要ない。国という壁を越えて,壁を壊して,同じ人間とし
てつながっていけばいい。
友人としてつながれたら最高だ。
多くの人が願う事で,
多くの人が望む事で,
多くの人が声を挙げる事で,
差別の壁は崩れていくはずだ。
だから私は発信する。声を挙げて,自分の痛みを分かち合う。恐れずに発信す
れば,きっと受け取ってくれる人がいる。人種や国を越えてつながる温かさを,
平等がもたらす幸せと平和を日本中に伝えたい。そういう優しさと温かさを世界
中に伝染させたい。

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