交差点:津の守坂下、
鉄道:東京メトロ丸ノ内線・南北線 都営新宿線
主要施設:上智大学 中央大学(片町交差点のところ) রఙম଍
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ఫ૬ঽୋ౉৘নદ੦৉302418302319405牛込第三中
牛込第三中
防衛省
防衛省
新宿歴史博物館
新宿歴史博物館
消防博物館
消防博物館
四ッ谷
四ッ谷
四谷小
四谷小
花園小
花園小
東京都立 総合芸術高
東京都立 総合芸術高
東京女子医科大
東京女子医科大
防衛省陸上自衛隊
市ヶ谷駐屯地
防衛省陸上自衛隊
市ヶ谷駐屯地20雙葉中高
雙葉中高
曙橋
曙橋24653富久町
市谷台町
左門町
四谷三丁目
四谷三丁目
合羽坂下
合羽坂下
市谷本村町
市谷本村町
住吉町
住吉町
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新宿御苑
新宿御苑
成女学園
成女学園
都営新宿線
都営新宿線
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荒木町
至 新宿
至 麹町
東京メトロ
丸の内線
東京メトロ
丸の内線
法史の玉手箱
猫と博士の史跡散歩
東京の街と歴史に詳しい玉手ねこが、法史
学者のハカセと一緒に、東京の史跡を案内し
ます。第 6 回目は、近世より市街地として栄
えてきた新宿区の四谷・市谷界隈を歩きます。
1 四谷見附
ハカセ 玉手ねこ
法史の玉手箱
法務史料展示室だより
第 37 号
法務史料展示室は、現在法務省が所蔵する史
料を閲覧に供し、わが国の法や司法制度への理
解を広めていただく場です。展示室への興味を
より強くもっていただけたらという気持ちをこ
めて、展示室だよりを発信しています。
舞台や映画などで上演されている
「四谷怪
談」
の女性主人公お岩さんを祀ってある神
社ですよね。 「東海道四谷怪談」
は江戸時代に鶴屋南
北によって書かれた歌舞伎の脚本じゃ
が、
文政 8 年
(1825)
に初演され、
大変な人気を博
したのじゃ。
おどろおどろ
しい筋書と幽霊出現の大仕
掛けなど、
当時の庶民の気
持ちをひきつけたようだ
な。
ただ、
実際のお岩さん
は、
りりしい武家の娘で、
夫とともに懸命に働き、家を盛り立てた女性だったと
いわれておる。
猫と博士の史跡散歩
4 小泉八雲旧居跡
2 於岩稲荷田宮神社
ハカセ 玉手ねこ
江戸城警備のため見張り番を置いていた場
所だよ。
現在でも石垣の一部が残されている
んだ。
ここには枡形と いう四角形の城
門があって、
敵が直進でき
ない作りになっていたの
じゃ。
甲州街道の要衝とし
て番兵を置いていたが、
明治維新を迎えてもその名
残りで麹町方向へまっすぐ進むことができなかった。
大正 2 年
(1913)
にようやく架けられたのが四谷見
附橋じゃ。 赤坂見附、
市谷見附など、
東京にはこのほかに
も見附と付く地名が残されていますね。 江戸城には俗に三十六見附あったといわれ
ておる。
しかし、
実際にどのくらいあったか
については諸説あるようじゃ。 3 防衛省
ここはかつて大日本帝国の陸軍省があった場所だよ。
事前申し込みで一部だけ
一般向けに公開されているよ。
太平洋戦争後、
日本の戦争指導者に対して行われた極東国際軍事裁判
(東京裁 判)
の法廷は、
当地にあった旧陸軍士官学校の大講堂を改装してつくられたの
じゃ。
この裁判では、
被告人全員無罪の主張をしたインドのパール判事が有名じゃ。
ちな
みに、
ナチス・ドイツに対してもニュルンベルクで国際軍事裁判がおこなわれておる。
アイルランド人とギリシャ人との間に生まれた作家・小泉八雲
(ラフカディ
オ・ハーン)
の旧宅跡だよ。
ハーンは、
松江・熊本・神戸を経て上京、
帝国大学
(東京大学)
の英文学講師と
なっておる。
松江で小泉節と結婚し、
日本に帰化した。
四谷怪談とは関係は無い
が、
彼の代表作
『怪談』
をはじめとする多くの作品は、
当時海外にほとんど知られていな
かった
「日本」
を世界に紹介したもので、
文芸的価値とともにその存在意義は大きいのじゃ。
5 東京監獄・市ヶ谷刑務所跡
昭和 12 年
(1937)
まで刑務所があった場所だよ。
死刑の執行もおこなわれていて、
慰霊碑が建てられているよ。 もともと八重洲の鍛冶橋にあった監獄を、
東京駅建設のため明治 36 年
(1903)
に移転したものが東京
監獄じゃ。
後に市谷刑務所と改称されておる。 史料展示室には明治 5 年
(1872)
の監獄則並図式がありますね。
建物はあんな感じだったのでしょうか。 費用の関係から全面的な実施は難しかったのじゃ。
ちなみに、
徳川幕府より続く伝馬町牢屋敷も、
明治 8 年
(1875)
に市谷台町に移転されておる。
暦のなかの法
かつてのわが国では
「一六日」、つまり一日、
六日、
十一日、
十六
日、
二十一日、
二十六日のように毎月一と六のつく日が休日とさ
れていました。
それが、
現在のように曜日を基準とした生活スタ
イルへと変化したきっかけは、
明治初期に行われた太陽暦の導入(この点については、
本誌第 33 号をご参照ください)
に加え、
以下に掲げる明治 9 年
(1876)
3 月 12 日の法令にあります。
従前一六日休暇ノ処来ル四月ヨリ日曜日ヲ以テ休暇ト被定候條
此旨相達候事
但土曜日ハ正午十二時ヨリ休暇タルヘキ事
この法令によって同年 4 月から、
官公庁は日曜日を休暇日に、
土曜日を午前中のみの半日勤務とすることになりました。
現在の私たちが日曜日に
「休日」
というイメージを持っている
ことはもちろん、
今は昔となってしまいましたが、
かつて土曜日が「半ドン」
と呼ばれ、
お昼には学校や職場から帰宅できていたこ
との由来もまた、
ここにあるわけです。
明治 9 年
(1876)
3 月 12 日
日曜日を休日に!
い ち ろ く び
Q&A
法務図書館に所蔵される
「司法省指令録」
を通して、
明治初期における裁判の仕組みや運用
について説明します。 法諺あれこれ
Q&A 「司法省指令録」
から読みとく
「伺・指令裁判体制」
「司法省指令録」
から読みとく
「伺・指令裁判体制」
法務図書館に所蔵される
「司法省指令録」
は、
明治 9 年
(1876)
と同 10 年
(1877)
にまとめられたもので、
その内容は
「刑事
部」と「民事部」
に分けられています。
刑事部では当時の現行法であっ
た律系刑法典の新律綱領・改定律例などについての伺・指令、
民事部
では婚姻や養子、
質入などに関するそれが掲載されています。
もっと
も、
問題となっている事件を民事と刑事のいずれで取り扱うかとい
うことを尋ねる伺もあり、
法の分類が次第に形成されていく様子を
読み取ることもできます。 「司法省指令録」
はどのような役割を果たしたの?
明治 4 年
(1871)
に司法省内に置かれた
「当代随一の法
律専門家 集団にしてわが国初のシンクタンクともいう
べき」
明法寮は、
各県や裁判所から寄せられた法の解釈適用に
関する疑問に対して回答を行っていました。
このような質問を
「伺」、それに応じた回答を
「指令」
とよび、
これらを通して中央
政府による統一的な法の運用が図られたといわれます。 「指令」
って?
実際にどのようなことが書かれているの?
大審院が設置された明治 8 年
(1875)
に、
それまで実質的
に指令を発していた明法寮は廃止されるものの、
司法省と
大審院を含む各裁判所の間では、
伺と指令が継続されたといわれま
す。
「司法省指令録」
に明治 10 年
(1877)
の日付けをもつ伺・指令が
多く掲載されていることも、
そのことを示しているといえましょ
う。
伺と指令を用いた司法の運用は、
江戸期にも行われていたことが
明らかになっており、
西洋をお手本とした裁判制度の構築が目指さ
れていた明治初期に、
その一方でこのような裁判運用の仕組みが存
在したことは、
わが国の法の歴史を考えるうえで興味深い事例であ
るといえるでしょう。
伺と指令はいつまで続いたの?
当初、
司法省に属する裁判所のみが指令に依拠した法の
運用をすることが許され、
地方官の管掌下にある府県の
裁判機関は指令を参考にしてはならないとされていました。
しか
しながら、
明治 7 年
(1874)
になると一定の事件については、
指令
に準拠して裁判を行うことが裁判所・各県を問わずに認められ、一種の先例のような性格が指令に認められたのです。
このような流
れのなかで、
指令を一覧するためにまとめられたのが
「司法省
指令録」
であり、
法を運用するためのひとつの手引書のような役
割を果たしていたと考えられます。
法諺あれこれ 泣く子と地頭には勝てぬ
泣く子と地頭には勝てぬ
法諺あれこれ
これはいうまでもなく、
頑是ない子が泣いて駄々
をこねれば親もお手上げとなるように、
権力者が相
手では庶人にはどうしようもない、
との諦めの言葉
です。
日本の歴史に
「地頭」
という語が現れるのは平
安末から鎌倉時代のことで、
頼朝が全国に配置した
武士の役職であり、
警察や徴税のことなどを行いま
した。
もとからの領主と税を巡って対立することも
しばしばで、
貪欲な印象を持たれがちですが、
ここ
で泣く子と比肩されるのは鎌倉の地頭ではなく、江戸時代の大名や旗本など、
領主として知行地を持つ
武士の俗称でした。
こうした
「地頭」
については、
「地
頭に法なし」
という諺も残っていますが、
幕府から
領内の民政全般を任せられた領主が、
結果的に民百
姓の生殺与奪の権を握っていたことを示していま
す。
必ずしも横暴な領主ばかりとは限りませんが、
庶民からは、
地頭とはあやしても泣き止まぬ子同
様、
手に余る存在と見られていたのでしょう。
これ
が現代の私たちが抱く
「お上」
のイメージに繋がっ
ている、
と考えることもできそうです。
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学法学部教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 高田久実

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