明治 36 年
(1903)
にイギリス留学から帰った
夏目漱石が住んだところだよ。
漱石はここで
処女作
『吾輩は猫である』
を執筆したんだ。
ぼくと同じよ
うな、
人間の気持ちを理解できる猫が主人公だよ。
ここにあった家は、
通称
「猫の家」
と言って、今 は愛知県の明治村に移設・保存されているん
じゃ。
漱石は、
東京帝大や一高の教
壇に立ちながら、
雑誌
『ホトトギス』に『吾輩は猫である』
を発表し、人気作家となったのじゃ。
その後もこ
こで、
『坊っちゃん』や『草枕』
を執筆
したんじゃよ。
法史の玉手箱
猫と博士の史跡散歩
東京の街と歴史に詳しい玉手ねこが、法史学者のハカセと一緒に、東京
の史跡を案内します。第3回目は、本駒込から千駄木までを歩きます。
短い距離ですが、"近代の東京" を
感じ取ることのできる史跡が、多く
存在しています。
ハカセ 玉手ねこ
法史の玉手箱
法務史料展示室だより
第 34 号
法務史料展示室は、現在法務省が所蔵する史
料を閲覧に供し、わが国の法や司法制度への理
解を広めていただく場です。展示室への興味を
より強くもっていただけたらという気持ちをこ
めて、展示室だよりを発信しています。
ここは、
明治 44 年
(1911)
に、
青鞜社が始まっ
たところだよ。
女性による雑誌
『青鞜』
を刊行
し、
文学を通じて女性の地位向上を目指したんだ。
この
場所は、
発起人の 1 人で物集和子
(もずめかずこ)の自宅だったんだ。
明治後半から大正時代にかけては、
女性のため
の学校が多く設立されるなど、
女性教育の環境
整備が進んだ時期じゃ。
青鞜社を作った5人の発起人も、
中心人物の平塚らいてうをはじめとして、
日本女子大学
校や跡見高等女学校を卒業した女性たちじゃった。
その
一方で、
憲法や民法を通して、
女性
の権利は制限され、
立場は非常に弱
いものに設定されていたから、
婦人
問題に取り組む青鞜社は、
「新しい
女」
の集団と言われたんじゃよ。
猫と博士の史跡散歩
ハカセ 玉手ねこ
ここは、森鷗外の旧居跡だよ。今は文京区立森鷗外記念館が建っ
ている。
鷗外はもともと
「猫の家」
に住んでいたんじゃ。
明治 25 年
(1892)に ここに移ってきた。
2階から東京湾が見えたから、
"観潮楼"と名付け
たんじゃよ。
鷗外はここで観潮楼歌会という歌会を開催していたんでしょ。
そうじゃ。
当時対立関係にあった、
正岡
子規の系譜を引く根岸短歌会と、
与謝野
鉄幹を中心にした新詩社のメンバーを、
同じ場所
に集めて競作させることで、
両グループの関係を
取り持とうとしたそうじゃ。
ここは、
江戸の末期から明治にかけて、
菊人形でにぎわったんだよね。 そうじゃ。
その様子は、
漱石の
『三四郎』
などにも出てくるのう。
団子坂は、
江戸川乱歩の
『D坂の殺人事件』
の舞台としても有名だよ。 よく知っておるな。
乱歩作品の代表的な人物である名探偵明智小五郎
が、
初めて登場する作品じゃ。
D坂にある古本屋で殺人事件が起きるん
じゃが、
実際に乱歩は団子坂で
「三人書房」
という古書店をやっていたんじゃよ。
白山上
白山上
駒本
小学校前
駒本
小学校前
吉祥寺前
吉祥寺前
向丘二丁目
向丘二丁目
白山下
白山下
向丘一丁目
向丘一丁目
日本医大前
日本医大前
根津神社
北口
根津神社
北口
千駄木
二丁目
千駄木
二丁目
根津神社
入口
根津神社
入口
汐見小前
汐見小前
団子坂下
団子坂下
団子坂上
団子坂上
文京白山
上郵便局
文京白山
上郵便局
文京千駄木
三郵便局
文京千駄木
三郵便局
台東谷中
郵便局
台東谷中
郵便局
さんかく1 7白山
白山
千駄木卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍卍〒〒〒452458455龍光寺
龍光寺
千駄木
三丁目
千駄木
三丁目452437301宗教法人
徳源院
宗教法人
徳源院
養源寺・
禅臨済宗
養源寺・
禅臨済宗
海蔵寺
海蔵寺
眞淨寺
眞淨寺
長元寺
長元寺
十方寺
十方寺
一音寺
一音寺
蓮久寺
蓮久寺
潮泉寺
潮泉寺
蓮光寺
蓮光寺
千駄木
本駒込
本駒込
根津神社
根津神社
西善寺
西善寺
吉祥寺
吉祥寺旧白山通り旧白山通り都営三田線都営三田線
1夏目漱石旧居跡
このお寺には、
西村茂樹の墓があるよ。
明治
時代の啓蒙思想家だよね。
西村は、
森有礼や福澤諭吉とともに、
当時とし
ては最先端の西洋知識をもつ人々の結社
「明六
社」
を発足させた人物じゃよ。
彼が明治 19 年
(1886)に著した
『日本道徳論』
は、
当時の極端な西洋化に反対し、
西洋の哲学と儒教、
仏教の良いところを取り合わせて、
日本の道徳の基礎とすることを目指したものじゃ。
2養源寺
3青鞜社発祥の地
4観潮楼跡
5団子坂21345 暦のなかの法
寛永 20 年
(1643)、江戸幕府は田畑永代売買禁止令
を出し、
田畑の売り買いを禁止しました。
百姓からの年
貢は、
幕府の財政収入のなかで重要な財源の一つでした。
そこで、
百姓が貨幣経済に巻き込まれて零細化すること
を防ぎ、
年貢を確実に徴収することを目的として同法令
を定めたのです。
その効力を確実なものとするために、
違反した売主と買主への罰則も示されました。
もっと
も、
人々は質などの形をとって取り引きを行っており、
実質的には広い範囲で田畑の流通がなされていたといわ
れています。
しかし、
そのような実態にもかかわらず、田畑永代売買禁止令が正式に廃止されたのは明治 5 年
(1872)
でした。
人々の土地所有を把握するために、
明治
政府が同法令を解いたのです。
このように、
田畑に関する
江戸幕府の基本的な姿勢を掲げながら、
田畑永代売買禁
止令はおよそ 230 年もの間、
効力を有しました。
寛永 20 年 3 月
田畑永代売買禁止令が出される
Q&A
今回は、法務史料展示室中央のガラスケースに展示されている「司法職務定制」の内容
やその位置づけについて、ご紹介します。 法諺あれこれ
Q&A 「司法職務定制」
の果たした役割
「司法職務定制」
の果たした役割
いいえ、
その作業は順調であったとはいえません。
各府県にしてみれば、
自分たちの重要な権限が奪
われるわけですから、
彼らは司法省への裁判権の引き渡
しにさまざまな形で抵抗しています。
佐木隆三氏の小説
『司法卿 江藤新平』
(文春文庫、
1998 年)
に描かれる
「小
野組転籍事件」
なども、
そうした権限争いの一齣として
有名です。
また、
裁判所の新設には多額の費用が必要で
すが、
当時の国家財政は苦しく、
予算の面からも政策の
実現が阻まれてしまいます。
各府県から司法省へ、
裁判権は順調に引き渡さ
れたの? 「司法職務定制」
は、
明治 5 年
(1872)
8 月に定め
られた法令で、
初代司法卿
(現在の法務大臣)の任にあった江藤新平が、
その制定を主導したとされます。
この法令は、
前年 7 月に設置された司法省のもと、
西洋
諸国にもひけをとらない司法制度の構築を目指したも
ので、
わが国の
「司法」
の構造について包括的に定めた
初めての法令でした。 「司法職務定制」
とは?
具体的にはどんなことが定められているの?
例えば、
全国に
「府県裁判所」
を設置し、
従来は地
方官
(各府県の官吏)
が担っていた裁判を、
司法
省から派遣される官吏の手で行うことによって、
司法
省のもとに裁判権を集中させようと試みた点は画期的
でした。
また、
法令には裁判官を意味する
「判事」
や、
「法
憲及人民ノ権利ヲ保護」
するとともに裁判の適正な遂
行を監視する
「検事」、さらには訴訟に際して代理人
の役割を担う
「代言人」
(現在の弁護士)
といった、当時としては斬新な言葉が並んでいます。
そのいずれも
が、
現在の司法制度に欠かせない存在として定着して
いることはご存知の通りです。 「司法職務定制」
によって"司法権"が独立したの? 「司法職務定制」
は、
司法省による"司法権"の掌握を
目指すものでした。
司法省は当時太政官と呼ばれて
いた行政府の一部ですから、
同法令が予定していたのは
「行政のもとでの司法」
であり、
この段階で"司法権"が独立
したわけではありません。
明治 8 年
(1875)
4 月の大審院
(現在の最高裁判所)
設置によって、
裁判所は国家機関と
して一応の独立を果たしますが、
その際にも行政府の影
響力は残されており、
名実ともに"司法権"が独立するに
は、
さらに長い年月が必要でした。
公事三年
法諺あれこれ
し ほ う き ょ う
え と う し ん ぺ い
だ い げ ん に ん
こま
だ じ ょ う か ん
た い し ん い ん
公事三年
法諺あれこれ
これは、
「訴訟は長い時間がかかるものだから、
軽々しく訴えを起こしてはいけない」
との江戸時代
の警句です。
複数管轄事件は評定所、
関八州の事件は
関東郡代など、
江戸の役所で審理が行われる場合、当事者は江戸に出て公事宿という専門の宿に逗留し、
役所からの呼び出しを待ち続けなければなりません
でした。
公事宿では出頭の際の付き添いなどさまざ
まな手助けをしてくれますが、
費用は大変な額に上
りますので、
「馬喰町人の喧嘩で蔵を建て」
と揶揄さ
れることになります。
馬喰町は郡代役場の門前で、公事宿が集まっていたところのひとつです。 「片口を聞いて利なつけそ」
(一方の言い分だけ聞
いて判断してはいけない)
と諭すまでもなく、
訴訟で
は両当事者の主張を十分に聞かなければなりません
から、
自ずと時間がかかります。
とはいえ迅速な解決
が望ましいのは当然のこと。
裁判迅速化法
(平成 15
年法律第 107 号)
の成果で、
平成 24 年の民事第一審
訴訟事件の平均審理期間は 7.8 月となっています。
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学法学部教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 高田久実

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