社団法人日本新聞協会会長賞

ハンセン病について考えたこと
埼玉県・学校法人立教学院立教新座中学校 1年
久米 一輝(くめ かずき)
森に囲まれたその一画には,教会や寺院,神社があり,小さなショッピングセンター
やレストランもある。床屋や図書館,郵便局や浴場もある。しかし,それらの施設を利用
するのはその一画に住む人たちだけだ。緑の外側に住む人が利用することはない。そ
こはハンセン病の療養所,多磨全生園である。
僕は7年前に清瀬市に引っ越してきた。夏のある日,昆虫が大好きな僕は,何気なく
その森の中に入って行った。そして,歩き回っているうちに,その場所が一つの「町」で
あることに気付いた。
毎日,セミやカマキリやナナフシを探しながら,どうしてこんな所があるのだろうと思っ
た。
僕が一番不思議に思ったのは古い木造の小学校だ。いつも誰もいない校舎と小さな
運動場。近くに小学校があるのにどうしてこんな所に小学校があるのだろう。小学1年
生の僕はとても不思議に思った。
夏に地域交流を目的とした盆踊りと花火大会が行われる。いつもは人のいない小学
校跡は多くの人であふれかえり,普段は見かけない重い後遺症の老人たちもこの日は
外に出て盆踊りを楽しむ。初めて参加したときは言葉が出なかった。正直,「怖い」と思
った。
夏が来るたびに,僕は盆踊り大会に参加した。低学年から高学年へと進むにつれて
少しずつハンセン病のことが分かってきた。
6年生のときに社会科見学で全生園の元患者を訪れることになった。だが,僕は都
合で参加できなかった。僕はそれをずっと悔やんでいる。
今年の夏,僕はハンセン病資料館に出かけた。見学者は僕一人で,とても緊張した。
なるべく音を立てないようにパネルを見て回った。
強制隔離の現実にとても驚いた。狭い部屋に押し込められ,症状の軽い患者が重症
の患者の世話をしたという。子供を持つ権利や生まれる赤ん坊の命まで奪われていた。
逃げ出したり反抗的な患者は「不良患者」と呼ばれ,窓の小さな暗い監房に閉じ込め
られた。
医学が進歩し療養所も徐々に改善されていったが,強制隔離を命じる「らい予防法」
が廃止されたのは1996年だという。隔離が始まった1908年から約90年も経っていた。
僕が生まれるほんの1年前のことである。特効薬が開発され,本格的な治療が始まっ
たのは昭和22年である。現実に合わない法律を廃止するのにどうしてそんなに時間
がかかったのだろうか。
資料をもらってハンセン病資料館を後にした。家を出るときは,帰りに虫の観察をす
るつもりだったが,とてもそんな気にはなれなかった。いつもセミが集まる桜の木には目
もくれずに早足で家に帰った。
資料の中で一番心が痛んだのは,療養所の子供たちのことだ。療養所に入所したの
はハンセン病を発症した子どもたちだけではない。親が発症したために入所する子ど
もたちもいた。当時はハンセン病は遺伝病だとされていたからだ。親から無理やり引き
離された子どもたちは「すぐに帰れるから」という言葉を信じていたという。しかし一生療
養所を出ることができなかった人が多かったという。社会的な差別がひどかったからだ
と資料に書かれていたが,僕には実感がわかなかったので,もう少し調べてみることに
した。
図書館で『ハンセン病を生きて』(伊波敏男著)という本を見つけた。少し難しかった
が,差別の現実が僕にもわかる部分があった。それは,元患者たちに対して書かれた
匿名のひどい手紙である。長年,隔離されて苦しんできた人たちをさらに傷つける言
葉が並んでいた。悲しく暗い気持ちになった。
日本は経済大国として世界の注目を浴びている。だが,人権意識の面ではどうだろ
う。「らい予防法」を20世紀の末まで廃止できなかったことをどう考えたらよいのだろう
か。明治時代に隔離が始まったとき,それは外国に対する体面を保つためだったとい
う。病気の人を治療するのではなく「隠す」のが目的だったのだ。いまだに差別意識を
持つ人がいるのは,社会がそうした過去に対する反省をしていないからだと思う。
僕が不思議に思った小学校はすでに取り壊されて,今では小さな石碑だけが残って
いる。老朽化がひどく,残しておくことができなくなったからだという。全生園の古い建
物はどんどん取り壊されていく。石碑だけではあの不思議さが伝わらないのがとても残
念だ。

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