日本放送協会会長賞

悔いのない最期を
山形県・酒田市立松山中学校 3年
櫻田 要太(さくらだ かなた)
僕の曾祖父は医者嫌いでした。そのため腹痛で病院に運ばれた時は,膵臓癌の末
期で余命3ヶ月でした。手術もできない手遅れの状態でした。家族皆で話し合い曾祖
父の辛い気持ちを第一に考え,曾祖父に病を隠すことになりました。曾祖父は次第に
病院の中を歩いては転倒し,体中あざだらけになり,ベッドの上で縛られることになっ
ていました。曾祖父は病名の宣告を受けていないため元気で歩けると思っているが,
実際歩くと転んでしまう。何でこんな風になってしまったのかさえわからない。
家族と病院に行くと,「包丁もてこい,これぶった切って家さ帰る。」と騒いでいました。
あんなに優しかった曾祖父の姿に言葉も出ず,恐いくらいでした。何も知らされず,ベ
ッドに縛り付けられれば誰もがそうなることでしょう。「じいちゃんどご,一緒に車さのせ
でいてくれの。」とせがまれたときもあります。かわいそうで涙がポロポロこぼれました。
「おじいちゃんどご,家さ連れで帰ろうよ。」とせがんでも家族も仕事で忙しいためか誰
も首を縦に振ってくれず,病院にいた方が安心ということになりました。膵臓癌は予想
以上に激しい痛みのため,医師から強い痛み止めと強い睡眠剤を勧められましたが,
それを導入することにより,安楽死に近い状況になることも医師から告げられていまし
た。家族は決断をせまられました。曾祖父に相談もせずに決めていいことなのか,家に
帰りたい曾祖父の意志は封じ込められたままでいいのか,家族で悩みました。結局痛
みに耐えている姿は見ていられなく,その薬を使うことになりました。その後,曾祖父は
次第に弱っていき,口も利けなくなり,静かに亡くなっていきました。僕はどこか心を引
きずったままでした。僕達家族が曾祖父に宣告もせず,意見も聞かず,命の長さを決
めてしまったこと,当時幼かった僕には何もしてあげられなかったことが今思い出しても
残念です。
最近授業で人権について学習しているときに,幼い頃の記憶がよみがえり,ふと曾
祖父のことを思い出しました。
曾祖父は,どんな思いで亡くなったのだろう。最後に意識のあるうちに一度でいいか
ら家に帰ってきたかっただろう。身体拘束は今は病院でも禁止されていると思いますが,
あの頃は確かに曾祖父のおなかに黒いベルトのようなものが巻きついていました。決し
て自分の力では外せないようなものでした。もがき苦しむ曾祖父の姿を見た時に,看
護師さんに目を隠され別の部屋に連れて行かれました。見せたくない光景だったのだ
と思います。でもあの姿は僕の脳裏に焼き付いています。病院の中での人材不足のた
めだったのでしょうか。人が人らしく生きていない姿でした。
78年生きてきて何も悪いことをしていないのに,縛られ,家にも帰れない。病気で余
命幾ばくもない人には人権というものは存在しないのでしょうか。最近の医療の現場で
は自己決定権があることについて学びました。
仏壇に向かい静かに目を閉じると,優しく穏やかに微笑む曾祖父の笑顔が浮かびま
す。どんな気持ちで亡くなっていったのか,その気持ちを考えると苦しい気持ちになり
ます。野球の大会に行く前,仏壇に手を合わせます。「やればできる,努力しろ。」とよ
く励ましてくれました。曾祖父の力には何もなれなかったけれど,目には見えない力で
応援してくれる曾祖父に線香をあげて,自分を省みる時があります。曾祖母が元気な
ので,曾祖父を助けられなかった分,曾祖母の力になっていくことを曾祖父に約束し
ています。
夏休み中のニュースで高齢者の所在不明者が多数のため,百歳以上の安否確認調
査をしていました。自分の親を平気で捨て遺骨さえもひきとらない,亡くなっていたの
に年金を不正受給するために隠していたなど,耳をふさぎたくなるような事件もありまし
た。犬や猫が年をとって弱ってきた,手がかかるから面倒だからと捨ててしまう,それと
同じ現象が弱い高齢者にも及んできているのだと思います。
やはりこの世に生まれてきたもの全てに,自分の意志で生きることを決めていける権
利があると思います。長い年月を苦労や努力と向き合いながら精一杯生きてくれたお
かげで,今の幸せがあることを忘れずにいたい。人はいずれ誰でも年をとります。自由
に動けなくなった時に自分の願いが叶う社会を築き,「悔いなく,満足で楽しく幸せな
人生だった。」と思えるように,人としての誇りを持って,満足できる最期を迎えられるよ
うに考えていきたい。もう二度と僕が見た自己決定権のない社会にならないように,高
齢者には今までの感謝の気持ちで,本人の希望をできるだけ叶えられるように努力し
ていきたい。いずれ僕達も迎える高齢社会だから・・・。

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