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ミンダナオ紛争の経緯
1.歴史的背景
ミンダナオ紛争は、1960年代後半に始まった分離独立紛争と、その後の高度な自治権獲得をめざす闘争の総体を指します。米国統治期に推進されたキリスト教徒の移住政策により、伝統的にイスラム教徒や先住民族が利用・管理してきた土地が、土地登記制度の導入で「未登記地」と扱われ、入植者に所有権が認められました。この結果、イスラム教徒は経済的・社会的・政治的に周辺化されました。
■しかくイスラム教伝来以前
オーストロネシア系住民が農業・漁業を営み、「ダトゥ(Datu)」と呼ばれる首長制社会が成立。ダトゥは血縁、富、軍事力、霊的権威などを背景に、村落や地域共同体を統治する存在で、のちのスールー王国・マギンダナオ王国の基盤となりました。
■しかくイスラム教の伝来(
13
世紀頃)
アラブ商人やマレー系イスラム教徒によりイスラム教が伝わり、スールー王国(Sultanate of Sulu)とマギンダナオ王国(Sultanate of Maguindanao)が成立。両国はイスラム教を統合原理として広域を支配し、交易を通じて繁栄しました。
■しかく植民地支配と抵抗
16世紀以降のスペイン支配に対し、両王国は長期抵抗。米西戦争後、パリ講和条約(1898年)によって、米国はミンダナオ地方を含むフィリピン全域を併合し、米国植民地政府は、キリスト教徒の農民の土地要求に応えるために、人口が希薄で広大な未開拓地のあるミンダナオ島への入植政策を推進しました。
■しかく入植政策と社会的分断
1946年にフィリピンが米国から独立後も政府は米統治期の政策を継承し、ミンダナオを国家開発のフロンティアと位置づけ、ルソン島やビサヤ諸島からキリスト教徒系住民を大量移住させました。土地登記制度により、伝統的利用地が「未登記地」とされ、入植者の所有権が法的に保護されました。また、教育・行政・軍事など国家制度もキリスト教徒中心で構築され、構造的差別と土地喪失がイスラム教徒の不満と自治要求を高め、自治要求・武装化の土壌となりました。
■しかくモロ・民族解放戦線(MNLF)の結成と武装闘争
こうしたイスラム教徒の政府への不満を背景に、国民統合政策の一環として比政府から留学機会を得た新たな知識層や伝統的有力者(氏族)は、国家に対抗する勢力として、「ウンマ」という中心的な共同体の概念のもと、ナショナリズムを醸成し、イスラム諸国から経済的・軍事的・外交的資源を得て分離独立運動を主導しました。
1968年のジャビダ虐殺(フィリピン国軍上官によるムスリム兵士の虐殺)を契機に、イスラム教徒の間で政府への不信と反発が急速に高まりました。この事件は、国家統合政策の矛盾を象徴する出来事として、武装闘争の引き金となりました。
1971年、スールー出身の大学講師ヌル・ミスアリは、イスラム諸国からの支援を背景に「モロ・民族解放戦線(
MNLF
:
Moro National Liberation Front
)」を結成。「バンサ・モロ国家」の独立を掲げ、武装闘争を開始しました。モロ・民族解放戦線は、イスラム協力機構(OIC:Organization of Islamic Cooperation)を通じて国際的な承認を得ることに成功し、外交面でも一定の影響力を確立しました。
しかし、1976年のトリポリ協定で自治の方向性が示されると、モロ・民族解放戦線内部で戦略をめぐる対立が顕在化します。和平路線に不満を持つ急進派は、1984年にハシム・サラマットの下で「モロ・イスラム解放戦線(
MILF
:
Moro Islamic Liberation Front
)」として分派。モロ・イスラム解放戦線は、よりイスラム法に基づく国家建設を志向し、独自の武装闘争を展開しました。
さらに、1990年代以降には、アブ・サヤフ・グループ(ASG:Abu Sayyaf Group)などの過激派組織が台頭し、誘拐やテロを繰り返すなど、紛争構造は複雑化しました。これらの勢力は、国際的なジハード運動とも接点を持ち、後にイスラム国(IS:Islamic State)系の過激派がマラウィ占拠事件を引き起こす背景ともなりました。
2.政権ごとの和平・紛争の推移
■しかくマルコス政権(
1965–1986
)
1969年、モロ・民族解放戦線が武装闘争を開始。政府は軍事力で制圧を試みるも、1976年にOIC仲介でトリポリ協定を締結し、自治の方向性を提示。しかし、協定の履行をめぐり対立が続き、停戦は長続きしませんでした。1984年には、モロ・民族解放戦線の和平路線に不満を持つ急進派がハシム・サラマットの指導のもとモロ・イスラム解放戦線として分派しました。モロ・イスラム解放戦線はイスラム国家の樹立を目指し、独自の武装闘争を展開しました。
■しかくアキノ政権(
1986–1992
)
1987年憲法でムスリム自治地域の設立を明記し、1990年に「ムスリム・ミンダナオ自治地域(
ARMM
:
Autonomous Region in Muslim Mindanao
)」を設立。しかし、モロ・民族解放戦線は政府との合意なしの設立に反発し、和平は進展しませんでした。
■しかくラモス政権(
1992–1998
)
包括的和平を掲げ、1996年にモロ・民族解放戦線と最終和平合意(
FPA
:
Final Peace Agreement
)を締結。モロ・民族解放戦線は武装闘争を停止し、ミスアリ議長がARMM知事に就任しました。しかし、モロ・イスラム解放戦線はこの合意に加わらず、紛争は継続。政府はモロ・イスラム解放戦線との交渉も開始しましたが、実質的な成果には至りませんでした。
■しかくエストラーダ政権(
1998–2001
)
当初は和平を掲げたものの、2000年にモロ・イスラム解放戦線が町役場を占拠した事件を契機に、政府は「全面戦争(
All-out War
)」を宣言。モロ・イスラム解放戦線最大拠点キャンプ・アブバカールを攻略しましたが、和平プロセスは大きく後退しました。
■しかくアロヨ政権(
2001–2010
)
2001年にモロ・イスラム解放戦線との交渉を再開し、2008年には「先祖伝来の領域に関する合意覚書(MOA-AD:Memorandum of Agreement – Ancestral Domain)」を提示。しかし、最高裁が違憲と判断し、署名前に頓挫。これにより紛争が再燃しました。
■しかくアキノIII政権(
2010–2016
)
2011年、日本の仲介で成田会談を実施し、信頼醸成が進展。2012年に「バンサモロ枠組み合意(
FAB
:
Framework Agreement on the Bangsamoro
)」、2014年に「バンサモロ包括和平合意(
CAB
:
Comprehensive Agreement on the Bangsamoro
)」を締結し、ARMMに代わる新たな自治体制の構築が本格化しました。
■しかくドゥテルテ政権(
2016–2022
)
2018年、CABに基づく「バンサモロ基本法(
BOL
:
Bangsamoro Organic Law
)」が成立。2019年には住民投票で「バンサモロ・ムスリム・ミンダナオ自治地域(
BARMM
:
Bangsamoro Autonomous Region in Muslim Mindanao
)」の領域が確定し、モロ・イスラム解放戦線主導の「バンサモロ暫定自治政府(
BTA
:
Bangsamoro Transition Authority
)」が発足しました。一方で、2017年にはIS系過激派によるマラウィ占拠事件が発生し、和平の進展と治安リスクが併存する状況となりました。
■しかくマルコス
Jr.
政権(
2022
年〜)
和平合意の履行を継続する一方、モロ・イスラム解放戦線兵士の除隊や社会経済支援、移行期正義、私兵団の解体など「正常化トラック」の遅延が課題。自治政府樹立のための初のバンサモロ議会選挙は当初2022年に予定されていましたが、新型コロナウイルスのパンデミックやスールー州のBARMM離脱(2024年9月)の影響等により、これまでに2度延期され、現在は2025年10月13日に実施される予定です。
※(注記)本ページについては独立行政法人国際協力機構「ミンダナオ支援の包括的レビュー
」(2021年)を主に参照しております。
その他の参照資料についてはこちら。
[1]フィリピン共和国法第6734号「An Act Providing for an Organic Act for the Autonomous Region in Muslim Mindanao」(1989年)
[2]フィリピン共和国法第9054号「An Act to Strengthen and Expand the Organic Act for the Autonomous Region in Muslim Mindanao」(2001年)
[3]フィリピン共和国法第11054号「An Act Providing for the Organic Law for the Bangsamoro Autonomous Region in Muslim Mindanao」(2018年)
[4]バンサモロ自治法第35号「An Act Providing for the Bangsamoro Electoral Code of the Bangsamoro Autonomous Region in Muslim Mindanao」(2023年)
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