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文学部哲学専攻では、古代から現代まで、哲学の幅広い分野について学ぶことができます。私はその中でも、言語と論理の哲学に関係する問題を中心に研究しています。「言語と論理」というと難しく感じられるかもしれませんが、私たちがふだん使っている言葉やそれが伝える意味や情報といったものが主題で、その最初の方にある問いを理解するのはそれほど難しくありません。例えば、私たちはいまここで初めて目にした文章でもほぼ一瞬で理解し、そこから新しい情報を引き出すことができます。人からはっきりとルールを教わったわけでもないのに、こうやって言葉を理解したり、思考を整理したり、人に何かを伝えたりできるということは、考えてみると不思議なことです。問題の一つはこういうふうに言い換えることもできます。単語には辞書というものがありますが、単語が集まってできる文や、ここに書かれているようなもっと長い文章には「辞書」というものはありません。それはなぜでしょうか。私たちは、旅行会話集のようにひとつひとつの文を丸暗記して使っているのではなくて、単語の知識と何らかの「ルール」に従ってその場で、いわば即興的に文を作って話をしているように見えます。その「ルール」とはいったい何でしょうか。こうやって考えていくと、たんなる音や文字が連なったものが何かを意味することができるのは実に不思議なことに見えてきて、そもそも意味とは何か、それはどこにあるのか、何かを意味することがどうして可能なのか、こうしたすぐには答えが出ないような問題に頭を悩ませることになります。
ここで挙げたような問いは、言語の哲学の問いであると同時に、論理学や言語学をはじめとして、現在では言葉の意味や情報にかかわる幅広い領域で分野横断的に研究されています。実は、哲学者の仕事がこうした新しい研究の分野を確立するのに大きな役割を果たしたといっても間違いではありません。現在研究されている論理学は、現代哲学の一つの流れを作ったフレーゲやラッセルの研究に始まるもので、それはやがてゲーデルやチューリングといった人たちの仕事を経て、現在の情報科学の成立に結びつきました。また、言葉の意味やコミュニケーションにかかわる言語学の分野は意味論や語用論と呼ばれますが、そこで何をどのように論じるべきなのか、その主題と方法を確立するのに哲学と論理学の考え方は大きな役割を果たしてきました。私の現在の研究は、論理学や言語学にまたがり、さらに情報科学、特に人工知能や自然言語処理の分野の人たちと協働して新しい問題に取り組んでいます。哲学の問いは、既存の分野とつながっていると同時に、そこにはおさまらない境界領域にある問いであるといえるでしょう。
私自身、この文学部哲学専攻で学びました。最初からはっきりした見通しをもって、哲学専攻を選んだわけではありません。最初はぼんやりと、何かできるだけ根本的で普遍的なことを知りたいと考えていました。いまから考えるとまったく無謀ですが、すでに方法が確立して進歩の基準がはっきりした分野よりも、どうしたら「進歩」と言えるものが得られるのか、まだそれがはっきりしない分野の方が魅力的に見えたのです。これは雲をつかむような話になる恐れがあり、より具体的な問題や応用から入って、それから哲学的な問題にたどり着く、という方向もあることを付け加えておきます。そのころ、日吉で一年生向けに開講されている「人文科学特論」という授業(単に「特論」と呼ばれることが多い)を哲学専攻の斎藤慶典先生が担当していました。一年生のときにゼミを体験するような雰囲気です。そこでは問題を解決するだけでなく、できるだけ根本的なところから、誰も気づかないような新しい問いを立てて考えることの面白さを学びました。こうしてなんの迷いもなく哲学を選択し、それから言語と論理の問題に魅了され、いつのまにか新しい知的な世界が開けてきました。文学部では、哲学や論理学だけでなく、言語文化研究所で開講されているさまざまな言語学科目を学ぶことができます。私自身、この学際的な環境で何人かの先生と出会い、単に本や論文に書かれていることから知識を習得するのとは異なる、生きた経験として哲学(それから論理学と言語学)を学びました。これは語学や音楽を単に「習う」のではなく、実際に話したり演奏して楽しんだりする実践に近いものと言えます。こうした「哲学の経験」を共有することが、これからの文学部の学生にとっても重要なものになると考えています。