二宮金次郎像
県の美術館で、学校などにある彫刻や塑像についての調査を行うとのことで、勤務校にあるものを調べることになった。
創立90周年の際に作られた男女児童のブロンズ像については当時の資料もあったので比較的簡単に分かったが、もう一つの像については、製造された時期も由来もよく分からなかった。
岩谷小学校の二宮金次郎像
それが左の写真の「二宮金次郎像」である。
この文章を書いている時点の私の勤務校「岩谷小学校」の二宮金次郎像は、身長が約110cm、大理石でできたやや小柄な像である。私の母校(前郷小学校)にも金次郎像があるが、それがブロンズ製で比較的しっかりした体型をしているのに比較すると、岩谷小学校の金次郎像はいかにも華奢な体型で、表情も淋しげである。
この写真では分かりにくいが、正面から見ると肩幅も腰幅も実にせまい。顔も憂い顔で、まるで女の子のような印象を受ける。
学校沿革誌で調べてみたが、記録がない。台座の部分は後で作られたものらしく、そのせいか製作年月日などを示すようなプレートもついていない。
県の美術館に電話してみたら、製作年月日や作者等が不明な場合は「不明」と書いて報告すればよいとのことだったので、報告はそれで済ませたが、どうにも気になった。
そこで、二宮金次郎像そのものと、岩谷小学校の二宮金次郎像について調べてみることにした。
まずは、二宮金次郎と、その像についてであるが、これについてはインターネットや文献でいろいろな情報を得ることができた。わりとまとまっていたのが「こねっとワールド」というホームページの子供むけのQ&Aだったので、それを掲載する。
二宮金次郎が幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功したことはよく知られています。幕末ですからコピー機などはありません。彼は本を写し、薪を背負いながらそれを読み学習しました。その姿が銅像として残っています。このように自分で努力して武士の身分まで上昇した彼は、明治時代、農地改革に尽力しました。
彼のいっしょうけんめいに働き、学ぶ姿に目をつけた政府は、彼を神格化し、民衆にその姿勢を浸透させようとしました。それは明治時代にいったん盛り上がり、大正時代には廃れました。ところが、昭和になって大日本帝国主義をとった政府は、二宮金次郎のような勤勉・勤労な姿勢を国民に浸透させ、愛国心を培うために彼の銅像を全国に建てました。いわば、当時の大日本帝国主義の象徴ともなったのです。そのため、戦争が終わると、彼の銅像を取り外そうとする動きがありました。実際、多くの学校で取り外されたのです。しかし、大日本帝国主義とははなれ、純粋な二宮金次郎の姿を奨励するものとして銅像が建てられている学校もあります。
ただ、戦前のイメージと結びつける人もあり、必ずしも彼の銅像が全ての人に認められてはいないようです。
全国の二宮金次郎像について調べてまとめているホームページもあったので、それを見てみると、多くの二宮金次郎像は、
昭和10年代に作られているものが多いようだ。特に、いわゆる紀元2600年にあたる
昭和15・16年頃に多く設置されたようである。
ただ、戦局がきびしくなって金属の材料として供出させられたり、終戦後、軍国主義の象徴として撤去されたりしたものも多く、作られて10年もたたないうちに、なくなってしまった金次郎像もかなりあったようだ。
そんなことが分かった時、岩谷小学校の二宮金次郎像についても分かったことがあった。
校務員さんが、近くの古老の方に聞いてみたところ、次のようなことが分かった。
岩谷小学校の二宮金次郎像は、全国的な傾向よりもやや早く、昭和7・8年頃に作られたらしい。昭和7年に校舎を現在の場所に移転した少し後に、東京に住む女性が寄贈したのだという。
その女性は、この地域の出身であるが、貧しい生まれで、いわゆる裏街道のような生き方をしながら、苦労して財をなし、出身地の学校に金次郎像を贈ったものらしい。
その女性の境遇のためか、あるいは当時の女性の身分の低さのためか、表立って除幕式のようなことは行われず、寄贈者の名前を台座に刻んで残すということもなかったらしい。
確かな情報というわけでもないので、もしかしたら寄贈した方に失礼になる記述かもしれないが、私は「なるほどな」とうなずける感じがした。
戦争に突っ込んでいく昭和15年前後に作られた全国の一般的な二宮金次郎像と違って、あまり気負いがない感じがするのは、昭和7年あたりに作られたというせいもあるのだろう。
また、どことなく女性的な淋しげな感じがするのも、その女性の想いがこもっているのかもしれない。おそらく彼女は、貧しいなかで苦労をして身をおこした二宮金次郎に自分の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
戦争にむけて無理矢理に勤勉・節約を押しつけるのではなく、自分の想いをふるさとの学校に贈ったこの女性のことを思い浮かべながら、私は岩谷小学校の二宮金次郎像を見ることにしよう。
ところで、余談になるが、実際の二宮金次郎(尊徳)は、成人した段階で、身長が1m82cmもあった大男だったという。
二宮金次郎についての詳しい説明は
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恥ずかしいので、ここにこっそり書きます(^^;)
「学校沿革誌で調べてみたが、記録がない。台座の部分は後で作られたものらしく、
そのせいか製作年月日などを示すようなプレートもついていない」
などと書いたのだが、よく調べてみたら、ちゃんと
学校沿革誌に書かれてあった......
昭和20年11月18日
東京山崎鉄工所寄贈、二宮尊徳翁石像の除幕式。
山崎夫人、伊藤天海師、外来賓多数参列す。
式後、祝賀会を開く。
なんだってぇ! 昭和20年11月? 私が書いた話とまるで違うではないか。
しかも戦時中ではなく、終戦後に作られている....。
(終戦直後というのは、かなり珍しいのではないだろうか)
除幕式だって、私は「行われず」と書いたのに、来賓が多数参列して盛大に行われた
ということだ。
うーん! これじゃ私の立場は全然ないではないか......
でも私が書いたものもハナシとしては面白いので(^^;)事実ではないけど、このままに
しておくことにしよう(^^;)/~
※(注記) なおこの二宮金次郎像については
岩谷小学校のホームページの中でも紹介しています。