教師の話術とラジカセ


教師にとって話術は最も大事な道具であり技術であると私は考える。



理容師に例えればハサミやカミソリであり、医者に例えればメスや注射器であるとも言えるだろう。

カミソリでちゃんと髭を剃れない床屋さんには行きたくないし、注射が下手なお医者さんでは困ってしまう。それと同じように話が下手な教師はつかいものにならない。



私が教師になりたての頃(25年も前だが)、教師の話術は指導技術のひとつとして重要視されていた。児童生徒に問題を投げかける「発問」のやり方、児童生徒の発言への受け答えなど、それが下手な場合には厳しく注意され鍛えられた。

学習の内容を黒板にチョークでまとめる「板書」の技術と、この「発問」の技術は、教師にとって必須な技術として、授業研究会などで必ず取り上げられ、厳しく指導されたものである。(当時は授業研究会も歯に衣着せぬ雰囲気で、研究会が終わった後、厳しい意見に泣いている教師も多かった。この頃は褒めることが主になってしまい、ぬるま湯のような研究会が多くなったようだが....)



それがいつの間にか、「黒板とチョークだけの授業」ではいけないという雰囲気になってきた。

他の教具・教材(プリントとか視聴覚機器等々)をきちんと準備して、様々な手法を用い、児童生徒がより理解しやすいような授業を心がけようという考え方が教育界の主流になってきたのである。



これはとてもよいことであって、私としても否定する気持ちは全くない。ただ、その前提となるのは、発問と板書の技術がしっかりした教師が、それに加えて様々な手法を用いるということである。そうなればまさに「鬼に金棒」となる。

ところが、授業研究会の視点が、教材・教具の準備や、視聴覚機器の活用などに移ってくると、発問や板書を取り上げて話し合うことが少なくなってきた。

そのためか、教材・教具の準備は素晴らしいが、発問がいまひとつ整理されていないというような授業を目にすることも増えてきた。



それに拍車をかけたのが、今、主流となっている「個に応じた指導」である。

40人・50人という大勢の児童生徒を相手にして、教師が話術を武器にどんどんと授業を進めていくよりも、それぞれの児童生徒の実態をとらえて、個別に適切な助言を与えながら指導していくことが良いということは、私も否定しない。

ただ、個別の支援を重視することで、一斉指導における教師の話術が軽視されてきているのではと感じることがある。



個に応じた指導を行うときにこそ話術は大切である。

個々の学習活動時間をきちんと保障するためには、授業の最初に行う全体での指示の時間をできるだけ短くしたほうがよい。さらに、その指示ははっきりとわかりやすいものでなければいけない。

これがしっかりできないと、全体での指示の時間が長くなるし、指示が徹底しないために個別の学習活動のとちゅうで「ちょっと作業をやめて。さっき先生が言ったことをわかっていない人が多いようだけど、もう一度説明します」などということになってしまう。



一昔前まで、教師は授業で行う主な発問や指示を文章に書いて推敲し、それを暗唱できるように練習した。

研ぎ澄まされた表現に心がけていたのである。

ところがこの頃は、教材・教具などの準備に時間がかかるのか、はたまた誰も指導しないためなのか、発問や指示が不明確で垢抜けない事例も多いようである。

授業の計画の中に「ここではこのようなことを指示する」ということのだいたいはあるのだが、それをどんな言葉で表現するかまで考えていないのだろう。なんとなく頭の中にあることをその場になって話すものだから、無駄の多いあいまいな言い方になってしまう。

「うーんと....、今、先生の言ったことわかったかな? そうだなぁ....、別の言い方をすると....」というような言い方にも多く出会う。

1回目の指示があいまいで言い直しをするとか、不安げに児童生徒にわかったかどうか聞くなどというのは、昔であれば許されないことであった。(今でもそうだと思うが)



全体での指示や発問だけでなく、個別に指導する場合でも話し方は洗練されているほうがいい。短時間で効果的な指示や助言を与えなければならないのだから、前もって話すべき内容を準備しておくべきだろう。

個人への指導だからといって、「ふーん、そうなんだぁ。ってゆうか、この問題はね....」などという情けない話し方ではいけない。



昔だったら「あんな発問や指示じゃだめだよ」と注意してくれる先輩も多かったし、そういう場もたくさんあったのだが、この頃はそうでなくなった。それに「話術の達人」と呼べるような教師も現場から姿を消してしまった。(もう退職されている。現在の40代・50代は現在授業を担当していない人が多い)

私のように(あまり性格がよくなくて ^^;)人からああだこうだ言われるとむっとするタイプの人もいるだろうから(本当はそのむっとすることが自己研鑽の原動力になるのだが....)、人に言われなくても自分で話術を鍛えるのがよいと思う。



そのために効果が大きいのが、自分で話したことを録音して聞き直してみるということである。

カセットレコーダー等で授業をそのまま録音し、通勤のカーステレオや自宅のカセットプレーヤーで聞いてみる。

自分の下手な話を聞くのは辛いものだが、これをやると自分の悪い話癖とか、発問や指示の拙さがはっきりわかってくる。悪い話し方をしているところをどう直せばよいか考え、次の授業からそれを実践していくことで、話術は大幅に改善するものである。

歌い手や噺家にとっては常識ともいえる修行法なのだが、同じように声を出す商売である教師で、この方法をやっている人はどれくらいいるだろうか。おそらくあまりいないのではないだろうかと思う。



自分の話し方を録音し、聞き直すということがあまり行われなくなった理由のひとつとして、教室に置いてあるラジカセの変化があるように思う。

私の若い頃には、CDは存在しなかったので(^^;)、教室にあるオーディオ機器はラジオカセットが一般的だった。学校の備品として全部の教室に配置されていることもあったし、そうでない場合は個人所有のものを持ち込んだりもした。

この頃のラジカセはけっこう高価で、安い物でも2万円弱、性能が良い物だと4万円程した。ほとんどのラジカセにはマイクが内蔵され、教室内の音を簡単に録音することができた。



その後、CDが一般化し、ラジカセもCDラジカセになってきた。

価格は安くなって、今では1万円以下で買える物も多くなったが、うんちく講座No.255「信号版情報非公開」にも書いたように、コスト削減のためか、機器の入出力端子が少なくなった。ほとんどのCDラジカセでは内蔵マイクも無くなってしまった。

これでは、手軽に自分の授業の様子を録音するということができない。自分の授業を録音してみようという人がいなくなったのもしかたがないかもしれない。



ところが、探してみると、安価なCDラジカセでもマイクを内蔵しているものがある。

家電店に行って調べれば、そういう機種を見つけることができる。よく知られたオーディオメーカーの製品には少ないようだが、あまり聞いたことがないようなメーカーの製品にそういう物があったりする。




このCDラジカセは、先日、私が家族の誕生祝いに購入したものである。価格は6千円程度だったが、右のスピーカーの上側に小さなマイクが内蔵されている。マイクが1つなのでモノラル録音しかできないが、話し声などはけっこう良い音質で録音ができた。

このCDラジカセ、その他にも機器の背面にマイク入力端子とマイクボリュームつまみが付いていて、CDやラジオの音にマイクミキシングして録音することや、CD・カセット・ラジオの音にマイクミキシングしてカラオケのようにして使えたり、マイクだけで拡声装置として使えるなど、かなりのスグレモノである。



これなら、教室に置いて、普段はCDやカセットの再生に使い、必要なときには授業の様子を録音し、それをすぐに再生して聞くということが簡単にできる。

教室に置くラジカセには、マイク録音機能がついているものを選びたい。



ところで、このCDラジカセ、映画「E.T.」に出てくる宇宙人にそっくりだとは思いませんか?(^^;)





教師の話術については、うんちく講座No.372「例えばを使う」でもあれこれ書いているので、ご参照いただければ幸いである。
<03.07.10>

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