森と湖のまち佐呂間町

佐呂間町の紹介

栃木歌舞伎創始者「川島平助」人物伝

栃木歌舞伎創始者

川 島 平 助

(1874-1961)

『サロマベツ原野に命を燃やす』

明治7年、栃木県谷中村で生まれる
子どもの頃から芸事を好み、17歳で谷中村の演芸団に参加
若い頃は道楽者呼ばわりされていた
20歳で東京名代市川猿之助の弟子、市川猿作に入門
修業を積んで東京歌舞伎役者の免許状を取得、その後3年間地方巡業に出る

25歳で実家の農業を継ぐために帰郷、ここで鉱毒汚染に見舞われる
その後、東京への押し出し(鉱毒問題を国に訴える集団行動)にも参加
(注記)栃木地区に移住した鉱毒事件の活動家(川俣事件関連):茂呂近助・川島平助・秋山弥蔵
谷中村廃村で一旦古河に移り、明治43年の大洪水にあって移住を決意する

明治44年、妻の実家が移住に反対し、妻と娘を残して、4歳と幼児の息子二人を連れて三人でサロマベツ原野移住、当時37歳
清が母を恋しがり、平助は身を切られる辛さで旅立つ
「熊の出る寒い北海道へ、ごくろうさんなこった」と同情も集まる
(注記)年を遅くして妻も栃木にやって来るも早くに病死する。

明治45年、生活苦のため栃木県へ支援要請を行うよう団体(地区)に訴えるが聞き入れられず、団費の問題や種芋の配布問題を追及したところ団から除名、村八分処分を受ける
除名された8名の連名で栃木県に支援要請を行ったところ、下野新聞社が問題を取り上げ、栃木県人から370余円の義捐金が集まり、生活費に充てられたほか子供の教育費や神社拝殿建設費用になる

大正2年、集落幹線道路完成祝賀会の余興で、平助が地域の青年を指導して歌舞伎を興行したのが栃木歌舞伎の始まり

春・秋祭りに神社境内に小屋掛けして興行、娯楽がない時代に地域に楽しみを与えた
55編の台本が存在する本格的なもので、町内ばかりでなく近隣町村にも招かれて人々を楽しませた
衣装、小道具、台本すべて自身手作り、主に三味線と義太夫を受け持ち、時に自ら舞台に立った

大正6年、43歳で佐呂間村議会議員に当選、通算15年村議会議員を務める
(注記)12名中、瀬下六右衛門・川島平助と栃木地区から2名の議員が当選している
大正7年、昭和11年の二度、集落の長に就任
正月には三味線をもって家々を回り浄瑠璃を歌った

昭和35年4月21日、地域開基50周年式典で開拓功労者として地域から表彰を受ける(87歳)
男性としては唯一の移住生き残り
式典の余興で一人歌舞伎を披露

昭和36年3月20日、命の炎を燃やした力演からわずか一年経たずして、故郷へ帰る夢叶わず、
北海道の床で人生の舞台に幕を下ろす(享年88歳)

しかく川島平助 遺言

来るときは札幌の近くだと思っていたのに、
『うるさい奴』だからと遠くへやられた。
おれたちはだまされたんだ。
今にみていろ。
どかった。
オレはひどい目にあった。
オレが死んだあとは故郷(くに)へ帰るんだぞ。
(小池喜孝著「谷中から来た人たち」より)

しかく川島平助 歌舞伎に込めた思い
「社交と人道、仁義と忠実を結びつけるのが歌舞伎の主義 労働の慰安にも供することができる」
「歌舞伎は遊びではない 世の仁義を厳格に教えながら 人々の慰安にも供している」
「栃木の結束を図るには歌舞伎しかない」
(財団法人モラロジー研究所著:語り継ぎたい日本人
「開拓地に咲いた川島平助の歌舞伎人生」岡田祐一様原稿より)

(注記)栃木歌舞伎の衣装、小道具、台本等は佐呂間町教育委員会が所蔵しています。

お問い合わせ先

企画財政課企画係
電話:01587-2-1214

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