第一回定期戦、1957年10月、於浦和高校、2対5で浦和勝利
秋晴れとなった1957年10月19日、湘南の選手、応援団、職員500余名(当時の全生徒数は約1200名、そのうち女牛徒は約120名)は、 1200名の浦高生に迎えられ、垂れ幕の飾られた北浦和駅に下車、沿道の拍手と、商店街の「歓迎湘南高校」の飾り付けの中、 ブラスバンドの演奏に導かれて浦和高校にのりこみ第1回定期戦が行われた。
勝負は、バスケットと卓球に勝利し、野球に引き分けたものの2勝5敗1分と湘南の完敗に終わったが、参加した者にとっては、さわやかな一日であったことだろう。
また、このときの浦和遠征には、 PTA委員も若干名同行していたという記録がある。浦高PTAとの長い交流の歴史は、まさに第1回目から始まっていたのである。
(上二枚の写真は「湘南 50周年記念」誌に掲載されていたものです)
第二回定期戦、1958年、於湘南高校
[画像:来校を歓迎]第2回は、翌1958(昭和33)年10月15口浦高が学校をあげて湘南を訪れている。選手、生徒、職員、PTA役員ら総勢1500人が臨時列車を仕立てて参加し、 藤沢駅から湘南高校まで、ブラスバンドを先頭にパレードも行われた。
(写真は30回生提供のものです)
全校生徒が、国鉄藤沢駅から通勤時間帯のラッシュアワーの真っ只中を東京駅7番線経由で南浦和駅まで行く。
当時、国鉄におられた先輩の奔走で、当時でも信じられないようなコースと時刻表で実現したと聞いた。
その後新幹線開通に伴い、東海道線は東京駅より先の線路はなくなった。
1960年の第4回からは5月実施となる。
藤沢市街頭における歓迎風景(写真は「湘南 50周年記念」誌に掲載されていたものです)
やがて運動部だけの定期戦から文化部の交流をも含めた全校を挙げての定期戦となった。
全校交流となって、湘南から浦和へは、しばらくの間バスを連ねての移動を行なっていたが、交通事情の悪化によって、1971 (昭和46)年から再び電車輸送となった。
1961年は創立40周年にあたっていた。第二棟建設のための工事が7月初旬に着工され、その一週間後、浦高戦は浦和高校で開かれた。 迎えられて、激しく戦いをいどんだ湘南は、総合成績6勝4敗で、五度目にして初の勝利を得た。(「湘南 50周年記念」誌より転載)
水泳競技1963年
藤沢市街頭における歓迎風景(写真は「湘南 70周年記念」誌に掲載されていたものです)
その譜面と歌詞は次に掲載してあります。
昭和38年に作られた3曲である。「若さの限り」は開閉会式用と思われるのだが、勝ったときにしか歌わない歌とされたこともあった。
開会式と閉会式だけにそれぞれ歌う 「朝の歌」「夕べの歌」も美しいメロディーと端麗な歌詞を持つ上品な歌である。
いずれも作詞と作曲を湘南高校と浦和高校で分担し、2つの異なる学校で同じ3つの歌を共有財産とし、それぞれ別々の歴史の中で生き続けているのである。
(2001年5月に「湘南高校PTA2000年度体育委員会」により編集された「湘南・浦和定期交歓戦45年の歴史」資料からの転載です)
1980年12勝12敗のタイに持ち込む
サッカー試合第4回に初勝利をして以来、良きライバルとして拮抗した内容の戦いを繰り広げ1980年の第24回には、湘南が10勝1敗の大勝利を収め、 通算成績もとうとう12勝12敗の5分に持ちこむことができた。
(サッカー試合写真は「湘南 60周年記念」誌に掲載されていたものです、撮影年不明。)
その翌年頃から、生徒を大量に輸送することの困難さや女生徒の増加に伴う男子校である浦和高校とのアンバランス、短い滞住時間、 多い欠席者や無関心な生徒等々が問題となり、湘南高校の数多い行事の中で、その存続を含めての論議が持ちあがるようになってきたのである。
そんな中、1984年には、職員の中に浦高戦の存廃を審議するための浦高戦検討委員会が設置された。 検討委員会は職員にアンケートを実施したが、結局は校長をはじめとして、約60%の職員が存続を希望したため、合続を前提にして浦高戦の改革を検討していくことになった。
翌1985年に出された答申には、「行事内容はクラブ対抗、一般選抜対抗を中心に」と明記され、浦高戦が運動部の発表の場であることがはっきりと位置付けられた。
一方、生徒の間でも、浦高戦の存廃は論議されているが、1982年に浦実が行った全校生徒に対するアンケート結果(廃止賛成16%)が示すように、 やはり、廃止してしまおうというところまでは、いかないようである。
結局、浦実は対抗戦を重視しながら、出来るだけ多くの生徒が参加し、浦高生と交流を深め、楽しめるものにしていこうと考えるようになった。
1984年、囲碁・将棋や一般選抜種目が加わった。またこの年、女子バレーボール部が一般選抜に参加し、初めて女子が得点に関与した。
1985年にはオセロや百人一首など勝負のつく催事が取り入れられたが、
1986年には、前年に出された浦高戦検討委員会の答申に基づき、対抗戦に重点が置かれ、催事はおこなわれず、クラブ交歓会も短縮された。
1987年も催事は行われず、かわりに出来る限り多くの人が対抗戦に参加出来るようにと、リレー、サッカー、綱引き、ドッジボール、玉いれ、腕相撲などの一般選抜種目が追加された。
1986年浦高戦スナップ
応援団1988年第31回を迎える
第31回行進×ばつクイズが閉会式前に行なわれ盛り上がりを見せたが、皮肉にも、このクイズに破れ逆転で対抗戦にも破れてしまうという結果に終わった。
1990年には校舎内からロック演奏が聞こえてくるという、ここ数年の浦高戦の変化を象徴するできごともあった。
(写真は「湘南 70周年記念」誌に掲載されていたものです)
1996年第40回定期戦
1995年までの3年間は、湘南高校の校舎全面改築のため、浦和高校で行われ、1996年年4年ぶりに会場が湘南に戻った。 これを記念して、藤沢駅から学校までの商店街には、地元の方々のご厚意で「祝第40回浦高戦」の横断幕や幟がはためいて、その中を両校校旗とブラスバソドを先頭に行進した。
この年、湘南生は4連敗の雪辱を果たさんと、曇天の中、野球やサッカーをはじめ各種目で健闘したが、残念ながら結果は敗戦、5連敗となってしまった。
1997年は、あいにくの雨天となってしまい、湘南の得意種目の野球は中止された。 この年のメインは男子全員の騎馬戦で、降り止まぬ雨の中での戦いとなったが、熱戦の末、浦和に凱歌が上がった。
(「湘南 80周年記念」誌より)
1999年連敗を脱する
ボール競技1992年から1998年までの7連敗を背負って、1999年は晴天のもと浦高へ向かった。
田村校長(当時)の「勝ちに行く」宣言を受け各部活が奮闘するがなかなか結果は出ず、また今年もかと誰もが思いながら迎えた最後の大玉ころがしが奇跡の大逆転となり、久々の勝利となった。
(写真は2001年5月に「湘南高校PTA2000年度体育委員会」により編集された「湘南・浦和定期交歓戦45年の歴史」資料の表紙からの転載です))
第44回定期戦、2000年5月
入場行進2000年、湘南に浦高を迎えた。昨年につづき今年も勝利をという願いもむなしく、総合得点616対514でまたしても敗北を喫してしまった。
かくしてここまでの通算成績は15勝29敗となった。
(写真は「湘南 80周年記念」誌に掲載されていたものです)
この定期戦を最後に、2003年3月24日付けで、両校校長が覚書を取り交わし、惜しまれつつ長い歴史を閉じた。最終通算成績は15勝31敗であった。
浦高戦の意義は勝ち負けだけではない。卒業後、大学や職場で出会った浦高、湘南両校の卒業生は、お互いに旧知の友のような親しみを覚えるという。 これこそが、2県にまたがる47年間の交流の成果と言えるのではないだろうか。
交歓定期戦(廃止)に関する覚え書き
「湘友会報 N0.45 (2003年6月1日)」湘南高校NOW 記事より
昨年秋に、浦和高校側より申し入れがあり、本校でも職員間や生徒委員会、生徒総会等で種々協議の結果、この申し出を受け入れることとなった。
昭和32年10月19日浦和高校における第1回定期戦以来、昨年5月8日の湘南高校における第46回戦に至るまでの長い歴史であり、
その間にこの行事が両校の生徒に与えた影響には計り知れないものがある。
卒業してみると、人生の様々なシーンで浦和高校出身者に偶然出会う機会も少なくなく、お互いに親近感を抱くものである。 その伝統がなくなるのは寂しい気もするが、先方の事情もあって致し方ないことである。 2003年3月24日付けで両校の校長が「交歓定期戦に関する覚え書き」を取り交わしたので、ここに転載し記憶に留めたいと思う。
「神奈川県立湘南高等学校と埼玉県立浦和高等学校は、交歓定期戦を廃止することで合意した。
これ以後は、両校の生徒会本部、部活動、PTA、同窓会などが個々に交流を深めていくこととする。
以上の合意を確認するため、この覚え書きに署名する。(両校校長署名捺印)」
半世紀にわたって受け継がれてきた浦和高校との友好関係は、この廃止によって雲散霧消するものでなく、 浦高戦経験者の大きな精神的資産として残るばかりでなく、今後の両校間のさらに多様・親密な交流の基礎となるものと信じたい。