宮滝式土器から見えてくる縄文・弥生時代の暮らし(コラム)|歩く・なら<奈良の歩き方新提案!拠点滞在探求型ウォークルート>

万葉集では、天武天皇や柿本人麻呂らがうたった吉野宮の歌がいくつも残る。人麻呂が「滝のみやこ」とうたったのは宮滝遺跡のことだといわれている。

宮滝とはどんな場所だったのか。
時代は遡り、縄文時代。吉野川下流域(和歌山市周辺)に住む人々が訪れ、木の実などを採取しながら暮らしていた。冬は非常に寒冷だったため住む者は和歌山に帰っていた。宮滝遺跡出土の中で縄文土器である宮滝式土器が発掘された。カワニナという巻貝で文様をつけているのが特徴だ。

弥生時代になると大陸からの稲作文化に伴い、大和盆地の方では米作りが盛んになったが、宮滝では稲作をしていなかったとみられる。なぜなら遺跡からは、米の穂摘みをするために必要な石包丁がほとんど出土しなかったためだ。

ただし、奈良県の北部の人々との交流はあったようだ。発掘調査の際、大和盆地で作られた土器が出土し、その土器に米の跡が確認されたため、宮滝でも米が食べられていたのではないかと考えられている。しかし弥生時代中期以降の宮滝に住む人々の生活の痕跡が残る史料はなく、人々はこの地を離れたのではないかとされている。

そしてこれ以降、宮滝に関する史料の内容が変化する。それまでは宮滝で暮らす人々の様子を示していたが、飛鳥時代以降は宮滝を訪れる人々の様子に変わってしまうのだ。

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