貨幣博物館

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館内マップの画像です。展示室内は壁面に沿って古代・中世・近世・近代と日本のお金の歴史を辿るつくりとなっています。

開館時間・入館料

9時30分〜16時30分(最終入館は16時まで)
休館日:月曜日(ただし、祝休日は開館)
入館料:無料

アクセス情報

地下鉄
半蔵門線 三越前駅(B1出口)から徒歩1分
銀座線 三越前駅(A5出口)から徒歩2分
東西線 日本橋駅(A4出口)から徒歩6分

JR
東京駅日本橋口から徒歩8分

お金の歴史に関するFAQ

それぞれの見出しを押すと回答と関連ページが表示されます。

江戸時代の一両の現在価値はどのくらいですか?

江戸時代における貨幣の価値がいくらに当たるかという問題は、大変難しい問題です。世の中の仕組みや人々の暮らしが現在とは全く異なり、現在と同じ名称の商品やサービスが江戸時代に存在していたとしても、その内容に違いがみられるからです。
ただし、1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約35万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中〜後期で4〜6万円、幕末で約4千円〜1万円ほどになります。

日本で最初につくられた貨幣は何ですか?

708(和銅元)年発行の「和同開珎」とされていましたが、それより前に「富本銭」がつくられていたことがわかりました (1998年の飛鳥池遺跡の発掘成果による)。さらにそれ以前にも、「無文銀銭」が用いられていたことも明らかとなっています。

昔のお金の穴(孔)が四角いのはなぜですか?

銭貨に四角い穴があいていることの起源は、紀元前3世紀に秦(中国)の始皇帝の時代に作られた「半両銭」まで遡ります。穴が四角い理由の1つは、当時の中国では、天は円形(丸)、地は方形(四角)と考えられており、中央に正方形の穴をあけた円形(円形方孔)は、天と地を組み合わせた縁起の良い形とされていたためと言われています。

また、もう1つの理由は、銭をつくるときの最後の工程で、穴に四角い棒を通して固定し、銭の側面を磨いたためと考えられます。
円形方孔の銭貨は、その後、東アジアに広まり、日本でも1,000年以上の間使用されました。

銭を磨く人のイラストと枝銭の画像(銭貨は鋳造という方法でつくられた)

銭を磨く人のイラストと枝銭の画像(銭貨は鋳造という方法でつくられた)

渡来銭やびた銭と呼ばれる貨幣とはどのようなものですか?

渡来銭とは、東アジア(主に中国)から日本へ渡ってきた銭貨のことです。日本では10世紀末から16世紀まで国家による銭貨鋳造が行われず、12世紀以降渡来銭が貨幣として広く流通しました。16世紀後半には、こうした銭貨を「ヒタ(びた)」と呼んでいた例があります。
当時、「ヒタ(びた)」は良質とされた永楽通宝(明銭)よりは質が劣るものの、広く流通していた銭貨であり、必ずしも質の悪い銭という意味で使われていなかったと考えられています。
びた銭(鐚銭)が質の悪い銭という意味で使用されるようになったのは、これよりあとの時代とされています。

北宋を中心とした日本で出土数の多い渡来銭の画像・16世紀末の銭貨(東日本の事例)

北宋を中心とした日本で出土数の多い渡来銭の画像・16世紀末の銭貨(東日本の事例)

江戸時代のお金の単位はどのようなものですか?

江戸時代には、金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣が使われていました(三貨制度)。
金貨は小判1枚=1両を基準として、それ以下を4進法の単位で表す貨幣(1両=4分=16朱)、銀貨は重さで価値を表す貨幣で基本単位は匁(1匁=10分≒3.75g)でした。銭貨(銅)は1枚=1文とする貨幣でした(1,000文=1貫文)。

三貨間の交換は幕府による公定相場(18世紀の公定相場:金1両=銀60匁=銭4,000文)がありましたが、 実際には時価相場で交換されていました。

日本最古の紙幣は何ですか?

江戸時代初頭の1600年頃に伊勢山田地方(現在の三重県伊勢市)で流通し始めた「山田羽書」です。
「山田羽書」は伊勢神宮の御師(神職)によって銀貨の釣銭代りに発行された、端数銀貨の預かり証です。それが同地域内で紙幣としての役割を果たすようになりました。「羽書」は「端数の書付」の意味を持っています。
その後、江戸時代を通じ各地の藩や商人などにより、各地域内で通用する藩札・私札などが大量に発行されました。

江戸時代の大判は何の目的でつくられましたか?

大判は軍用・賞賜・贈答などに用いるためのもので、江戸時代を通じて5種類(慶長・元禄・享保・天保・万延)の大判が発行されました。形態は豊臣秀吉がつくらせた天正大判を継承し、金の含有率は68%前後とほぼ一定でした(但し、元禄大判は52%、万延大判は37%)。大判の表面には「拾両」と墨書されていましたが、これは重さ(165g)を示すもので、小判10枚分という意味ではありません。両替の際には、金の含有量により換算され、近世前期は概ね7両2分に相当しました。

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お金の歴史

古代 7世紀後半〜12世紀半ば

7世紀後半 発掘からわかった和同開珎以前のお金
8世紀初頭 和同開珎の登場
8〜10世紀 古代銭貨の移り変わり
11世紀〜12世紀半ば 商品貨幣の時代

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中世 12世紀半ば〜16世紀前半

12世紀半ば〜13世紀 銭貨の流入と浸透
14世紀〜15世紀後半 商品経済の発展と銭貨需要の増大
15世紀後半〜16世紀前半 撰銭の発生

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近世 16世紀半ば〜19世紀前半

16世紀半ば〜後半 銭貨流通の途絶と金銀貨の登場
16世紀後半 金・銀貨幣の定着
17世紀 金・銀・銅の貨幣の統一
17世紀 紙幣の発生と藩札の流通
17世紀末〜18世紀前半 元禄・宝永の改鋳
18世紀前半 正徳・享保の改鋳
18世紀半ば 元文の改鋳
18世紀半ば〜19世紀 定量銀貨・計数銀貨の登場
19世紀前半 文政・天保の改鋳

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近代 19世紀半ば〜20世紀前半

19世紀半ば 不平等条約の締結と貨幣
19世紀後半 金貨の大量流出のカラクリと万延の改鋳
19世紀後半(1868年〜70年代前半) 明治政府による貨幣制度の整備「円の誕生」
19世紀後半(1870年代後半) 国立銀行紙幣の発行と紙幣価値下落
19世紀後半(1880年代) 日本銀行の誕生
19世紀末〜20世紀初(1890年〜1910年代) 金本位制の確立
20世紀前半(1920年代) 金融恐慌の発生
20世紀前半(1930年代) 金本位制から管理通貨制へ

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