(霧山昴)
著者 野町 和嘉 、 出版 クレヴィス
圧倒されて言葉を失ってしまうほどの迫力ある大判の写真集です。ともかく度肝を抜かれます。地球には、こんなところがあるのかと驚くばかりです。
モロッコ(アフリカ)の中央部を東西に走るアトラム山脈に住むベルベル人をうつした写真があります。村をあげての集団処女婚式。戸数80戸の村で28組ものカップルが一度に誕生する。花嫁は12歳以上で、保健婦による処女証明書が必要。ところが、初夜をすますと、ほとんどのカップルは離婚してしまう。男も女も離婚してしまえば、性的には自由となり、出会いを繰り返したあげく落ち着く。娘たちの処女性を共有のものとして管理し、間違いを起こす前に公認のもとで喪失させることで共同体への参加資格を与えるシステム。
スーダン(アフリカ)に牛の放牧に生きる部族がいる。少年が雌牛の性器に息を吹き込む写真がある。それによって性的刺激を与えてミルクをさらに出させようということ。
雌牛の尿で頭を洗っている少年の写真もある。生まれたときから牛と一緒に生活しているので、牛の尿や糞に対して不浄という意識はない。また、子どもの朝食として雌牛の乳房からじかに牛乳を飲む。
男たちは朝起きて、牛が放尿を始めると走り寄って顔を洗う。乳をしぼり、牛の角をみがき、背中に灰をぬり、虫を捕ってやったり、牛の世話に余念がない。牛にとっても、人間の手厚い保護がなければ外敵の多いサバンナで生きてはいけない。
エチオピア南部のオモに住む牧畜民ハマル族の青年の成人への通過儀礼は、20頭近い牛を並べて、その上を背中を踏みながら跳んでいくこと。青年は全裸で、木の皮をタスキ掛けしている。もしも途中で落ちたりしたら、女たちから一生笑いものにされるという。
同じくオモ川沿いのカロ族では、男たちはパンツをはかなくてもカラシニコフ銃はもっている。そして枕は必需品。というのも、男たちの頭は泥で固めた独特の髪型で、それを崩さないため。部族が違うと、銃で殺し合いもするのです。
230頁の写真集に堂々たる大迫力の写真が183点あり、エッセイ62編が収録されています。ここに紹介していませんが、イスラム教徒のメッカ・メジナでの集団参拝に参加していますが、その写真もすごいです。そしてサハラ砂漠も...。
著者はいったい何歳だろうと思っていると、私と同じ団塊世代の走り(1846年生まれ)でした。大変な冒険力だと驚嘆するほかありません。ご一見、ご一読を強くおすすめします。少し高価なので、図書館で借り出すのも一案ですが...。
(2025年10月刊。3960円)
(霧山昴)
著者 澤宮 優 、 出版 角川ソフィア文庫
熊本出身のノンフィクション作家が昭和時代にあって、今は見かけない仕事を紹介しています。私も昭和生まれです(団塊世代なので、いわゆる戦後っ子)。この文庫本を読むと、いろんな仕事が見事に消え去ったことを知ります。でも、私の知らない、聞いたこともないような仕事もあります。
今もあると言えばある行商も、昭和時代は、たくさんの種類がありました。富山の薬売りは我が家にも来ていました。赤い小さな紙風船がもらえました。朝はアサリ売り、シジミ売り、豆腐売りがまわってきていました。「ガネ漬け」という塩辛いばかりのものもあります。
駄菓子屋は、それこそ、町の辻々にあり、子どもたちが群がっていました。紙芝居が広場で演じるときは私のように親から小遣いをもらえない子どもは遠くでこっそり覗(のぞ)きみるしかありませんでした。
繁華街に白衣をまとってアコーディオンを弾いて物乞いする傷痍(しょうい)軍人(片足がなかったり)の姿もよく見かけました。
遊郭(ゆうかく)も、あったのがなくなったとされていますが、子どもの私にはそもそも、そんなものは見えませんでした。
サンドイッチマンは見かけませんでしたが、ちんどん屋はよく見ました。今でも、催しものとして登場することがありますよね。仮装して、派手な服装と化粧の男女が、鉦(かね)と太鼓、クラリネットを鳴らしながら、にぎやかに演じて開店したばかりの店をアピールしていました。
正月には、門付け(かどつけ)の芸人が歩いてまわっているのは子どものときに見たことがあります。要するに、ちょっとしたお祝いの歌を店先で歌って、「おせんべつ」をもらってまわるものです。
集団就職というのがありました。高校に行かず、中学を卒業してすぐに東京や大阪の工場に働きに行く若者を列車に載せて連れて行くのです。この本によると1977(昭和52)年に廃止されるまで続いています。私は大学生になってセツルメントの若者サークルに入って、青森と岩手から東京に集団就職で上京したということを本人たちから聞きました。
ポン菓子は、今もイベントものがあるときに作られることがありますよね。
社会風俗の移り変わりを思い出すことが出来ました。
(2025年5月刊。1320円)
(霧山昴)
著者 湯村 功 、 出版 新泉社
青谷上寺地遺跡の読み方は、「あおやかみじち」です。いったいどこにあるかというと、鳥取市の北西沿岸部です。
この遺跡からは多種多量の出土品があり、また保存状態がとても良いのです。なかでも驚くのは、弥生人の脳がそのまま出てきたということです。脳の表面のしわ、そして前頭葉が残っていたなんて、まさに奇跡的です。古代人の脳が見つかったのは日本では初めてで、世界でも4例しかないそうです。
ここでは、大量の人骨が散乱して出土しています。いったい、なぜ散乱していたのでしょうか...。
長さ13メートル、幅5メートルの範囲から大量の人骨が出土した。少なくとも109体分あり、そのうち頭蓋骨が32点出土したうち、3点に脳が残っていた。そして、人骨には傷を負っていたり、鏃(やじり)が刺さった状態のものも4点みつかった。殺傷痕人骨である。
ところが、争いによるものとも言いきれないというのです。儀礼や刑罰によるものかもしれないとのこと。謎なんですね。そして、結核による脊椎カリエス症例と認められる人骨もある。
これら大量の人骨は、相互に血縁関係のあるものは少なく、遺伝的に多様。集落の外部から来た人々だろう。そして、集落が、これで途絶したわけでもない。いやはや、いったい何が起きたというのでしょうか...。
保存状態が良いのは、低湿地であり、適度な地下水と粘土にパックされ、空気から遮断されたことによる。
この遺跡からは木製容器が1000点も出土しているのですが、それがまた見事な形をしています。花弁(かべん)高坏(たかつき)は、浮き彫り、飾り耳、透かしとか、いやはやたいしたものです。それも、刳りぬきによる成形なのです。水田で米づくりをするときの田下駄(たげた)も出土しています。そして、箱づくりの琴も見つかっています。
鉄器は中国・朝鮮からの渡米物と、在地で生産したものと二つある。鉄製工具も多様なものがあるガラス玉もたくさん出土している。中国の新(しん)王朝というのは、前漢王朝を倒した王莽(おうもう)の王朝ですが、そこで発行された貨泉も出土しています。
中国そして朝鮮と交易していて、その拠点であったこと、国内とも交流があったことを意味している。
日本海側は「裏日本」と呼ばれることがありますが、古代は、中国・朝鮮との交易をする表玄関として「裏」ではなく、まさしく「表」だったのです。
出土した人骨から復元した男女3人の顔がカラー写真として紹介されていますが、現代日本でよく見かける日本人の顔そのままです。
大変勉強になりました。90頁ほどのブックレットです。ぜひ手にとってみて下さい。
(2025年9月刊。1870円)
(霧山昴)
著者 福田 千鶴 、 出版 講談社学術文庫
御家騒動が起きると、それを絶好の理由として、幕府は大名を改易(かいえき)したというのが従来の通説。しかし、著者は必ずしもそうではないと主張します。
実際には、御家騒動が幕府に露見しても改易にならない事例のほうが圧倒的に多い。鍋島騒動(佐賀)、黒田騒動(福岡)、対馬藩の柳川一件、伊藤騒動(仙台)など、いずれも改易にはなっていない。なるほど、そうなんですか...。
中世は「武士団」だったが、近世は「家臣団」だ。中世は武士同士が個人的に結ぶ主従関係を基礎にすえた武士団を帰属集団とする。近世は、主家(御家)の従臣として主君に奉公することで社会集団化した「家臣団」を帰属集団としていた。これらの違いの本質は、「御家」成立の有無にあった。
江戸時代の中頃に次のような川柳がある。
きみ、きみたらず、くさってる安玉子
18世紀の武家社会において、主従精神が墜落し、君(きみ)が君たりえないとき、臣も臣としての役割を果たしておらず、近世節の主従関係が腐敗した状態になっていることを痛烈に揶揄(やゆ)した一句。
器量・器用の原理は、下位者が上位者を廃立するときの論理となった。上位者は器量・器用の原理によって下位者を大きく切り捨てることが出来たが、その切った剣(つるぎ)で今度は自分の首も切られかねなかった。
承応4(1655)年、筑後久留米藩の大名有馬家の主君・有馬忠頼(ただより)は参勤途上の船中で小姓に殺害された。このとき、幕府には病死と届けられ、4歳の松千代の相続が認められた。幕府も真相隠しに加担したわけです。
江戸時代が泰平の社会になると、大名の寿命が延びたため、壮年になっても大名になれない嫡子が続出した。そこで幕府は、病気や老衰でなくても40歳以上の大名には隠居願を基本的に認めるようにした。
伊達騒動では伊達安芸と原田甲斐が即死するなど、刃傷沙汰をともなう大騒動となったにもかかわらず、伊達62万石は無傷のまま安堵された。
黒田騒動の折には、主人(大膳)の主人(忠之)は主人ではない、とする主従関係の観念があり、武士の意地が貫かれた。
栗山大善の屋敷は福岡城内の一角にあり、その屋敷内に6、7百人が鉄砲2百挺、大砲6挺をもって立て籠った。そして、屋敷を退去するときには、火縄に点火した状態の鉄砲20挺を先頭に、総勢500人の武士が大膳を護衛する鉄砲250挺、最後にも鉄砲20挺が続いた。
このとき、主君忠之は器量なしと断定された。そして、結局のところ、黒田家は安堵され、大膳は陸奥盛岡の南部家にお預けとなった。これだけの大騒動を引き起こしたのに、切腹にはなっていないのです。
幕府は常に大名家が存続するような様々の方策をとっている。これらの御家騒動は、小説となり、また舞台で演じられた。そこでは、大膳は、忠臣中の忠臣として庶民の賞賛を得ている。
2005年の中公新書の改訂新版です。大変勉強になりました。
(2025年7月刊。1430円)
(霧山昴)
著者 京郷新聞ジェンダー企画班 、 出版 大和書房
日本も依然として女性労働者の賃金格差は大きいわけですが、韓国もそれは同じです。
2005年、韓国の憲法裁判所は戸主制は憲法違反だと認定した。それによって戸主を筆頭とする戸籍は廃止され、今では家族関係だけを記載する家族関係登記簿となっている。弁護士にとって、現在の戸籍は相続人を確定するうえでは大変便利なものです。でも、いろいろ知られたくないような個人情報が山盛りなのも事実です。世界中で日本の戸籍だけが突出しているようです。
年齢(とし)をとってから稼いだお金は、8割は自分のために使うもの。なーるほど、遠慮なく使いましょう。
朝起きて、行くところがあるのは、とても幸せなこと。これを「きょうようがある」と言います。「教養」があるのではなく、「今日、用がある」ということなんです。
年齢をとってからも働いているのを知ると、「うらやましすぎるわ」と言われることがある。
ヨーロッパの人々は定年が来るのを楽しみにして働いていると聞きます。定年が来たら年金をもらって、働かずに好きなことだけをして老後を過ごすことが理想なのです。ところが、日本では、定年後も何とかして働きたいという人が多いと思います。もらえる年金額が、あまりにも低いことも、その大きな根拠になっています。でも、それだけではありません。老後に趣味で生きるということがないときには外で働いたほうがマシだという人も少なくありません。
1954年に生まれた女性は、10代で女工として工場労働をはじめ、20代で母親になり、家事労働を引き受けた。30台に再び工場に戻り、40代でIMF危機を経験して非正規雇用になった。50代からは、清掃や介護、看病などの低賃金の仕事に従事する。60歳すぎた今もなお、彼女たちは働き続けている。
65歳以上の女性就業者は124万人で、25〜29歳のそれの115万人より多い。
結婚後、家事を担当する主婦は「家の人」と呼ばれる。韓国では、この言葉は差別用語とされているが、今でも多くの男性が妻を紹介するとき、「家の人」と呼ぶ。
エッセンシャルワーカーの4人に1人は60歳以上の女性だ。清掃員や環境美化員の業界は高齢女性をまるでブラックホールのように吸い込んでいる。
女性だけが仕事と家庭の二者択一を迫られる状況は30年前も、今も、依然として続いている。
日本の女性も、たくましく生きている人は少なくありませんが、韓国の女性は、たくましい人が日本よりはるかに多い気がします(気のせいでしょうか...)。
(2025年7月刊。2420円)