2025年10月22日の心の糧
「心の糧」は、以前ラジオで放送した内容を、朗読を聞きながら文章でお読み頂けるコーナーです。
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(月〜土)毎日お話が変わります。
坪井木の実さんの朗読で今日のお話が(約5分間)お聞きになれます。
教皇フランシスコ
植村 高雄
今日の心の糧イメージ
教皇フランシスコ様の姿として深く心に刻まれているのは、来日の折、広島、長崎の原爆投下について、とても哀し気に話をされていたお姿です。あのお姿一つで、私は大好きになっていました。
人間は、なぜこうも戦争をするのだろう、と暗い感情に襲われるときがあります。私は大学で法学部政治学科で学びましたが、当時の政治学科での恩師は戦争の歴史を中心に研究している方でした。
私の敬愛していたその教授は、「戦争」と言うべきところを「殺人」と言い換えて授業をしていたのです。
しばしば学友が質問していました。「先生、なぜ先生は戦争といわないで、殺人というのですか?」と。先生は「若い君たちは戦場を知らない、だから私はあえて、戦争という代わりに殺人と言うのだよ」と答えていました。
当時は「意味不明」でしたが、今の私は分かります。先生には学徒動員で南洋の戦場で戦った経験があったのでした。「戦争の歴史」というべき箇所を、若い学生の私たちにあえて「殺人の歴史」と言い換えていたのです。
私の父は日本海軍で戦い、戦犯となっています。戦後になって87歳で神様のもとに帰りましたが、その年、日本では元首相ほか大勢の人々が絞首台で生涯を終わっています。
人間の死という事を考えるとき、私は教皇フランシスコ様の生涯を考えてしまいます。さまざまなことも影響していますが、いつの間にか自分の死という重い課題を、何故か、気楽に明るく爽やかに考え出している自分に驚いています。自分の死というものについて、なぜ気楽に明るく爽やかに考えることができるようになったのか、その契機がフランシスコ教皇さまでした。