ウルツブルグレーダー技術導入

伊号第30潜

1940年に行われたドイツでの技術調査で射撃制御レーダーウルツブルグを知って,その性能に驚愕した日本は,佐竹金次をドイツに遺して,ドイツに日本への技術供与を頼んでいた。1941年に日本が米英と開戦するとドイツは日本への譲渡を許可する。しかし戦争中でドイツから日本までをレーダーや図面を運搬するには輸送船や飛行機を使えないので,どうやって運ぶのが重大な問題であった。日本は潜水艦を使用することを考える。太平洋から,アフリカ南端の喜望峰沖を通り,大西洋を北上してドイツに向かう航路である。、
1942年4月6日,海軍軍令部がウルツブルグを日本に持ち帰るため、潜水艦をドイツに派遣する指令を出す。

伊号30潜水艦を四月中旬内地発,九月末までに内地に帰還の予定を以て,欧州に派遣し,作業行動に従事せしむべし。

伊号第30潜は呉港を4月11日に出航し、8月6日にフランスのロリアン港にあるドイツ潜水艦基地に到着した。潜水艦が到着するまでの間、ドイツでは日本人技術者に対してウルツブルグレーダーの技術教育が行われる。フランス駐在の海軍技官 鈴木親太 が選ばれてドイツ海軍レーダー学校でウルツブルグの技術を学ぶ。
8月13日,伊号第30潜が鈴木と、ウルツブルグレーダーとその図面を載せてロリアン港を出航し,10月13日にシンガポールに寄港する。しかしシンガポール出航直後に機雷に接触して伊号第30潜は沈没して、レーダーと資料は失われてしまった。
ウルツブルグの技術を潜水艦を使って日本に運ぶ苦難の経緯は吉本昭氏の『深海の使者』と,津田清一氏の『幻のレーダーウルツブルグ』に詳述されている。

伊号30潜水艦
伊十五型潜水艦,巡洋潜水艦で全長108m,水中排水量3654トン,水中2000馬力,零式水上偵察機搭載。1942年2月竣工,インド洋作戦中に遣独特別行動に就く。艦長 遠藤忍 中佐。乗り組み員の情報はほとんと無いが、竹内釼一(大正10年生)砲術長兼通信長が訪独記を書いている。

[画像:伊30潜]
ロリアン港に停泊中の伊号第30潜


陸軍

テレフンケン社 フォーデルス

伊号第30潜が沈没した事はドイツにも伝えられて佐竹は再び譲渡交渉を続ける。さらにウルツブルグを開発したテレフンケン社からレーダー技術者を日本に派遣してくれるように交渉して、テレフンケン社からハインリッヒ・フォーデルスが日本に派遣されることが決まる。この間,佐竹と 木原友二 は『ウルツブルグ』の調査報告書『超短波標定機調査報告』を1943年1月に纏めて日本に送付し、7月10日に陸軍行政本部に到着する。
1943年6月16日にフランスボルドーにあるドイツ潜水艦基地から2隻のイタリア潜水艦が日本へ出港する。ルイギ・トレリー号には佐竹と、フォーデルスが乗船し,もう一隻のババリー号には木原友二が乗船し、3台のウルツブルグと図面が積まれる。しかしババリー号はスペイン沖で英国海軍に攻撃されて沈没しレーダーと図面は、再び、失われてしまう。佐竹とフォーデルスが乗ったルイギ・トレリー号は8月30にシンガポールに入港し,佐竹とフォーデルスは空路で福岡に向かい,9月13日に東京に到着した。
東京では陸軍多摩技術研究所から畑尾正央大佐,兵器行政本部 吉永義尊 中佐,海軍 伊藤庸ニ が出迎え,日本無線三鷹工場敷地内に設けた多摩技術研究所分室でフォーデルス技師からレーダー技術の指導を受ける。しかしレーダーと図面類を失ったため開発ができない。このため陸軍はフォーデルスの指導を得てウルツブルグの技術を取り入れて タチ4号 を改良する。

[画像:超短波標定機調査報告緒言]
佐竹中佐の全65頁の『超短波標定機調査報告』緒言

[画像:Heinrich Foders]
フォーデルス

た号改4 タチ31号

佐竹が帰国して半年後の1944年4月に, た号改4 が完成した。佐竹式ウルツブルグと呼ばれる。レーダーのブロック回路図が新妻清一氏著『第2次大戦下における日本陸軍のレーダー開発』に載っている。
た号改4 の仕様
周波数 200MHz
パルス幅 2-3μs
パルス繰返し周波数 3750Hz
射撃制御距離 40km
距離精度 100m
方向精度 1ミル

[画像:た号改4]
た号改4

ウルツブルグ レーダー タチ24号

[画像:日本陸軍がドイツの図面から製作したウルツブルグレーダー]
日本陸軍がドイツの図面から製作したウルツブルグレーダー

1943年10月5日、ウルツブルグの図面を載せた潜水艦『伊8号』がブレスト軍港を発って12月に呉に到着した。図面が届くと陸軍と海軍はそれぞれ独自に『日本型ウルツブルグ』の製作を始める。潜水艦には GEMA 社から FREYA の対電波妨害と,敵味方識別装置が専門の技術者エミール・ブリンカーも同乗していたが,彼が FREYA の身分証明書しか持っていなかったので陸海軍は彼の技術を使おうとしなかった。
佐竹はウルツブルグ試作機の完成を1944年末,試験完了目標を1945年5月と決め,開発責任者を新妻精一 中佐とする。レーダーシステムは東芝が担当し,真空管は東芝と日本無線が,アンテナは東洋工業が担当する。ウルツブルグに使われている真空管は全部で11種類あり、8種類を日本無線がドイツの図面をもとにして製作する。日本無線は長野にあった岡谷ガラスを真空管の工場に転用する。これが後の長野日本無線になる。テレフンケン社の送信管 LS180 も,テレフンケン社の図面を基にして製作され,3種類のブラウン管は東芝が製作した。
レーダー本体は日本無線の三鷹工場で2号機から5号機まで製作し,初号機は東京久我山の高射砲陣地に設置して,開発されたばかりの15センチ高射砲と組み合わせられる。B-29爆撃機の飛行高度にまで到達する最大射高19000mの高射砲である。1945年8月1日,このレーダーと高射砲が2機のB-29爆撃機を捕捉して撃墜した。
ウルツブルグレーダー の仕様

ウルツラウス

1943年に連合軍がドイツ国内を爆撃する時に,空中に囮の金属片(チャフ)を撒いて,レーダーは役に立たなくするが,ドイツはドップラー効果を応用して動いている目標と,静止している目標を分離して,高速で移動する爆撃機だけを分離して探知する技術を開発していた。
川西工業の 佐々木正 氏は,陸軍の命令で,ドイツに派遣されてこの技術を習得して,潜水艦で帰国した。

佐々木正
1915生,93歳。元シャープ副社長。京都帝大卒。川西工業を経て現シャープに入社して,電卓開発の指揮をとる。(1994 "Oral History" William Aspray 及『話の肖像画』 朝日新聞 1997)


海軍

2号3型電波探信儀

海軍はウルツブルグの図面を参考にして艦船搭載射撃指揮レーダー 2号3型電波探信儀 (S8)を1944年3月に完成する。2号3型電波探信儀のアンテナは送受別のパラボラアンテナである。
2号3型電波探信儀 仕様
周波数 517MHz
パルス幅 2.5μs
パルス繰返し周波数 3750Hz
出力 5kW
探知距離 13km
アンテナ 1.7m径送受別のパラボラ
重量 1000kg

1945年春に陸上設置用のMark6 Model 1 (S8B)が完成する。パラボラアンテナは送受共用となった。(写真は見当たらない。)
Mark6 Model 1
周波数 500MHz
パルス幅 2.5μs
パルス繰返し周波数 1000Hz
出力 10kW
アンテナ 7m径パラボラ

[画像:2号3型電波探信儀]
海軍ウルツブルグ
2号3型電波探信儀

目次 日本の航空機搭載レーダー

佐々木 梗 横浜市青葉区
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