賀露ウインドタウン構想 〜風の見えるまちづくりをめざして〜
1 はじめに
賀露の歴史は、港の中に伺える。賀露港は、古くから朝鮮半島、出雲、隠岐、但馬地方との交通に重要な役割を果たしてきた。港は漁船で賑わい、大声で砂浜を駆け回る子供たちは潮風にふるさとを覚え、地域に育てられ、地域を愛する心を教えられたものであった。
昭和40年代後期、おりしも好景気に日本中が沸いていた頃、人々は更なる発展を願って「重要港湾鳥取港」を描き、そして今日の新しい鳥取港の姿を見ることとなった。
一方、近年の社会構造の激変、不況の嵐、少子化の波は容赦なく賀露港へも押し寄せた。地場産業である漁業は衰退の一途を辿り、地域の人間関係は稀薄となり閉塞感さえ感じられるようになったのである。
20数年前にみた夢「鳥取港」の姿は、本当に今日の姿だったのであろうか。私たちは今、その時吹いていた潮風「賀露の風」が止まってしまったことを実感している。もう一度あの時の風を感じたい、昔吹いていた賀露の風を子供たちに伝えて行かなければならないという願いが私たちの内に生まれた。「賀露ウインドタウン構想」は、未来の子供たちへ伝えなければならない賀露のまちづくりについて考えようとするものである。
3 賀露の歴史
賀露の歴史は古く、賀露神社に残されている賀露神社縁起には、遣唐使として派遣された吉備真備が帰朝の際風雨の災難に見舞われ九州より賀露の津に漂着したことが記録されている。吉備公の没後、賀露神社に祭られ「吉備大神」として今日まで崇啓されてきた。城下町を支えた漁師のまちであり、狭い区域の中でゆっくりと歴史を刻んだ土地であることは、「賀露弁」が鳥取方言と少し異なっていることでも伺える。
冬の松葉蟹は鳥取県の特産品となり、日本海の新鮮な魚介類を求めてやってくる観光客は多く、鮮魚商が賀露の特異的な産業となった。しかし、戦後の乱獲と近年の産業構造の変貌に相まって漁獲高は減少し、さらに漁師という厳しい労働を受け継ぐ若者も少なくなった。後継者不足と高齢化が進む中で漁船は次々と廃船に追い込まれ、小規模な造船業など地域産業の衰退をも招き、町全体が活気を失ってしまったのである。
4 賀露港から鳥取港へ
夏になると賀露の砂浜では毎日のように地引き網が繰り広げられ、自然と生活が解け合った景観を醸し出していた。一方、賀露港の港口は狭く浅いため、冬になると沖合から帰ってくる漁船が港を目前に浅瀬に乗り上げ横波を受けて遭難した例は数多い。当時の漁師や家族の冬場の不安は想像を絶するものであったろう。
賀露港は昭和50年に国の重要港湾の指定を受け、平成元年から使用され始めた。計画当時、鳥取市民は賀露港が大商港となることを願い、地元で農業を営む者は背後の農地が工業地帯に生まれ変わる事に期待と不安を抱きながら完成を心待ちにした。
整備された新漁港「鳥取港」は、以前には想像も出来ないような大型船が入港出来るようになり、船着き場もすぐ隣の西浜に新しく造り替えられ、近代的な漁港に生まれ変わった。漁船の遭難事故も無くなり、港への道も整備され、生活は格段と便利になったのである。
計画から20数年たった現在、経済情勢の激変により大商港の夢は頓挫し、夢に描いた大型船とコンテナーが行き交うにぎわいは実現されていない。運び込まれるのは土砂と岩石ばかりで、コンクリートと対岸に積まれた砂山や不法係留のプレジャーボートが新しい景観となってしまった。鳥取港は巨大な釣り堀とからかわれるようになり、住民との間には粉塵や騒音などのトラブルの種も尽きない。そして町民は、失われたものがあまりにも大きいことに気づきはじめた。今、時のアセスメントとして、時代に即した鳥取港のあり方を見直す必要を感じるものである。
5 NPO賀露おやじの会の設立
賀露港が鳥取港へと変貌はしたものの、賀露の自然環境は比較的恵まれているといえる。一方、市街化の広がりは確実に環境の悪化をもたらし、産業構造の変化は地元の人間関係にも確実に影響を及ぼし始めた。私たち大人がどのような形で地域の自然環境や社会環境を子供たちに引き継いで行くのか、その明確な答えを持てないまま21世紀を迎えなければならなかったことに心を痛めなければならない。
地域の様々な問題に立ち向かうためには、大人と子供たちが一緒に考え、忍耐強く行動することが必要である。その一つの方法として、私たちは様々な問題に対して、科学の目を持って考えようと試みた。
私たちは、1997年に子供会活動での「科学遊び広場」の開催をきっかけとして賀露小学校保護者の父親を中心に集まり、毎年数回、遊びを通した科学実験教室などを開催していた。会員の職業は、大工、造船業、鉄工業、漁業など様々で、それぞれの職能、技能を活かした活動を行っていた。また、活動にあたっては、地域の企業、団体、自治会、賀露小学校、賀露小教育振興会などが連携することが重要であると考え、その橋渡し役として努力してきた。
この活動は、賀露のみにとどまらず地域の大学の協力を得ることにより地区外での環境教育や学習活動へと広がった。ここに至り私たちは、その活動や地域への思いを広く市民や県民に発信し、共に考え行動していくことが重要であることを知った。地域住民はもちろん、志を同じくする多くの人たちと共にさらに幅広い活動へと発展させるために2002年1月に特定非営利活動法人(NPO)として組織を設立したのである。
賀露おやじの会は、環境の保全、子供たちの健全育成、まちづくりの推進などについて考え、行動する法人として出発することとなった。そして、子供たち相手の科学実験教室やイベントを通じて感じたことや想いを「おやじたちの願い」として少しずつ外に向かって語り始めることとした。
その願いとは、
?@ 今日の賀露の景観や閉塞感をすべて否定するものではないが、容認し、放置しておいてはならない。私たちの世代の責任として生活のにぎわいや活気のあるまちづくりを取り戻す努力を始めることが必要である。
?A これからのまちづくりは野積みされた土砂や造られたコンクリート景観などの中ではなく、自然との調和を図りながら醸し出すことが重要である。
?B 私たちは地域から受け継ぎ教えられたすばらしい財産を確実に次の世代へ引き継いでいかなければならない。そのためには、先人の努力により創られたものを活かしながら、すべての住民が誇りを持って、また反省しながら未来を選択することが大切である。
というものである。
この願いは夢となり、その夢に絵を付けた。絵の中には失われた「賀露の風」を描き、そして何度も描き直しながら夢から実現へと向かいたい、これが「賀露ウインドタウン構想」である。
7 おやじたちの夢「賀露ウインドタウン構想」
今、私たちが身近に感じている問題は、美しい自然と相反するコンクリートと野積みされた土砂で造られた景観、プレジャーボートの不法係留やごみの不法投棄がもたらす環境問題、お世辞にも活気とは言えない人間の交流、いわば雑多なにぎわいである。この雑多なにぎわいから活気溢れるにぎわいに変えるためには、もう一度賀露の空間整理を行い、賀露全体が一つのまとまりを持ったまちとすること、すなわち残された自然を生かした新港町創りを提案するものである。
(1) 住民との共生を考えた空間整理
完璧な土木設計理論により創られた港湾を生活という視点からもう一度整理し、行き交う人々の目に安らぎと新鮮さを映し出すことが必要である。ここで、賀露を「海洋レジャーボートパークゾーン」、「住宅・居住ゾーン」、「鮮魚・加工産業にぎわいゾーン」、「やすらぎ自然景観保全ゾーン」に区分し、分散された機能を集約しつつ、自然環境や住民との共生を図ることを考えてみたい。
○しろまる 鮮魚、加工産業ゾーン
昔この空間は、賀露海水浴場として多くの人で賑わっていた。シーズンには海の家が建てられ、砂浜では地引き網も行われていた。灯台のある鳥ヶ島は賀露港のシンボルであり、海岸から鳥ヶ島へと繋がる展望はまさに賀露そのものの風景であった。
港湾整備によりこの地が変貌を遂げたことを悔やむ声も多く聞かれる。しかし、一連の整備結果を受け止め、さらなる賀露の産業発展を願わなければならない。
特産物をPRできる博物館も建設されることとなり、新しい賀露の顔を創るのであるから、人が交流する場所である鮮魚・加工産業を集約した空間と位置づければよいであろう。
○しろまる やすらぎ自然景観保全ゾーン
このゾーンの砂浜は、賀露海岸に残す最後の自然とすべきだったかも知れない。砂浜に座って沈む夕日を見ることができる唯一の場所となってしまったからだ。だからといって、コンクリートで造られた海水浴場の是非について改めて問う必要もなく、これからどうやってこの地を見守っていくかを考えなければならない。
このゾーンにまちづくりはもう必要ないのではないだろうか。海水浴場としてのにぎわいを求めることと海水浴場を整備することについて、もう少し冷静にならなければならない。
8 市民と共に考える風力発電事業
急速に広まってきた風力発電事業は、売電事業主である中央の大手商社が地方の資源を吸い上げているように見られているが、地元の産業として真に貢献し得る可能性がある事業である。風は地域固有のエネルギーとして地元に最も恩恵がなければならない。
風力発電はすでに実用化段階へ入っており、採算性も見込める状況となっている。原子力発電に頼っている鳥取市の電力供給事情を少しでも変えていくことができるし、風力発電が並ぶ景観を新しい観光地として育て、発展させることが可能となる。
そのためには私たちの世代が知恵、労力、資金を出し合い、多くの市民に呼びかけ、地域が結束しながら新しいシンボルづくりへと取り組むことが必要である。自分たちの風車という気持ちを持つ人が多いほど、地元の住民の地域への想いが強くなると考える。