中村千幹氏
1896年(明治29)、北海道庁による富良野盆地の殖民地区画測量が行われ、その翌年にはフラヌ原野の貸下げが告示されました。1897年(明治31)、福岡県出身の中村千幹が地元の代議士佐々木正蔵の名義で、土地の貸下げを受けて筑後組合農場の管理人として扇山に入地しました。これが富良野市の開拓のはじまりです。
明治38年 本間牧場の開拓
富良野市域の開拓地は資本家による大農場や札幌農学校附属第八農場(後の北海道大学)・東京帝国大学農科大学演習林(現在の東京大学北海道演習林)のような大学附属農地、帝室林野局が管理する皇室の御料地によって大部分が占有され、小資本の自作農地は僅かばかりでした。多くの移民たちは大農場の小作人として土地を借り受け、鬱蒼たる原始林を刈り分けながら奥地へと開拓していきました。
下富良野村戸長役場
1900年(明治33)、十勝線(現在の富良野線)の下富良野〜鹿越間が開通すると、下富良野駅が本通りの突当りに設置され、市街地が形成されました。
鉄道の開通は入植者と物資を送り込むと同時に、開拓地の農産物・木材などの生産物を運び出す開拓の原動力として活躍し、次第に入植者が増えていきました。
このように富良野盆地の開拓が進展した結果、1903年(明治36)、現在の上富良野町から占冠村まで行政区域が及んでいた富良野村は、上富良野と下富良野の2村に分割され、同年9月1日、下富良野村戸長役場が市街地に設置されました。
兜谷徳平氏
富良野市の米作りは1899年(明治32)、扇山の操上貞次が試作して僅かな収穫を得たのがはじまりです。しかし下富良野村北部から中富良野村の低地は泥炭地であるために、1917年(大正6)には兜谷徳平が中心となって排水溝工事により土地を乾燥させる事業を、さらに1921年(大正10)からは布部から上富良野村に至る用水路工事が行われました。これを契機に、富良野盆地は美田を誇る米作地帯に変貌を遂げることになりました。
明治42年 学田三区獅子舞の初演
現在の富良野獅子舞
富良野獅子舞のルーツは富山県砺波市五郎丸の砺波獅子で、越中獅子舞の中でも最も重厚勇壮な「百足獅子」です。「百足獅子」とは獅子の胴幕にたくさんの人が入るタイプで、富良野獅子舞は頭1・中足6・尾1の計8人で舞います。
富良野獅子舞の前身は「学田三区獅子舞」で、札幌農学校(現在の北海道大学)第八農場の三区に入植した富山県出身者を中心とする人々が、1909年(明治42)7月、農場の成墾記念碑落成式で公演したのが始まりです。
戦後、地域の市街化や若者の流出によって継続が難しくなった時期もありましたが、1968年(昭和43)、名称を「富良野獅子舞」と改称し、「富良野獅子舞保存会」が設立されました。この伝承活動は富良野工業高等学校の郷土史研究会・応援団の生徒が中心となって受け継ぎ、1969年(昭和44)には富良野市民俗文化財に指定されました。その後、1984年(昭和59)からは、市内の青年有志によって引き継がれています。
昭和44年 第1回北海へそ祭り
現在の北海へそ踊り
北海へそ踊りは1969年(昭和44)、市民憲章「わたしたちは、北海道の中心標が立つ富良野の市民です」の普及の一環として創作された比較的新しい郷土芸能です。操上秀峰氏の原案の下、「へそ音頭」「へそ踊り」の創作が操上秀峰、横尾栄治郎、森田藤八の3氏によって試行錯誤を重ねながら生み出され、振り付けは藤間真富氏が行いました。
第1回北海へそ祭りは同年8月15日に開催され、この時、すずらん商店街が考案した図腹スタイルが現在にまで引き継がれています。1979年(昭和54)、操上氏を会長に「北海へそ踊り保存会」が発足し、今では北海道の夏を飾る一大イベントになっています。
富良野弥栄太鼓保存会
富良野弥栄太鼓保存会少年部
富良野弥栄太鼓は1973年(昭和48)7月、富良野市長高松竹次氏が米の生産調整により農村青年の活動が低迷していく状況の中で、青年たちを活気づけることを目的に、作曲家八州秀章氏に作曲を依頼し誕生しました。農村青年が主体となって連日連夜の特訓を行い、同年9月14日、富良野市開基70周年記念式典において初公演が行われました。1987年(昭和62)8月には、北海へそ祭りで子供樽太鼓を打っていた少年たちを中心に少年部が創設されて、太鼓を通じた「青少年の健全育成」と「地域文化の担い手養成」に貢献しています。現在も成人式、北海へそ祭り、ワインぶどう祭り、スキー祭り、富良野神社祭例などの各種イベントで公演活動を精力的に行っています。
少年部会員募集中 弥栄(いやさか)太鼓保存会少年部では、小学3年生から中学3年生までの元気な子供たちを募集しています
(募集対象)小学3年生〜中学3年生までの児童・生徒
(練習日)毎週水曜日 午後6時30分〜午後7時45分
(練習場所)富良野市郷土芸能伝習館(富良野市布部)
(会費)月額500円(少年部父母の会会費として)
(指導員) 富良野弥栄太鼓保存会会員がやさしく初歩から指導します。
(申込方法) 富良野弥栄太鼓保存会090−6448−7450までご連絡ください。
富良野弥栄太鼓保存会のFacebookページ
https://www.facebook.com/iyasakataiko/
富良野市開庁100年を記念して二史跡が市の文化財に指定(平成15年12月22日)
富良野市に戸長役場が置かれて100年目の記念すべき年にあたり、富良野市教育委員会では市の歴史を振り返り、歴史的かつ文化的に価値の高い文化財を調査し、市の指定文化財として保存・保護及び活用を図ることを目的に、文化財調査委員会を設置し、富良野市指定文化財の調査及びその活用について諮問しました。
平成15年12月22日の教育委員会定例会で審議し、答申を踏まえて、「北大第八農場富良野成墾記念碑」と「北大第八農場山部成墾記念碑」の二基を史跡として市の文化財に指定しました。
市の文化財には、これまで富良野獅子舞(第一号:昭和44年2月19日指定)、北海道中央経緯度観測標(第二号:昭和46年7月13日指定)の二件が指定されています。
富良野獅子舞(昭和44年2月19日指定)
富良野市学田3区に入植した農民により伝承された大型の越中獅子舞。明治42年から始まり、「学田三区獅子舞」として市民に親しまれたが、戦後、若者の流出のため中断した。昭和44年富良野工業高校生によって復活し、「富良野獅子舞」と改名した。現在、市街の青年の人々により伝承されている。
北海道中央経緯度観測標(昭和46年7月13日指定)
1914年(大正3年)、後の京都大学教授新城新蔵博士が中心となり、地球重力・経緯度の測定のため、富良野小学校校庭に長さ95cm・幅65cmの長方形のコンクリートの台座を建てた。この地点が北海道の中心にあたることから「北海道中心標」と呼ばれ、俗に「北海道のへそ」として市民に親しまれている。毎年、7月28・29日には「北海へそ祭り」が盛大に行われている。
北大第八農場成墾記念碑(平成15年12月22日指定)
富良野成墾記念碑
山部成墾記念碑
北大第八農場は、1886年(明治29)、当時の札幌農学校校長佐藤昌介の献言により、未開の富良野盆地の一部を校有財産として所管したことに始まり、富良野から山部にいたる空知川沿いの沃野(富良野地区1118町余、山部地区2,350町余、計3,468町余)は現在の市域の大部分を占めるものでした。1898年(明治31)、管理のための富良野看守所が設置されて、小作人3戸が入植したのを皮切りに、1901年(明治34)には山部看守所が設置され、以来年毎に小作人の入場は増加し、開墾地も拡大され、成墾当時の小作総戸数は700戸余りを数えました。
これら二基の成墾記念碑は、ともに1909年(明治42)に、その開墾がほぼ完了したことを記念して、小作人たちが苦しい生活の中で資金を拠出して建立されました。市内最古の記念碑であり、これにより富良野の開拓がほぼ完了したといえます。入植間もない明治年間に、成墾記念碑が建てられたことはその開拓の進展がいかに速かったかを示すものであります。また、市域の平野部の大部分がかつては北大の農場地で、「学田」「五区」など今も残る地名の由来となっています。
成墾記念碑の除幕式は、山部記念碑が1909年(明治42)年6月8日、富良野記念碑が同年7月7日に挙行され、佐藤昌介学長、南鷹次郎農場長らの臨席のもと、盛大に行われ、富良野記念碑の除幕式では、学田三区に入植した富山県出身者らによる「学田三区獅子舞」(市指定文化財「富良野獅子舞」の前身)が初めて公演・奉納されました。
これまでに発掘された富良野市内の遺跡
無頭川遺跡(縄文早期〜晩期・続縄文)
学田三区1遺跡(縄文中期)
春日町遺跡(縄文中期〜晩期)
扇瀬公園遺跡(縄文早・中・後期)
緑町遺跡(縄文晩期)
西扇山遺跡(縄文晩期)
鳥沼遺跡(縄文早期〜晩期・続縄文・擦文)
東9線6遺跡(縄文早期〜晩期)
東9線8遺跡(縄文早期〜晩期・続縄文)
南扇山遺跡(縄文早期〜晩期)
東麓郷1遺跡(後期旧石器終末)
東麓郷2遺跡(後期旧石器終末)
東山遺跡(縄文早期)
西達布2遺跡(縄文早・中・晩期)
西達布4遺跡(縄文前・中期)
西達布9遺跡(縄文早・中・後・晩期・続縄文)
三の山2遺跡(縄文晩期・続縄文)
三の山3遺跡(縄文早・中・後・晩期)