2015年12月28日月曜日
今さらですけれど、「へし切」と「日本号」ゆかりの地をめぐる地図を作ってみました。
学芸課の宮野です。
新収蔵品展 おもしろいですよ。
1月5日から博物館は再開しますのでどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、大変なご期待 をいただいているお正月の「へし切長谷部」の展示ですが、とてもありがたいサイトがございましたのでご紹介させていただきます。
まずはとうらぶ日和 さまよりこちら。
審神者向け福岡観光プラン2016冬:へし切長谷部・日本号を堪能する
おかげさまであの当時なぜ夕方になると女性のお客様が増えたのかがよく分かりました。
そこで、一応"公式"としても何かご案内をせねばと思い、とりいそぎ下のような地図を作ってみました。とうらぶ日和さまのご紹介でほぼ網羅されており、重複してしまう部分もございますが、一部母里家がらみのプチ情報を加えておりますので、ご来福の際のご参考にしていただければ幸いです。
ちなみに、昨日ご紹介したこちらの記事をご覧になった上で母里家屋敷跡を訪ねられますと、よりお楽しみ頂けるはずです。
[フレーム]
あと、福岡市交通局が地下鉄1日乗車券を使った「歴史探訪コース」を紹介しておりますので、併せてご覧ください。
作っていて「へし切」のゆかりの地ってあまり福岡市内にはないということに気がつきました。しいて言えば、黒田家の宝蔵があった福岡城内とか、1979年から1990年まで「へし切」や「日本号」を収蔵していた福岡市美術館とかでしょうか。
ついでながら、当館で開催した刀剣関係の展覧会のリーフレット等へのリンクも以下にまとめておきますので、ご参考になさってください。
国宝 刀 名物「へし切長谷部(きりはせべ)」
国宝 太刀 名物「日光一文字」
【所蔵品紹介】さけはのめのめのむならば…日本号の槍
No.081 名刀展 黒田家旧蔵を中心に
No.165 刀と能面 黒田家伝来品を中心に (画像リンク切れ有り)
No.270 筑前の刀工 金剛兵衛
No.353 福岡市博物館収蔵の刀装具展
話はかわりますが、10月頃だったでしょうか、1月に近くの某ドームで開催される某イベントに潜り込もうとコソコソ調べていたんです。1ブース●千円とあったので、なんとかなるかなと思ったんですけれど、問い合わせましたらば、「ほうじん価格」っていうんですか、●万円ですよ(^o^)、という話になって、これは無理だなとなりまして、残念ながら参加を見送りました。
それはそうですよね。不勉強でございました。
というわけで、ずっーと続けているお正月の「へし切」展示がこのような形で改めてご注目を頂けるのはとてもありがたいことですが、毎年この時を楽しみに待っていて下さっている長年のファンの方々もいらっしゃるわけで、どうしたものかという葛藤が実のところはございます。とはいえ、一方では、大河ドラマに続いてこのような幸運が訪れることは今世紀中にはもう無いだろうから今が踏ん張りどきではないか、という意見もあったりします。
恐らく、「えっ?期待してるのそれじゃないから」的な形で落ち着きそうな予感がしておりますが、それはそれで「福岡市博物館らしいや」と生暖かく見守ってくださるとありがたいです。間に合うかどうか分かりませんが何かしら準備がなされている模様です。
それでは皆さま良いお年をお迎えください。
年明けの皆さまのご来館をお待ちしております。
新収蔵品展 おもしろいですよ。
1月5日から博物館は再開しますのでどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、大変なご期待 をいただいているお正月の「へし切長谷部」の展示ですが、とてもありがたいサイトがございましたのでご紹介させていただきます。
まずはとうらぶ日和 さまよりこちら。
審神者向け福岡観光プラン2016冬:へし切長谷部・日本号を堪能する
おかげさまであの当時なぜ夕方になると女性のお客様が増えたのかがよく分かりました。
そこで、一応"公式"としても何かご案内をせねばと思い、とりいそぎ下のような地図を作ってみました。とうらぶ日和さまのご紹介でほぼ網羅されており、重複してしまう部分もございますが、一部母里家がらみのプチ情報を加えておりますので、ご来福の際のご参考にしていただければ幸いです。
ちなみに、昨日ご紹介したこちらの記事をご覧になった上で母里家屋敷跡を訪ねられますと、よりお楽しみ頂けるはずです。
[フレーム]
あと、福岡市交通局が地下鉄1日乗車券を使った「歴史探訪コース」を紹介しておりますので、併せてご覧ください。
作っていて「へし切」のゆかりの地ってあまり福岡市内にはないということに気がつきました。しいて言えば、黒田家の宝蔵があった福岡城内とか、1979年から1990年まで「へし切」や「日本号」を収蔵していた福岡市美術館とかでしょうか。
※大盃をつらぬく日本号という革新的なデザインのパラソル。
画像は福岡市中央区役所「福博であい橋」の解説ページより
国宝 刀 名物「へし切長谷部(きりはせべ)」
国宝 太刀 名物「日光一文字」
【所蔵品紹介】さけはのめのめのむならば…日本号の槍
No.081 名刀展 黒田家旧蔵を中心に
No.165 刀と能面 黒田家伝来品を中心に (画像リンク切れ有り)
No.270 筑前の刀工 金剛兵衛
No.353 福岡市博物館収蔵の刀装具展
話はかわりますが、10月頃だったでしょうか、1月に近くの某ドームで開催される某イベントに潜り込もうとコソコソ調べていたんです。1ブース●千円とあったので、なんとかなるかなと思ったんですけれど、問い合わせましたらば、「ほうじん価格」っていうんですか、●万円ですよ(^o^)、という話になって、これは無理だなとなりまして、残念ながら参加を見送りました。
それはそうですよね。不勉強でございました。
というわけで、ずっーと続けているお正月の「へし切」展示がこのような形で改めてご注目を頂けるのはとてもありがたいことですが、毎年この時を楽しみに待っていて下さっている長年のファンの方々もいらっしゃるわけで、どうしたものかという葛藤が実のところはございます。とはいえ、一方では、大河ドラマに続いてこのような幸運が訪れることは今世紀中にはもう無いだろうから今が踏ん張りどきではないか、という意見もあったりします。
恐らく、「えっ?期待してるのそれじゃないから」的な形で落ち着きそうな予感がしておりますが、それはそれで「福岡市博物館らしいや」と生暖かく見守ってくださるとありがたいです。間に合うかどうか分かりませんが何かしら準備がなされている模様です。
それでは皆さま良いお年をお迎えください。
年明けの皆さまのご来館をお待ちしております。
2015年12月27日日曜日
明治大正期の日本号と母里家
学芸課の宮野です。
博物館だより「Facata」101号の連載「百道浜クロニクル」、いい話です。ぜひお読みください。
※まもなくホームページにアップされる予定です。
さて、年末の片づけをしていたら、1942年9月に山崎麓 という国文学者が『書物展望』12(11)(137)という雑誌に発表した「母里太兵衛の後裔」という文章が出てきました。(のちに『福岡県人』21-2、1943年2月発行に再録)。
これまであまり知られていない明治大正期の母里家に関するエピソードが数多く書かれています。今回思わず全文をテキストデータ化してしまいましたが、日本号を純粋に“作品”としてご覧になりたい方は読まれない方がよいかもしれません。しかし、その背景にあるものも全て知った上で日本号をご覧になりたい方には必読の文章です。
併せて「秘密―かくす・のぞく・あばく」展をご覧いただくとよりお楽しみいただけるはずです。その理由は、、、、秘密です。
※入力にあたって、旧字は新字になおしましたが、「ゐる」とか「いふ」といった仮名遣いはそのままにしております。文中に現在では一般的に使わない表現も含まれておりますが、原文を尊重して改変せずにそのまま掲載しております。その点、ご了承下さい。
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日本の戦国時代に興味をもつ人ならば筑前黒田藩の名将に母里太兵衛(一に太平、母里但馬ともいふ)ある事を記憶してゐるであろう。彼は黒田の始祖、如水、長政の二代に仕へ栗山備後と並称された人物である。主命により福島正則のもとへ使者として出かけ、彼の酒量を知らぬ福島と賭をなし、正則が太閤殿下より賜つた日本号の名槍を貰ひうけて帰つた逸話は講釈種にもなつて居りひろく大衆にも知られてゐる。
その母里太兵衛の子孫は連綿として三百年もつゞき明治年間にいたつてゐる。私の少年時代、不思議にも母里氏の後裔と接触してゐた。その想ひ出を話してみよう。
物語は五十年の昔にさかのぼる。明治廿四年頃の事である―。
当時私の父は福岡県書記官をつとめてゐた。知事は鎮西探題とあだ名されてゐた豪傑、安場保和氏であった(後、男爵例の後藤新平伯の岳父)官尊民卑の風が盛で、一書記官でも単なる地方官吏といふのではなく、昔の一藩の家老ぐらゐの権威をもつてゐた時代である事を呑みこんでゐて貰はぬとこの話は興味が湧かぬかも知れない。
父は県庁のある天神町に住んでゐて徒歩で通つてもいくらもない距離なのに当時のお役人の風習で堂々とお抱への車で役所から帰つてくる、入浴と晩食がすむと三男である私が呼びつけられる。時節は夏であつた事がはつきり私の印象に残つてゐる、春でも秋でも同じであつたのだろうが。
『母里さんへ行つて、お暇なら碁をうちにお出で下さいと云つておいで』
『はい』
父の命令は恐ろしい、私は早速出かけた。
母里さんの家は私の家の真正面の向ふにある。鉄鋲が扉にうちつけてあるいかめしい邸門で、左手に長屋が二軒つづいてゐる、どうしても江戸ならお旗本の門構へである。
これが黒田家の名臣母里太兵衛の後裔たる母里の当主の住んでゐられる邸なのである。恐らく江戸時代三百年の間、代々こゝに住んでられたのであらう。当主もやはり太兵衛と名のつて居られた。
その門をはいると直ぐ土塀につき当つてしまふ。土塀の中は桐畠であつた。まるで城の枡形のやうに土塀にさへぎられて正面が見通せない。そこを左に曲り更に右へ曲ると正面に大きな玄関があらはれ相当広い邸宅がある。昔はそこが母里家の住宅であつたに違ひないのだが、今は貸家になつて別の人が住んでる、その邸を右手に眺めながらずつと奥へ進むとまた土塀があり小さい門をはいると六間ばかりある住宅にぶつつかる、そこが今の母里家の住宅なのである。
明治維新後、大きな邸宅住まひをやめ、昔は家来だちの住んでゐたか、それとも隠居の住んでゐた家を本邸とはなしてしまひ、自分たちの住宅に改造されたのではあるまいかと後になつて私は想像して見た。
その土塀の左手には紫陽花がしげつてゐて、花のさかりの頃は病める夫人の蒼ざめた頬がいくつも覗いてるやうでその頃やつと小学校に入学したばかりの私には、夕暮そこを通るのが何となく気味がわるかつた事を今でもはつきり想ひ出す。
玄関で声かけると、いつも眉の剃り痕の青々した色の白いふとつた奥さんがにこにこして出て来られた。
母里さんは呼びに行くと大抵来られた。先方も好きな道だし、夜は退屈してゐられたものらしい。
母里さんと父との碁は丁度よい相手で互先であつたとの事その父の力量といへばそれから廿年後私は知つたのであるが初段に星目位のもの、別に師匠について習つたわけでもない自己流、母里さんも御同様であつたらしい。それで御両人いかにも楽しさうなのだから好敵手だつたに違ひない。
母里さんは髭のない細面でいかにも穏和な人物、静かな言葉つきで名家の主人にふさはしい人柄であつた。その頃可なりの老人だと思つてゐたが、今から考へるとまだ五十にはなつてゐられなかつたのである。
母里さんと父との応対は今考へても興味深いものがあつた。父はいつまでも役人風の抜け切れぬ頭の高い人であつた、ところが母里さんに対しては実に慇懃鄭重をきはめてゐる、母里さんも実に慇懃である、何となく一脈相通ずるものがあつて互に敬意を失はず親みあつてゐたと思はれる。
それから二十年後、父の追想談によつてわかつたのであるが、母里さんは遊んでゐてもし方がないからと父に就職口を依頼されたのださうだ、そこで県庁方面はいふに及ばず、各方面をさがして見たが何分中年ではあり漢学の外新しい学問をしてゐられる訳ではなし適当な地位がない、漸くさがし出したのが、県立病院の書記の役であつた、それで宜しいかと尋ねたら母里さんは喜んで承諾され、その頃は毎日弁当をさげ出勤されてゐたのである。いはゞ病院の事務員さんである。
それに対し父があんなにも鄭重であつたのは全く理由があつた、それは名家に対する父の武士気質から来たものである、父は但馬出石の仙石藩で百石とりの武士の出身である、大藩なら百石とりなぞは軽輩であるが、例の仙石騒動で三万八千石に減封せられた出石藩では相等な家柄である、しかし黒田藩に於ける母里家の地位から比較すると全くお話にならない、維新前に旧藩の生活をした父には、依然かういつた格式、旧名家に対する尊敬、などを失はなかつたのである。
しかも母里さんの人格が近隣からも敬意を払はれ、誰一人悪評をはなつものがゐなかつた、その人格も父に気に入つてゐたためであつたらう。世が世ならば大藩の大身、小藩の小身といつたやうな感慨が父の胸中に湧いてゐたらしい。
母里さんの家によく私は遊びに出かけた。庭の奥には竹藪があり、その横に古色蒼然たる土蔵が建つてゐた。普通の白壁でなく褐色の砂壁であり、外見は余り堅固さうにも見えなかつた、この土蔵の中に例の有名な日本号の槍がしまつてあるのだと教へられてゐた、土地の人は日本号などとしかめつらしい名で呼ばず飲み取り槍と称してゐた、酒を飲んで福島家から取つたといふ意味だ。
この槍について神秘的な伝説がつたはつてゐる、江戸時代、福岡の城下におこりの病、狐つきといつたやうな病人があると、母里家の主人に頼みに来る、主人はこの名槍をひつさげて出かけ、鞘をはらつて病人の頭上に煌々たる穂先を閃めかすと、病人の病がたちまち全快したさうだ、名器の威徳で神経的な病気には効験があつたものと見える。
この脆弱さうに見える土蔵にも興味ある逸話が残されてる。これも数代前の昔、この土蔵に沢山の宝物がしまつてあると睨んだ一人の盗賊、ある夜忍びこんで土蔵の裾に穴を切りあけて這入らうとした、すると上から砂がさらさら落ちて穴を埋めてしまつた、盗賊はせつせと砂をかい出した、いくら砂を掘り出しても砂が出きつてしまはない、穴の前には見る見る砂の山が築きあげられたが砂は尽きない、もぐり込んで内壁を切り開くわけにもいかぬ、その内に夜が明けかゝつた。盗賊は狼狽して空しく逃げてしまつた。
これは土蔵の外壁と内壁との間が厚くできて居り、そこに砂が多量に詰めてあつたのだといふ。人のもぐれる土管でも用意して行かぬ限り忍びこめないのだつた。昔の人の周到な構築といふべきであらう。
飲み取り槍といひ、この土蔵の構造といひ、子供心にも面白く感じながら、その古びた褐色の壁近く来ると、その寂然たる姿に何となく一種の神秘さを感じ、楽書をする気にもならなかつた事を覚えてゐる。
母里さんには三人の娘さんがあるだけであつた。末に男児が産れたけれど三歳位の時になくなたのである。定めて落胆された事と思ふ。その時にはもう長女の富子さんに養子か来てゐた、中年にできた末の男児にはかゝれぬとの心構へであつたらしい、富子さんはその時十八で、母親似の色白の丸顔であつた、養子は春次郎といひきりつとした好男子である、駒場の農科の実科出身だと後から聞いた。
前に述べた昔の本邸は貸家になつてゐて、いろんな人が借りたらしいが私には全く記憶がない、たゞ一度だけ覚えてゐる、それは七八人の書生さんが当時流行の白木綿の兵子帯をまいてごろごろしてゐた事である。
この人達は玄洋社の壮士で当時激烈をきはめた選挙運動の折には、大刀を提げて奔走したといふ、といつても白昼公然帯刀を許されないのだから、蓮根に見せかけるため、刀を藁づとにつゝみ、わざと泥を上に塗つて持ちあるいてゐたと近所の人々の噂を聞いた。
よく覚えてゐないけれど、この人達の移転後間もなく母里家の本邸はとり崩され、一面の畑地となつてしまつた、家賃の安い時代だから古い建物の修繕費と、収支償はなくなつたのだらうと後から想像してゐる。
その前に母里さんの奥さんも病死され、母里家は何となく一脈の淋しさに包まれて、せつせと畑に手入れをしてゐられた母里さんの姿もやつれてゐたやうだつた。
それから間もなく安場知事は愛知県へ転任せられ、私の父は非職(今の休職)となり、私一家は元の古巣の東京へ舞ひもどつて、母里さんとも別れてしまつた。
しかし父と母里さんとは毎年、賀状の交換をしてゐた、それから何年経過した後だか覚えてゐないが、母里家では日本号の名槍の湮滅を心配され、黒田侯爵家へ献納されたとか、預けられたとか聞いた。昭和になつてからだと記憶するが、この種の古名器、重宝の展覧会が上野公園で開催せられた時、黒田侯爵家からこの日本号が出品される由新聞に報ぜられてるのを見、感慨をあたらにした次第である。
母里さんは私の父より数年はやく逝去せられ、それからは年賀状は養子春次郎さんの名で父の没するまで続いた。しかしそれはもう福岡からではなく岩手県などの種馬場からである。春次郎さんは畜馬の方で農林省の技手を勤務されてゐたのである。後には技師になられた事と思ふ。
春次郎さんは今生存してゐられゝば、もう七十五六歳の高齢である、夫婦の間に子がなかつたさうだから、多分養子をされたであらうし、もうその養子もりつぱな壮年のはずである。しかし母里家で太兵衛を名のつたのは私の知つてゐるあの母里さんが最後の人であつたらう。
あれから三十年の後、大正八年、私はなつかしい福岡に旅行した、まつ先に天神町へ出かけた、私のゐた家は全く改築されて昔の面影はちつとも残つてゐない。電車さへ通るやうになつてゐた。
それなのに母里家の邸門だけは儼然として昔のまゝのいかめしさを存して建つてゐた。黒い鉄鋲のある扉も昔通りであつた。何ともいへないなつかしさが胸一杯であつた、福岡市で国宝的存在、史蹟保存の意味で保護を加へてゐるのではあるまいか。その時ふとそんな考へがうかんだ、さうだとすると五十余年後の今日でもまだ天神町に残つてゐる事と思ふ。(了)
博物館だより「Facata」101号の連載「百道浜クロニクル」、いい話です。ぜひお読みください。
※まもなくホームページにアップされる予定です。
さて、年末の片づけをしていたら、1942年9月に山崎麓 という国文学者が『書物展望』12(11)(137)という雑誌に発表した「母里太兵衛の後裔」という文章が出てきました。(のちに『福岡県人』21-2、1943年2月発行に再録)。
これまであまり知られていない明治大正期の母里家に関するエピソードが数多く書かれています。今回思わず全文をテキストデータ化してしまいましたが、日本号を純粋に“作品”としてご覧になりたい方は読まれない方がよいかもしれません。しかし、その背景にあるものも全て知った上で日本号をご覧になりたい方には必読の文章です。
併せて「秘密―かくす・のぞく・あばく」展をご覧いただくとよりお楽しみいただけるはずです。その理由は、、、、秘密です。
※入力にあたって、旧字は新字になおしましたが、「ゐる」とか「いふ」といった仮名遣いはそのままにしております。文中に現在では一般的に使わない表現も含まれておりますが、原文を尊重して改変せずにそのまま掲載しております。その点、ご了承下さい。
大身鑓 名物「日本号」福岡市博物館所蔵
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山崎麓「母里太兵衛の後裔」
日本の戦国時代に興味をもつ人ならば筑前黒田藩の名将に母里太兵衛(一に太平、母里但馬ともいふ)ある事を記憶してゐるであろう。彼は黒田の始祖、如水、長政の二代に仕へ栗山備後と並称された人物である。主命により福島正則のもとへ使者として出かけ、彼の酒量を知らぬ福島と賭をなし、正則が太閤殿下より賜つた日本号の名槍を貰ひうけて帰つた逸話は講釈種にもなつて居りひろく大衆にも知られてゐる。
その母里太兵衛の子孫は連綿として三百年もつゞき明治年間にいたつてゐる。私の少年時代、不思議にも母里氏の後裔と接触してゐた。その想ひ出を話してみよう。
物語は五十年の昔にさかのぼる。明治廿四年頃の事である―。
当時私の父は福岡県書記官をつとめてゐた。知事は鎮西探題とあだ名されてゐた豪傑、安場保和氏であった(後、男爵例の後藤新平伯の岳父)官尊民卑の風が盛で、一書記官でも単なる地方官吏といふのではなく、昔の一藩の家老ぐらゐの権威をもつてゐた時代である事を呑みこんでゐて貰はぬとこの話は興味が湧かぬかも知れない。
父は県庁のある天神町に住んでゐて徒歩で通つてもいくらもない距離なのに当時のお役人の風習で堂々とお抱への車で役所から帰つてくる、入浴と晩食がすむと三男である私が呼びつけられる。時節は夏であつた事がはつきり私の印象に残つてゐる、春でも秋でも同じであつたのだろうが。
『母里さんへ行つて、お暇なら碁をうちにお出で下さいと云つておいで』
『はい』
父の命令は恐ろしい、私は早速出かけた。
母里さんの家は私の家の真正面の向ふにある。鉄鋲が扉にうちつけてあるいかめしい邸門で、左手に長屋が二軒つづいてゐる、どうしても江戸ならお旗本の門構へである。
これが黒田家の名臣母里太兵衛の後裔たる母里の当主の住んでゐられる邸なのである。恐らく江戸時代三百年の間、代々こゝに住んでられたのであらう。当主もやはり太兵衛と名のつて居られた。
その門をはいると直ぐ土塀につき当つてしまふ。土塀の中は桐畠であつた。まるで城の枡形のやうに土塀にさへぎられて正面が見通せない。そこを左に曲り更に右へ曲ると正面に大きな玄関があらはれ相当広い邸宅がある。昔はそこが母里家の住宅であつたに違ひないのだが、今は貸家になつて別の人が住んでる、その邸を右手に眺めながらずつと奥へ進むとまた土塀があり小さい門をはいると六間ばかりある住宅にぶつつかる、そこが今の母里家の住宅なのである。
明治維新後、大きな邸宅住まひをやめ、昔は家来だちの住んでゐたか、それとも隠居の住んでゐた家を本邸とはなしてしまひ、自分たちの住宅に改造されたのではあるまいかと後になつて私は想像して見た。
その土塀の左手には紫陽花がしげつてゐて、花のさかりの頃は病める夫人の蒼ざめた頬がいくつも覗いてるやうでその頃やつと小学校に入学したばかりの私には、夕暮そこを通るのが何となく気味がわるかつた事を今でもはつきり想ひ出す。
玄関で声かけると、いつも眉の剃り痕の青々した色の白いふとつた奥さんがにこにこして出て来られた。
母里さんは呼びに行くと大抵来られた。先方も好きな道だし、夜は退屈してゐられたものらしい。
母里さんと父との碁は丁度よい相手で互先であつたとの事その父の力量といへばそれから廿年後私は知つたのであるが初段に星目位のもの、別に師匠について習つたわけでもない自己流、母里さんも御同様であつたらしい。それで御両人いかにも楽しさうなのだから好敵手だつたに違ひない。
母里さんは髭のない細面でいかにも穏和な人物、静かな言葉つきで名家の主人にふさはしい人柄であつた。その頃可なりの老人だと思つてゐたが、今から考へるとまだ五十にはなつてゐられなかつたのである。
母里さんと父との応対は今考へても興味深いものがあつた。父はいつまでも役人風の抜け切れぬ頭の高い人であつた、ところが母里さんに対しては実に慇懃鄭重をきはめてゐる、母里さんも実に慇懃である、何となく一脈相通ずるものがあつて互に敬意を失はず親みあつてゐたと思はれる。
それから二十年後、父の追想談によつてわかつたのであるが、母里さんは遊んでゐてもし方がないからと父に就職口を依頼されたのださうだ、そこで県庁方面はいふに及ばず、各方面をさがして見たが何分中年ではあり漢学の外新しい学問をしてゐられる訳ではなし適当な地位がない、漸くさがし出したのが、県立病院の書記の役であつた、それで宜しいかと尋ねたら母里さんは喜んで承諾され、その頃は毎日弁当をさげ出勤されてゐたのである。いはゞ病院の事務員さんである。
それに対し父があんなにも鄭重であつたのは全く理由があつた、それは名家に対する父の武士気質から来たものである、父は但馬出石の仙石藩で百石とりの武士の出身である、大藩なら百石とりなぞは軽輩であるが、例の仙石騒動で三万八千石に減封せられた出石藩では相等な家柄である、しかし黒田藩に於ける母里家の地位から比較すると全くお話にならない、維新前に旧藩の生活をした父には、依然かういつた格式、旧名家に対する尊敬、などを失はなかつたのである。
しかも母里さんの人格が近隣からも敬意を払はれ、誰一人悪評をはなつものがゐなかつた、その人格も父に気に入つてゐたためであつたらう。世が世ならば大藩の大身、小藩の小身といつたやうな感慨が父の胸中に湧いてゐたらしい。
母里さんの家によく私は遊びに出かけた。庭の奥には竹藪があり、その横に古色蒼然たる土蔵が建つてゐた。普通の白壁でなく褐色の砂壁であり、外見は余り堅固さうにも見えなかつた、この土蔵の中に例の有名な日本号の槍がしまつてあるのだと教へられてゐた、土地の人は日本号などとしかめつらしい名で呼ばず飲み取り槍と称してゐた、酒を飲んで福島家から取つたといふ意味だ。
この槍について神秘的な伝説がつたはつてゐる、江戸時代、福岡の城下におこりの病、狐つきといつたやうな病人があると、母里家の主人に頼みに来る、主人はこの名槍をひつさげて出かけ、鞘をはらつて病人の頭上に煌々たる穂先を閃めかすと、病人の病がたちまち全快したさうだ、名器の威徳で神経的な病気には効験があつたものと見える。
この脆弱さうに見える土蔵にも興味ある逸話が残されてる。これも数代前の昔、この土蔵に沢山の宝物がしまつてあると睨んだ一人の盗賊、ある夜忍びこんで土蔵の裾に穴を切りあけて這入らうとした、すると上から砂がさらさら落ちて穴を埋めてしまつた、盗賊はせつせと砂をかい出した、いくら砂を掘り出しても砂が出きつてしまはない、穴の前には見る見る砂の山が築きあげられたが砂は尽きない、もぐり込んで内壁を切り開くわけにもいかぬ、その内に夜が明けかゝつた。盗賊は狼狽して空しく逃げてしまつた。
これは土蔵の外壁と内壁との間が厚くできて居り、そこに砂が多量に詰めてあつたのだといふ。人のもぐれる土管でも用意して行かぬ限り忍びこめないのだつた。昔の人の周到な構築といふべきであらう。
飲み取り槍といひ、この土蔵の構造といひ、子供心にも面白く感じながら、その古びた褐色の壁近く来ると、その寂然たる姿に何となく一種の神秘さを感じ、楽書をする気にもならなかつた事を覚えてゐる。
母里さんには三人の娘さんがあるだけであつた。末に男児が産れたけれど三歳位の時になくなたのである。定めて落胆された事と思ふ。その時にはもう長女の富子さんに養子か来てゐた、中年にできた末の男児にはかゝれぬとの心構へであつたらしい、富子さんはその時十八で、母親似の色白の丸顔であつた、養子は春次郎といひきりつとした好男子である、駒場の農科の実科出身だと後から聞いた。
前に述べた昔の本邸は貸家になつてゐて、いろんな人が借りたらしいが私には全く記憶がない、たゞ一度だけ覚えてゐる、それは七八人の書生さんが当時流行の白木綿の兵子帯をまいてごろごろしてゐた事である。
この人達は玄洋社の壮士で当時激烈をきはめた選挙運動の折には、大刀を提げて奔走したといふ、といつても白昼公然帯刀を許されないのだから、蓮根に見せかけるため、刀を藁づとにつゝみ、わざと泥を上に塗つて持ちあるいてゐたと近所の人々の噂を聞いた。
よく覚えてゐないけれど、この人達の移転後間もなく母里家の本邸はとり崩され、一面の畑地となつてしまつた、家賃の安い時代だから古い建物の修繕費と、収支償はなくなつたのだらうと後から想像してゐる。
その前に母里さんの奥さんも病死され、母里家は何となく一脈の淋しさに包まれて、せつせと畑に手入れをしてゐられた母里さんの姿もやつれてゐたやうだつた。
それから間もなく安場知事は愛知県へ転任せられ、私の父は非職(今の休職)となり、私一家は元の古巣の東京へ舞ひもどつて、母里さんとも別れてしまつた。
しかし父と母里さんとは毎年、賀状の交換をしてゐた、それから何年経過した後だか覚えてゐないが、母里家では日本号の名槍の湮滅を心配され、黒田侯爵家へ献納されたとか、預けられたとか聞いた。昭和になつてからだと記憶するが、この種の古名器、重宝の展覧会が上野公園で開催せられた時、黒田侯爵家からこの日本号が出品される由新聞に報ぜられてるのを見、感慨をあたらにした次第である。
母里さんは私の父より数年はやく逝去せられ、それからは年賀状は養子春次郎さんの名で父の没するまで続いた。しかしそれはもう福岡からではなく岩手県などの種馬場からである。春次郎さんは畜馬の方で農林省の技手を勤務されてゐたのである。後には技師になられた事と思ふ。
春次郎さんは今生存してゐられゝば、もう七十五六歳の高齢である、夫婦の間に子がなかつたさうだから、多分養子をされたであらうし、もうその養子もりつぱな壮年のはずである。しかし母里家で太兵衛を名のつたのは私の知つてゐるあの母里さんが最後の人であつたらう。
あれから三十年の後、大正八年、私はなつかしい福岡に旅行した、まつ先に天神町へ出かけた、私のゐた家は全く改築されて昔の面影はちつとも残つてゐない。電車さへ通るやうになつてゐた。
それなのに母里家の邸門だけは儼然として昔のまゝのいかめしさを存して建つてゐた。黒い鉄鋲のある扉も昔通りであつた。何ともいへないなつかしさが胸一杯であつた、福岡市で国宝的存在、史蹟保存の意味で保護を加へてゐるのではあるまいか。その時ふとそんな考へがうかんだ、さうだとすると五十余年後の今日でもまだ天神町に残つてゐる事と思ふ。(了)
2015年12月26日土曜日
大名校名札-新収蔵品展より
大名校名札
現在開催中の 「第27回新収蔵品展 ふくおかの歴史とくらし」、これが実に面白いんです!約300件の寄贈品を展示していますが、考古・歴史・美術・民俗とジャンルもさまざま。多様なものを受け入れた福岡のまちを象徴するように、多様な品々が並んでいます。間違いなく、「これはスゴイ!」と思う展示に出会えますよ!
ちなみに私が、「これは!」と思ったのが「大名校名札」です!刺繍の名札が懐かしい感じですね〜。
大名小学校は、明治6年に大明小学校として開校した福岡市の学校番号1番の小学校です。平成25年に創立140周年を迎え、都心部の小中学校再編に伴い、平成26年3月に閉校となってしまいました。。。
大名小学校は、明治6年に大明小学校として開校した福岡市の学校番号1番の小学校です。平成25年に創立140周年を迎え、都心部の小中学校再編に伴い、平成26年3月に閉校となってしまいました。。。
ちなみに福岡市では「大名小跡地のまちづくり」を進めていて、現在、その構想案についてパブリックコメントを行っています。
年内の開館はいよいよ明日12月27日(日)が最終日。新年は1月5日(火)から開館してます。ぜひあなたのお気に入りを探しに、博物館へお出かけくださいね!
広報担当:いわさ
国宝 名物 「へし切長谷部」公開まで間もなく!
国宝 名物 「圧切長谷部」
1年に1度だけ公開する国宝 名物 「圧切長谷部」の公開まで、いよいよ後10日あまりとなりました。公開に先立ち、市政だより1月1日号では「圧切長谷部」と国宝 太刀 名物「日光一文字」を併せて特集記事で紹介しています。
市政だより1面2面は、J1昇格を果たしたアビスパ福岡井原監督と髙島市長との新春対談!
「圧切長谷部」「日光一文字」の記事は、3面4面に掲載されていますので、ぜひ手に取ってご覧くださいませ。そして、ひとつだけお詫びがあります。記事に記載している博物館の電話番号、FAX番号が福岡市美術館のものになっています。やってしまいました。。。
福岡市博物館は、電話番号 092-845-5011、FAX番号 092-845-5019となっています。大変申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
福岡市にお住まいでない方は、ネットでチェックしてくださいね!
ふくおか市政だより(PDF版)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/koho/shisei/shisei/280101.html
ふくおか市政だより(WEB版)
http://dayori.city.fukuoka.lg.jp/31610
人気記事「じっくり見よう 刀剣鑑賞入門」
http://dayori.city.fukuoka.lg.jp/22696
広報担当:いわさ
2015年12月22日火曜日
美術館では「モネ展」、博物館では「新収蔵品展 ふくおかの歴史とくらし」始まりました!
本日、12月22日(火)から「第27回新収蔵品展 ふくおかの歴史とくらし」が始まりました。
福岡市博物館では、毎年「ふくおかの歴史とくらし」というタイトルで、新しい収蔵品を紹介しており、今回は、平成24年に収集した資料の中から約300件を初公開します!
今年、開館25周年を迎えた博物館の所蔵品は、12万件以上にのぼり、その7割近くは市民のみなさまから寄贈によるもので、何と、国宝「金印」や名鎗「日本号」も黒田家から寄贈いただいたものです!
「モネ展」では盛大に開会式が開催されましたが、博物館では開会式ではなく、寄贈者の方々へ市長感謝状の贈呈式を24日に行う予定です。
一見地味かもしれませんが、人々のくらしに身近な資料は見所がたくさん。しかも常設展観覧料一般200円、高大生150円(中学生以下は無料!)でご覧頂けますので、ぜひぜひ足をお運びください!
広報担当:いわさ
2015年12月13日日曜日
ナコピン、ユニバーサルデザインでも、がんばった!
福岡市博物館は、平成25年の常設展示室のリニューアルをきっかけにして、ユニバーサルデザインに取り組んでいます。
ミュージアムの世界が発信してきた内容は、これまで、きわだって「見ること」に限定されていました。
でも、ミュージアムが送り出せる楽しさは、「見ること」だけなのかな?
歴史や文化やアートの魅力を、「見ること」以外でも、すこしでも伝える方法を、探してみよう、試してみよう。
そんなが取り組みが、いま、全国ではじまっています。
福岡市博物館でも、新・奴国展と、福岡市の「ユニバーサル都市・福岡フェスティバル2015」にあわせて、11月3日から「金印ユニバーサル博物館 さわる奴国のおたから」を開催しました。
5倍!金印の模型をはじめとして、鏡、青銅の武器のレプリカをグランドホールで展示中です。自由に、手にとっていただけます。
ちょっとくらいなら、こわれちゃっても大丈夫、ちょっと…、ちょーっとならね…
弥生のテクノポリスが博物館の中にあり、奴国の匠の生まれ変わりが学芸員にいますので。
ここでもナコピン大活躍。
このコーナーも、本日、12月13日(日)の閉館までです。
残り少ない時間ですが、ぜひ、さわる奴国のおたからに、さわってくださいね。
posted by 学芸課:すぎやま
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新・奴国展
2015年12月12日土曜日
福岡市博物館へ急げ!ナコピン、ナコポンに会えるのも後2日!
いよいよ明日までとなった「新・奴国展」では、キャラクターの「ナコピン」「ナコポン」が案内してくれてます。「新・奴国展」が後2日ということは、ナコピンとナコポンに会えるのも後2日なのです!
今日は特別に「ナコピン」「ナコポン」をシリーズでお見せしちゃいます!みなさーん、会いに来てくださいね~☆
今日は特別に「ナコピン」「ナコポン」をシリーズでお見せしちゃいます!みなさーん、会いに来てくださいね~☆
福岡マラソンに備えてトレーニングする「ナコピン」「ナコポン」ゼッケンの秘密は...
本田学芸員手作りのナコピン!愛を感じますね~。
広報担当:いわさ
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