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特別保護樹林一覧
1.熊野権現の森
1.熊野権現の森
所在地 : 豊後高田市田染平野 所有者 : 熊野社
来 歴
豊後高田市大字平野字熊野(今熊野)に鎮座する熊野社の社叢。指定面積60a。
熊野社は、紀州熊野三山の分霊を祀ったもので、祭神は速玉男命外一二柱。熊野信仰が全国的にひろまったのは十二世紀ごろからで、各地に熊野権現が祀られ、その地を今熊野、新熊野、熊野山といっている。胎蔵寺から300mぐらい登った参道に建っている第一鳥居に、亨保元年(1723)、建立の銘がある。鳥居から150mは野面石の乱積み石段となっている。鬼が一晩で築設したとの伝説もあるが、石段完成を記念して奉献したものではなかろうか。
石積参道の両側にスギ並木がある。第一鳥居周辺に7本、登り詰めた第二鳥居周辺に6本の巨木が並んでいる。目通り周囲最大のものは345cm、第二鳥居を潜った社庭の片隅に成立している。参道改修を記念して紀州熊野あたりから移し植えられたものではなかろうか。修験行者によって寄進されたスギ巨樹は、天台・真言・法華に因む全国各地の社寺境内に多くみられる。
スギの品種はホンスギ系のものが多いが、同じくホンスギ系のヒコサンスギとはタイプが異なる。英彦山経由でなく、熊野山直移入をうかがわせる。スギのほかは、ウラジロガシ(275cm)、カゴノキ(220cm)、ムクノキ(195cm)、カヤノキ(195cm)、ケヤキ(160cm)、ヤブツバキ(110cm)などの巨木群が成立している。(括弧内は目通り周囲最大のもの)
高木の総本数は200本ぐらい。サンゴジュ10数本とイスセンリョウの群落があるのは珍しい。野鳥の運んだものであろうか。
2.朝見神社の森
来 歴
別府市朝見二丁目、旧県社八幡朝見神社の社叢のうち、社殿背後のアラカシを主林木とする自然林と、参道ならびに社庭周辺のスギ・クスなどの境内林。指定面積およそ0.5ha。神域の総面積は1ha余。県指定天然記念物「朝見神社のアラカシ林とクスノキ」。県指定特別保護樹林。市指定生物環境保護地区「八幡朝見神社のアラカシ林」。
朝見神社は、大友氏の祖初代能直が建久7年(1196)、鎌倉の鶴岡八幡を招請したことにはじまる。当所乙原に鎮座していたのを現在地に遷宮。豊後七八幡の一つ。慶長の火災で焼失。寛文10年(1670)、社殿再建。元禄9年(1696)、神殿と楽堂、文化11年(1814)、神殿・拝殿造営。明治初年諸社を合祀して朝見村の村社となった。
アラカシ林は、主林木のアラカシに、スダジイ・バクチノキ・ヤブツバキ・ヤブニッケイ・クロキなどを混生している。天然記念物のクスノキは、目通り周囲1040cm、樹種別では県内第四位の大きさ。ほかに社庭の周辺に300〜620cmの巨木4本がある。社前の参道最後の石段の下に聳える2本のスギの巨樹は、目通り周囲525cmと450cm。どちらも七五三縄を廻らせている。
真正ご神木は天然記念物のクスノキ。スギは後継ご神木というところか。
3.観海寺の森
3.観海寺の森
所在地 : 別府市大字南立石字観海寺
所有者 : 佐藤保雄
来 歴
別府市大字南立石字観海寺、佐藤保雄氏所有のスダジイ林。面積およそ150a。元清湯山観海寺寺域跡と伝えられている。市指定生物環境保護地区「観海寺のスダジイ林」。
観海寺の地名は奈良朝後期(700年後半)、仁聞菩薩の開基とされる、清湯山観海寺の建立に由来するが、同寺は明治初年の神仏判然令施行のさい、廃寺になったと伝えられている。後白河天皇の三女式子内親王が「新古今集」の藤原定家との恋に破れ、この地に落ちのびたとも伝えられる。(日本地名大辞典大分県版)
観海寺の森は、杉乃井ホテルの西方丘陵地、標高200mの尾根にあたり、付近の森林植生と明瞭に区分される階層構造を持ち、極成相に近い天然性林である。主林木はスダジイで、ヤブツバキ・クロガネモチ・ヤブニッケイなどが混生するが、亜喬木層のも低木層にも後継樹となる稚樹の発生はみられない。スダジイの成立本数は約40本。目通り周囲の平均は170cm。樹高の平均は15m。足場悪く、保育管理のためにも、観賞探訪や研修視察のためにも作業道の開設が望まれる。
現在、白雲山荘の西隣に曹洞宗観海禅寺がある。「別府市誌」によると、廃寺になったと伝えられる観海寺に連なるようにもみえるが、古文書による縁起引用のみで、開基不詳として伝承にはふれていない。
4.火男火売神社の森
来 歴
別府市大字鶴見字火売、旧県社(鶴見権現社)の社叢。指定面積は社殿、社庭を含めて約2ha。県指定天然記念物「鶴見権現社のイチイガシ林」。市指定生物環境保護地区「鶴見権現社の自然林」。
火男火売神社は、鶴見岳が噴火したとき、神前で大般若経を唱えた。その功績で朝廷から正五位下に叙された。以来火を治める神として、また今日では別府温泉の守り神として信仰の対象になっている。天正年間(1573〜91)、大友宗麟によって社殿が焼かれ、古文書なども焼失したが、寛文4年(1664)、領主久留島道清が神殿を再建した。社叢は神殿の北側一帯にイチイガシ林、神殿背後をとりまいてスダジイ林がある。ヤブニッケイ・ヤブツバキ・クロキなどのほか、植林したスギも混生している。立木本数はおよそ1000本。目通り周囲の平均は200cmぐらい。イチイガシの最大のものは目通り周囲530cm。樹高は30mに達している。
この一帯は春木川の上流域で、内山渓谷や大平山から押し出された土砂が堆積した扇状地。社叢の北側は、市立朝日中学校を隔てて九州横断道路が貫通しており、市街化の進行している地域である。県内では宇佐神宮に次ぐと言われるこの広大な社叢は、坊主地獄周辺のタブ・コジイ林、展望台公園周辺のアラカシ・スダジイ林とともに貴重な緑地帯である。
5.柞原八幡宮の森
5.柞原八幡宮の森
所在地 : 大分市大字上八幡
所有者 : 柞原八幡宮
来 歴
大分市大字上八幡、旧国弊小社柞原八幡宮社叢。
当社は旧賀来郷由原山に鎮座するところから、賀来社、由原八幡社、由原権現社などとも呼ばれる。宇佐八幡社の分霊地。古くから旧国弊中社西寒田神社と「豊後一宮」を争っている。平安時代(1062〜1160)には神領246町余、坊社30、社寺二200余戸と言われたが、現在の寺域は1.7ha。表参道拠り社庭までは200m。中ほどに楼門がある。
楼門手前参道の左側(西側)にご神木のクスノキがある。国指定天然記念物。幹周りの大きさ18.5mで県内では最大の大きさ。クスノキでは全国第七位、全樹種を通じて第8位。(1991年環境庁調べ)
楼門の手前右側(東側)に県指定の特別保護樹木のホルトノキもある。目通り周囲の大きさ500cm。参道の両側にスギ並木が続くが、300cm以上の巨木は9本。最大のもの581cm。
神殿背後から東側の裏参道に接する社叢は、イチイガシ・コジイ・スダジイの群叢。クスノキ・イタジイ・イスノキ・カゴノキ・アラカシ・タブノキ・ムクノキ・ナナメノキ・モチノキ・ヤブツバキなども混生する。暖帯林固有の林相で「鎮守の森」の典型。後継クスノキの大きさは615cm。コジイ、イチイガシの最大は400cmと335cm。林縁に300cmのモミの巨樹がみられるが、イチョウ、スギなどとともに人為の導入種であろう。
6.小野鶴八幡社の森
6.小野鶴八幡社の森
所在地 : 大分市大字小野鶴
所有者 : 小野鶴八幡社
来 歴
大分市大字小野鶴、小野鶴神社の社叢。市指定名木(樹林)。
当社は大分川右岸、堤防下の平地に鎮座し、賀来橋から小野鶴新町に通ずる市道から狭い農道を入ったところ。小野鶴公民館が参道入口左側に建っている。近世大分郡小野津留村の鎮守。当時の呼称は若宮八幡宮。(日本地名大辞典大分県版)縁起不詳。境内に天照大神・大己貴命ほかを祀る天神宮。宇迦野御魂神・大宮女神を祀る稲荷社ほか、数社の小祠が建っている。明治元年の神仏判然令により合祀されたものであろう。
神域の広さは0.88ha。神殿前の社庭にカヤとイチョウの巨樹がある。カヤはご神木。目通り周囲の大きさは400cm。イチョウは290cm。社前入口鳥居近くに吃立していたスギの巨樹は、平成3年の19号台風の被害により倒伏。跡地はゲートボール場となっている。社庭の周囲にはクスの中径木数本が植えられている。神殿の背後はスギの造林地で戦後の植栽にかかわるもの。なかにスダジイとエノキの巨樹各二本がある。スダジイの目通り周囲は385cmと340cm、エノキはどちらも320cm。東側林縁にはイチョウの中径木3本が配されている。この地帯は、新生界第四系沖積統沖積層で大分川の氾濫が繰り返されていたところ。若宮八幡宮の鎮座が史書に現れる近世江戸期に極盛相の森林(鎮守の森)の存在は疑わしい。社前の巨樹は人為の所作。背後の老樹は河畔の沖積地に侵入したものであろう。
7.春日神社の森
7.春日神社の森
所在地 : 大分市大字勢家町
所有者 :春日神社
来 歴
大分市大字勢家町、旧県社春日神社社叢。市指定名木(樹林)。
当社は大分市内で最も古い神社の宗社。祭神は武甕槌命ほか三神。創祀は天平年間(729〜49)「豊後国志」とも、貞観2年(860)「春日神社縁起」ともいわれ、南都春日神社の宗祀を移祀したとされる。大友氏の入国後篤い崇敬を受け、仁治3年(1243)、社殿を修復して笠和郷の宗廟とし、別当寺鷹雄山神宮寺を再興。社辺に蓬莱山を築くなど寄進に励んだ。
天正14年(1587)、大友・島津の兵火で壊滅。慶長8年(1604)、社殿再興。昭和20年、米軍の焼夷弾で焼失。同42年再建というのが縁起のあらまし。
社域の全面積は2.6ha。うち樹林帯1.6ha。樹木総本数およそ500本。社庭および蓬莱山前広場には、クスノキ・イチョウ・ケヤキ・ナギなど人為的に配されたものもあるが、社殿背後の植林地には、クスノキ・ムクノキ・ヤブツバキ・エノキ・アラカシなど、暖帯林固有の樹種で構成されている。目通り周囲300cmを超える巨樹はクスノキ5本、ムクノキ4本、ケヤキ2本、イチョウ1本。ご神木は、表参道入口両側のクスノキで、910cmと590cmの大きさ。
焼夷弾の直撃で老大木は枝葉の大部分を損傷、地衣を失い、クマザサの生い茂るにまかせていた林内も戦後50年を経て、マサキ・サンゴジュ・チシャノキ・ユズリハ・クスドイゲ・ヤブランなどの下層植生も増え、「鎮守の森」の林相を回復しつつある。一方、ご神木のクスノキは老化してノキシブの着生がはげしく、公園内のケヤキは踏圧と排気ガスのため、樹勢の衰えがかくせない。
8.西寒多神社の森
8.西寒多神社の森
所在地 : 大分市大字寒田
所有者 : 西寒多神社
来 歴
大分市大字上寒田、旧国弊中社西寒多神社社叢。市指定名木(樹林)。
当社の祭神は天照皇大神ほか二神。応神九年(413)、武内宿弥、勅命を奉じて西寒多山上(本宮山)に宮殿を建立。大友氏の尊崇厚く、応永15年(1408)、大友親世公のとき社殿を現在地に遷移した。延喜式内の大社で柞原神社と「豊後一宮」の格を争っている。
社域の総面積は1.5ha。樹林地1.2ha。樹木本数およそ400本。社殿背後(南側)および神殿を囲む東側と西側は自然林で、社庭の東側からフジ棚に連なる部分はスギ造林地である。社庭周辺の庭園樹は植栽木、ないしその後継樹である。
本殿裏から東側にかけてのイチイガシ林と、西側にかけてのアラカシ林が社叢を代表する樹林である。背後地はかってアカマツの巨木で蔽われていたというが、昭和40年代にマツクイムシ被害で全滅し、アラカシ・コジイなどが侵入した二次林である。イチイガシの最大の目通り周囲の大きさは235cm。神殿東側に吃立するヒノキは370cm。ご神木。社庭の周辺にはイチョウ・カヤ・オガタマノキなどが植えられており、イチョウの1本は320cm。東側社務所横に植えられているオガタマノキは既に結実し数本の後継樹がそだちつつあるのは珍しい。
参道入口の県指定史跡、石造万年橋を渡った東側にヤマフジの大株がある。幹周り200cm。市指定名木。毎年五月の「藤祭り」は有名である。
9.日吉神社の森
来 歴
大分市坂ノ市大字木田に鎮座する、旧県社日吉神社の社叢。市指定名木(樹林)。
日吉神社は、大己貴命ほか三神を祀る。社伝によれば比叡山山麓の旧宮弊大社日吉神社の分霊を七世紀後半に招請。天長2年(825)現在地に遷宮。慶長6年(1601)、加藤清正が蛇の目定紋を刻んだ手洗鉢を寄進(現存)、元禄9年(1697)、細川綱利が石造りの鳥居(現存)を寄進するなど、細川藩の厚い保護をうける。宝永3年(1706)社殿造営。明治8年木田神社と改称。昭和7年再び日吉神社に戻った。
神域の広さはおよそ130a。その内樹林は66a。主林木はコジイでヤブツバキ・ヤブニッケイ・タブノキ・アラカシなどを混生するほか、クス・モミ・イチョウ・モッコク・スギ・ヒノキなどの植栽もみられる。コジイの最大のものは、目通り周囲360cm。クスノキの巨樹も数本あり、なかの二本は574cmと308cm。モミの一本は240cm。
ご神木はモッコクで目通り周囲195cm、樹高13m。市指定名木。宝永3年、社殿の建立を記念して、神宿る木として大事に育てたものと伝えられる。社庭周辺に単木的に配置されている巨樹はおおむねその前後に植えられたものであろう。
10.鷹松神社の森
10.鷹松神社の森
所在地 : 大分市大字高松
所有者 : 鷹松神社
来 歴
大分市高松東二丁目、鷹松神社社叢。神域面積およそ40a。樹林35a。市指定名木(樹林)。
鷹松神社は建久2年(1191)、比叡山麓の旧宮弊大社日吉神社の分霊を招請して創建。大山祇命ほか三神を祀る。生産守護神。天保12年(1842)社殿建立。明治10年日吉神社を鷹松神社と改称。
神域は日吉川の左岸、高松川と日吉橋の中間辺り。社殿は表参道より40m、裏参道より30mぐらいのぼったところに建っている。神殿を囲む社叢の主林木はタブノキとコジイ。ヤブツバキ・ヤブニッケイなどが混生し、暖帯林の典型的社叢。タブノキの目通り周囲最大のものは510cm。社庭の周辺にはクロガネモチ・エノキ・ムクノキ・ホルトノキ・イヌマキなどが単木的に成立している。また、クスノキ二〇数本が並立して成立し、目通り周囲の大きさは、250〜300cm。天保年間、社殿造成の前後に植えられたもののようである。
表参道の石段をのぼり社殿の左側奥にクロガネモチの巨樹がある。ご神木。目通り周囲の大きさは380cm。樹高28m。建久2年、神社創建にあたり神宿る木として植えられたものと伝えられる。
11.若松八幡社の森
11.若松八幡社の森
所在地 : 佐伯市大字鶴望
所有者 : 若宮八幡社
来 歴
佐伯市大字鶴望字白潟、旧県社若宮八幡社の社叢。
若宮八幡社は建久年間(1190〜1198)、石清水八幡宮の分霊を勧請したものと伝えられ、当初城山の山頂に鎮座していたものをこの地に遷座したものという。城山八幡社、白潟八幡社とも称される。延宝元年(1673)、火災に遭い一切を焼失。亨保13年(1728)、毛利高慶(佐伯藩六代藩主)が再建した。大火で社叢も全焼し、再建のとき表参道及び裏参道に植えたとされるスギ四〇数本が現社叢の主林木を形成している。スギの最大のものの目通り周囲は360cm、旧神楽殿の社庭にクスノキの巨樹2本が並立している。大きい方の目通り周囲は402cm。大火に焼け残ったものというが怪しい。
昭和17年から19年の間に、御大典と皇紀2600年記念に、クス・コジイ・アラカシ・モチノキ・クロキ・サカキ・ヒサカキ・アセビ・イロハモミジ・ヤツデ・アオキ・ナギ・スギ・アカマツ・モミ・シャシャンボ計二六二本を植えた記録が残っており、現社叢の主要樹種でもある。その後も記念樹として、また、鳥獣による伝播も手伝って、サンゴジュ・ヤマモモ・ハマビワ・イチイガシ・ミミズバイ・クチナシ・コウヤマキ・イヌシデなどが繁茂している。モミは既に目通り周囲275cmに達しているものもある。
12.堅田八幡社の森
12.堅田八幡社の森
所在地 : 佐伯市大字長谷
所有者 : 堅田八幡社
来 歴
佐伯市大字長谷字石清水、堅田八幡社社叢。国指定天然記念物。
昭和24年12月2日、氏子総代協議により「城八幡社維持規定」を設置、境内の自然林伐採を全面禁止している。
堅田郷八幡社は城八幡社とも称され、もとは旧城村下城区の氏神。城村、岸河内村、大越村が合併して長谷村となる(明治8年)。現行政区の大字名である。
俗に堅田三郷と称されるのは、堅田川とその分流波越川、石内川の流域一帯を指し、現行政区は大字堅田。明治元年の神仏分離令により神社は統合、氏子の帰趨もさだまったが、廃藩置県後のたびたびの行政区の統廃、地名の変更は神社名と在所名に齟齬を生じている。城八幡社の方に郷愁がにじむ。社殿は標高30〜50mの丘陵地の南斜面、山麓の鳥居を潜って132段の石段を登った頂上近くに建っている。鎮守の森はこの南斜面一帯に分布する天然性林で、上層はハナガガシ・コジイ・スダジイで蔽われている。ハナガガシは頂上部と西側斜面に多く、コジイ・スダジイは東側に多く分布する。最大のものの目通り周囲はハナガガシ270cm、コジイ280cm、スダジイ300cm。中〜下層木にはイヌビワ・ヤブツバキ・シロダモ・クロキ・イスノキ・コバンモチなどが混生している。
社殿の右背後にモミ、社庭右隅にスギ、左隅にトガの巨樹が聳え、目通り周囲はそれぞ385、325、240cm。社殿造営後の植栽と思われる。
13.八坂神社の森
13.八坂神社の森
所在地 : 佐伯市弥生大字江良
所有者 : 八坂神社
来 歴
佐伯市弥生大字江良に鎮座する旧郷社八坂神社社叢。指定面積20a。
上層はハナガガシを中心としてコジイ・ツクバネガシが混生している。昭和51年の指定時、3樹種合わせて150本ぐらい成立していたが、指定直後の台風被害で20本が倒伏した。その後も老衰枯死が続き、固有種ハナガガシの残存木は約50本である。亜高木層にはヤブツバキ・イヌビワ・クロキなどが混生しているが、構成種は単純である。樹冠破壊部にはコジイ・ツクバネガシの稚樹は多いが、ハナガガシは見あたらない。
ハナガガシは九州日向を中心に、宮崎、鹿児島両県に分布している。県内では佐伯市長谷の堅田郷八幡社とここの2箇所だけで、生育の北限とされている。
縁起によれば八坂神社の祭神は建速須佐男命・櫛稲田姫命ほか十一柱で、大同2年(806)、京都八坂神社(旧宮弊大社)より招請したと伝える。社殿は万地2年(1659)以降の建立になるもので、本殿、弊殿、拝殿よりなる豪壮な建物である。社殿前の鳥居に元禄4年(1692)建立の銘がある。
旧正二九日に行われる特別神事は、橋迫若狭守藤原斯雅が天明2年(1782)に創始したものとされ、佐伯三大祭りの一つとして近郷近在の老若男女で賑わうという。八坂神楽十二番も奉納される。
14.健男社の森
来 歴
豊後大野市緒方町大字上畑、旧郷社健男神社の参道両側のスギ並木と社殿背後のモミを主体木とする自然林。県指定天然記念物。
神域の広さは約0.4ha。スギの最大のものは目通り周囲480cm、樹高50m。それに準ずる大径50本。それより後代の植栽になると思われる、300cm内外のもの23本が亭々と聳えている。品種はアオスギが大部分であるが、ホンスギ、アヤスギも混在しており、英彦山系のスギに類似している。神殿背後の自然林には、主林木のモミの中に、イチョウ・カゴノキ・イタヤカエデ・ヤブニッケイ・アラカシ・アカガシ・などが点在し、30〜40年生のスギ数一〇本が植林されている。祖母・傾山系の自然林の林相を残しているとはいえ、極盛林(天然林)の林型とはいいがたい。
当社は応永8年(1410)の創建とされ、五穀豊穣祈願の銭太鼓踊りの楽庭としても有名である。社殿の北側約100m、谷窪上の台地に廃寺世尊寺跡があり、応永20年の建立と記録されている。(緒方町歴史民族資料館調べ)
神仏習合時代の天台寺院で祖母山信仰と結びつく密教行者の出入りも多かったに違いない。
健男社の正式の称号は健男霜擬日子神社で、祖母山頂上には竹田市城原の同名神社の上宮が鎮座している。出羽三山、熊野三山、英彦三山などの参道の行者スギの由来に似て興味深い。
15.キンメイモウソウチクの林
来 歴
臼杵市野津町大字王子字山ノ下、西山順一氏の屋敷林。
稈や葉に黄色の条斑がみられ、黄金色を呈するところからこの名がある。漢字表記は金明。西山家の裏山約0.1haの北東斜面に800〜1000本成立している。
この竹林は昭和45年頃までは広葉樹と混生していたが、たまたま当地の郷土史家故安藤一馬氏がこの変種のタケの存在を確認し、京都大学教授上田弘一郎博士に鑑定を依頼したところ、突然変異による品種であることが認められた。当時日本には久留米市、福岡県遠賀市、高知県高岡市の3カ所にしか存在しないことがわかった。
爾来、西山氏によって雑木を除き、このタケの繁殖につとめて今日のような美林に仕立て上げた。最近は人手不足と非採算性のため、除伐が遅れ過密な林になっている。
このタケには、稈が一間節ごとに交互に芽條部に緑色を示す型と、各間節に多くの縦縞の線条を示す二型があり、両方が混在することで、観賞用だけでなく学術的にも貴重な林とされる。ただ、林令を重ねると緑色部に黄味が増し、縞条が不鮮明になる。また、枯れると縞が消えるのも、工芸的利用の途を閉ざしている。
16.城原神社の森
16.城原神社の森
所在地 : 竹田市大字米納
所有者 : 城原神社
来 歴
竹田市大字米納、城原八幡社の社叢。
城原神社の草創は応神2年と伝えられ、天正14年(1586)、島津軍の兵火により焼失。慶長元年(1596)、現在地に遷宮。拝殿、神殿は宝歴12年(1762)、楼門は文化2年(1862)の建立とされる。
社叢の構成植物は、32科57種におよんでいるが、木本植物の大部分は遷宮後の植栽になるもの。社前の上宮に通ずる参道並木と類推されるものは、それより遙かに年代を経ている。参道並木はスギが主林木であるが、イチョウとケヤキの各1本が残っている。スギの一本は平成2年に落雷をうけて伐採。樹高37m、伐根の年輪数650を数えたと記録されている。同年代と推定されるものが伐根四本、生立木1本がある。ケヤキは遷宮時すでに巨木であったと伝えられ、この木陰で、楼門建築の命をうけた棟梁が自害したとの伝承がある。イチョウは昭和60年の楼門の放火による類焼と、平成3年の19号台風被害により手痛い打撃をうけている。
参道並木のほか、本殿、神殿の南側境内には、巨木として、モミ・カラマツ・イロハモミジ・ヒヨクヒバ各1本の巨木が成立し、そのほかにもオガタマノキ・カヤ・ゲッケイジュ・ヒイラギ・ソメイヨシノ・サカキなどが植えられている。カヤは目通り周囲285cmで巨木でもないのにご神木として崇められている。特に謂われはないという。19号台風により梢端2/3が折損している。
17.宮園鎮座津江神社の森
17.宮園鎮座津江神社の森
所在地 : 日田市中津江村大字合瀬
所有者 : 津江神社
来 歴
日田市中津江村大字合瀬字宮園、旧村社津江神社参道のスギ並木。県指定天然記念物。
津江神社は宮園神社、梅野天神、老松大明神の別号もあり、津江八社の一つ。何れも老松天満宮の社号がある。社記によれば、治安元年(1021)以来、肥後宮原に祀ってあったものを仁安三年(1168)に遷宮。延安3年(1491)、津江城主信安が社殿を再建、神域をさだめ、祭典を厳にしたが、スギ並木の植林もそのころに始まるとされる。日露戦争(1905)当時、1本が枯死したが、その時の年輪400余を数え、史実を証している。
佐藤敬二著「日田林業の歩み」によれば、昭和29年当時、参道のスギ並木は51本成立、目通り周囲の最大690cm、樹高45mに達していたと記述している。昭和51年、特別保護樹林指定時は30本に減少。平成3年の19号台風によって大打撃をうけ、残存木は参道入口の鳥居周辺に6本、社殿周辺に6本が残っているだけである。残存木の目通り周囲の最大は400cm。スギの品種はアオスギ系のものが多いが、ホンスギやアヤスギも混じっており、かつ、大きさのまちまちで、再建当初のものに逐次補植していったものと思われる。
この並木スギは、日田林業地の挿しスギ元祖木としているが、浦津江社にもこのスギよりも古い年代のものが成立しており、宮園スギに限定するのは正しくない。
なお、県指定天然記念物には、社殿背後のモミとウラジロガシの社叢が含まれる。
18.津江神社大杉の森
18.津江神社大杉の森
所在地 : 日田市上津江町大字川原
所有者 : 津江神社
来 歴
日田市上津江町大字川原字浦、老松天満社の社叢。境内約500m2。
指定調書(S51)によれば、当時スギの巨木19本をはじめ、ウラジロガシ・カエデ等の喬木類61種、イノコズチ・ジャノヒゲ等の下草類25種、カタヒバ・ヘラシダ等の蘇苔類・羊歯類9種の植物群が記録されている。
平成3年の19号台風によりスギ巨木11本の風倒を生じ、現在8本が残っている。風倒木のうち最大のものは(第二代ご神木)、目通り周囲650cm、年輪数500余を数えている。残存木の最大は470cmで第三代ご神木に指定されている。初代ご神木は、昭和45年、落雷による裂傷で伐採した。根回り周囲10数mで、後継ご神木よりはるかに大きかったという。根株を切り取りご神像を刻み、「杉の神」として神殿に安置して祀ってある。杉神社と号する所以である。
当社は元禄16年(1703)、領主合谷又兵衛によって現在地に創建されたというが、一説には、日隈四郎藤原信弘が、治安3年(1023)に、天神七代、地神五代を歓請したとあり、この方が社叢の変遷史に相応しい。津江八社の一つで、鎌倉期の勧請というのが通説である。(渡辺澄夫-二豊荘園の研究-)
この地方では、往時英彦山代参講が盛んで、「半参宮」と呼ばれ英彦山信仰との結びつきが深い。津江八社の「宮杉」も英彦山行者杉の流れを汲むものであろう。
19.法華寺のツバキ林
来 歴
中津市大字福島字小平、放光山法華寺の境内林。面積0.18ha。
東西に鯉のぼり状にくぎられ、鰓のあたりに本堂が、尾鰭のあたりに仏殿が建っている。頭から尾鰭のあたりまでは道路に接し、尻鰭から尾鰭にかけては、畦道を隔てて水田に接している。背の部分から上は雑木林である。
ヤブツバキの群叢はほぼ純林の型で、第一の群落は19本、第二群落は41本で構成されている。平均目通り直径は、第一群落は25cm、第二群落は22cmで、大径木は本堂付近に集中している。寺は現在無住寺で小平区長が管理者となっている。「三保の自然と文化を守る会」も掲示板を建てて保護を訴えている。
寺の縁起は不詳。ヤブツバキの成林の経緯も明らかではないが、おそらく境内の美化とツバキ実の採集を目的として造成したのではなかろうか。住職の在寺中は、毎年椿油一斗余を搾油して、寺の大きな財源になっていたという。いまは樹実を集める人もいないが、冬から春にかけての開花期には地域の人は勿論、近在の住民に花の名所として親しまれている。
境内の三分の二を占める寺庭はいたずらに雑草の繁るにまかせているが、全面にツバキを植えて花の名所として後世に残したいというのが、小平区民、三保の自然と文化を守る会の共通の願いである。
20.雲八幡神社の森
20.雲八幡神社の森
所在地 : 中津市耶馬渓町大字宮園407
所有者 : 雲八幡神社
来 歴
中津市耶馬渓町大字宮園、雲八幡神社社叢。指定面積0.30ha。
本殿前にある大スギは、通称「千年スギ」といわれているが、樹木についての文献は残っておらず、600〜800年程度と思われる。神殿及びおいなり様の社に一対づつあり、人工的に植栽されたものと思われる。 宮司さんの話によると、追っ手に討ち滅ぼされた平家の落人の霊魂が河童となって災いをおこすため、八幡神の力を借り河童を封じるべく祀を建て御神木を植えた伝えられている。
21.真玉八幡神社の林
21.真玉八幡神社の林
所在地 : 豊後高田市西真玉
所有者 : 真玉八幡神社
来 歴
神域面積およそ3.6ha。そのうち樹林は3.1ha。
主林木は、イチイガシで、アラカシ、コジイ、タブノキなどを混成する。
植栽の由来については、拠るべき資料がないが、社庭周辺の単木的に配置された大木は社殿造営後の植栽と思われる。
祭神は、足仲彦命ほか2神。また、山積神社ほか4社が合祀されている。
神社の由来は、約1300年前までに遡る。養老4年(720)元正天皇の時代に、大隅日向両国の隼人が叛逆を企ててた。これに対し、朝廷は宇佐八幡宮に勅使を立て、これを討伐した。この時に、真玉庄の住人で大神源内というものが出陣して功を立てた。源内は陣中での夢で八幡宮を真玉庄に祭るべき旨の霊宣を受けた。凱旋の源内は、今の社地に霊璽を勧誘したというのがこの神社の由来である。