僕らは今を生きる
愛媛県 今治市立北郷中学校 3年
佐野 洸大郎(さの こうたろう)
去年の秋、僕の祖父は、アルツハイマー型認知症だとわかった。
80歳の祖父は、高齢者の運転免許認定講習に行き、実技試験は合格したが、
認知能力検査で不合格になった。
僕たち家族は、
年を取ったから物忘れがひどく
なったのだと思っていた。僕は、祖父自身もそう思っているだろうと思ってい
た。
軽い気持ちで病院に行ったが、
そこでアルツハイマー型認知症だと診断され
た。僕たちは、驚き困惑した。口には出さなかったが、祖父自身が一番ショック
を受けていたと思う。
それから生活は一変した。祖父は、病気の進行を遅らせる薬を飲むために、運
転免許証を返納した。
今までのように外出が自由にできなくなってしまった。僕の塾の送り迎えもできなくなり、僕は自転車で塾に行くようになった。
祖父は陶芸が趣味で、たくさんの作品を作り、たくさんの賞を取った。陶芸教
室では、先生として生徒に指導をしていた。しかし、教室に車で通えなくなり、
陶芸教室を辞めてしまった。「家にある陶芸場でも創作活動ができるよ。
」と、
僕は明るく勧めてみたが、祖父は、陶芸場にも行かなくなった。毎日、寝て、起
きて、食べて、テレビの前に座って、また寝て、同じことを繰り返した。「外食
に行こう。
」と誘っても、行こうとしなかった。祖父の中で、何かが消えてしま
った。
両親が働いていたので、
僕は、
小さい頃からすぐ裏にある祖父母の家で過ごす
ことが多かった。祖父は、優しくおおらかで、僕の願いを何でも笑顔で聞いてく
れた。しかし、今の祖父は、何度も同じ話を繰り返す。昔話ばかりをする。僕は
思わず「さっきもその話聞いた。
」と迷惑そうに言ってしまった。祖父が認知症
であると分かっているのに、
祖父と話をするのが負担で冷たく接してしまう。それを見た母が「おじいちゃんは、今を生きる人になったんだよ。
」と言って笑っ
た。祖父は、数分前の過去を忘れて、今だけを生きている。そう思うと少し笑え
て、それはそれでうらやましいとさえ思えた。祖母と口論になっても、その数分
後には忘れている。覚えていると腹が立つが、覚えていないから仕方がないと、
第 42 回全国中学生人権作文コンテスト
法務事務次官 賞
祖母は苦笑いしながら、祖父にいつも寄り添っている。
ある時、祖父は僕たち家族に言った。
「自分は、アルツハイマー型認知症だか
ら、いつか皆のことを忘れてしまうかもしれない。もしも、それで皆を困らせる
時が来たら、自分にかまわず、病院に放り込んでくれ。
」と。その言葉を聞いて、
僕は胸が締め付けられた。家族と別れなければならない時が来ることを覚悟し
ている。その気持ちを考えると、とても切なく、悲しかった。僕たちは祖父の考
えを知り、今後のことを家族で話し合い、協力して祖父を支えていこうと決め
た。
中学校の総合的な学習の時間に福祉体験学習が行われた。
僕は
『老人ホームで
の過ごし方』という講座を選んだ。少しでも、祖父のことを知りたいと思ったか
らだ。
そこで認知症の人の気持ちや接し方について学習した。
認知症になった人
は、
自分が認知症かもしれないと自覚していて、
自分が以前と違っているのが分
かると不安になり、精神的にも不安定になる。それが、いら立ちや怒りとなって
表れる。祖父が以前より怒りっぽくなったのは、これが原因だった。認知症の人
は、昔のことをよく覚えているが、最近のことを忘れてしまい、理解ができない
ので戸惑いや疎外感を感じる。優しく「違うよ。
」と声を掛けられても、「自分
は間違っていない。
」とプライドが傷つく。そのような時は、違う話題に変えて
気を逸らすと良いなど、いろいろな場面に応じた高齢者への接し方を学ぶこと
ができた。
福祉体験学習での学習を生かし、家族で祖父への関わり方を工夫するように
した。ほんの少し変えただけで、祖父も他の家族も笑顔で過ごす時間が増えた。
あまり外出をしなくなった祖父が、6月にあった市総合体育大会の水泳競技の
会場に、
祖母と一緒に僕の応援に来てくれた。
その夜、
僕の県大会出場を祝って、
家族全員で外食を楽しむこともできた。
今、日本では高齢化が進み、様々な問題が起こっている。祖父との生活を通し
て、
安心してみんなが暮らせる社会を作るためには、
正しい知識を身に付けて相
手を理解することが必要だと思った。そして、一人で抱え込むのではなく、家族
や社会で協力し合うことの重要性を痛感した。
これから、祖父の認知症は進行していくだろう。それは、悲しく辛いことでは
あるけれど、受け入れなければならない。今後のことを想像し準備しながら、今
を精一杯生きる祖父の話を笑顔で聞き、祖父との時間を大切に過ごしていきた
い。