法史見聞帖
黒駒勝蔵一件 下
池田勝馬(黒駒勝蔵)を斬罪とする司法省指令(『諸県口書 明治四年』より) 山崎刑場跡(山梨県甲府市酒折)
法務史料
展示室だより
第 52 号
(令和2年9月)
耳助
博徒から一転、
官軍
「隊長」
に成り上
がった黒駒勝蔵は、
天保3年
(1832)、甲州上黒駒村の豪農、
小池嘉兵衛の四
男として生れました。
安政3年
(1856)
ころ親元を出奔し、近傍の竹居村の
博徒中村甚 兵 衛の 子分になるので
すが、
その数年前、遠島の刑を受け
新島に流されていた甚兵衛の実弟安
五 郎
(竹居 安 五 郎)が、
ペリー来 航
の混乱に乗じて島抜けし、
あろうこ
とか竹居村に舞い戻っていました。
勝蔵は、
安五郎の弟分として、
敵対す
る博徒と抗争を繰り返します。文久
年間には、
勝蔵が支配方の取締りを
逃れて駿河に潜伏する間に、敵対し
ていた博徒らが関東取締出役の手先
となり、
安五郎を計略に掛けて捕縛、
後に安五郎は牢死します。
元治元年
(1864)、安五郎の仇を
討つため、
勝蔵は子分を纏めて甲州に
戻り、
凄惨な殺し合いの果てに仇の
一人を含む数人を殺害しました。
また
この頃、
勝蔵が攘夷派浪士達と気脈
を通じ、
甲府城攻撃を企んでいると
いう風聞が、
幕府にもたらされてい
ます。
やがて甲州で身を隠すことを諦め
た勝蔵は伊勢から大坂方面へと逃走
し、
行方をくらまします。
次に歴史の
表舞台に現れたとき、
勝蔵は赤報隊
に加わり、
徴兵七番隊、
第一遊軍隊の
隊士へと身分を変え、池田勝馬と名
乗りました。
明治3年
(1870)
8月、
勝蔵は甲
州黒川金山の試掘を行うため、
遊軍
隊から休暇をもらって帰京しますが、
金を掘り当てることができず、
休暇期
間を過ぎても帰還しなかったため脱
走とみなされました。
4年1月25日、
湯治に行った伊豆で捕らえられた勝
蔵改め池田勝馬は甲府に送られ、脱
走と幕府時代の殺人の罪により、司法省の指令を受けて10月14日、甲府山崎の刑場で斬首されました。
なお
勝蔵の郷里には4年2月7日を命日と
する紙位牌が伝わり、
明治3年1月7日
に病死したとする顕彰碑も現存します。
勝蔵が捕らえられるより先、
第一遊
軍隊は解隊となりました。
徴兵制によ
る国民軍編成が緒に就こうという時
でしたが、
解隊の理由に、
徴募の際の
人 選が 精密でなく
「この先、
とても
規矩に叶候事には至り難く」
とあり
ます。勝蔵もまた、王師の規矩に叶
う も の で は な か った の で しょう 。
( 二・完 )
CASE 03
耳助
事件簿
書生
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学名誉教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 髙田久実
菊池 武夫 1854−1912 年
『法典實施延期意見』
江木衷ほか(明治 25 年 4 月)
法務図書館の
書庫より
法務図書館の
書庫より
中央大学の初代学長である菊池武夫は、
嘉永7年
(1854)
に南部藩士菊池長閑の長男として盛岡で誕生しました。明治
3 年(1870)に大 学南 校に入学しましたが、前 回このコー
ナーに登場した矢代操などとは違い自費通学生であったため、
授業料などで困窮しながら勉強していたと言われています。
明治8 年 、菊池は文部省の第1回貸 費 留学生としてボスト
ン大 学 法 学 校に留学しました。この 時、鳩 山和 夫(コロンビ
ア大学→イェール大学)
・小村寿太郎
(ハーバード大学)
・斎藤
修一郎(ボストン大学)の3名も、法律学を学ぶために留学し
ました。菊池・小 村・斎藤は、
3人ともボストンで暮らしてお
り、親しく交 流したようです。菊池は明治10年にボストン大
学法学校を卒業し、
小 村・斎藤とともに学問的なレベ ルの高
いイギリスへの 転 学を 希望していましたが 認 められず、ボス
トン 大 学 法 学 校 の 卒 業 科で いくつか の 科目を 履 修しつ つ、
裁 判 所 や 弁 護 士 事 務 所で 実 習しました 。
明治13年に帰国した菊池は、
司法省雇となり民事局で勤務
することになりました。明治17年に司法省少書記官に補され、
明治19年に司法大臣秘書官に抜擢された後、
明治24年には司
法省民事局長に就任しました。司法省在職中は代言人試験委
員・判 事 登 用 試 験 委 員など 多くの 委 員を 務 め るなど 活 躍し
明治22年
(1889)
から25年にかけて生じた
「民法典論争」
は、
これまでの展示室だよりや特別展示でも詳しく紹介しています
が、
日本近代法史の話題として広く知られている出来事です。
これ
は、
明治23年に公布され、
明治26年1月1日からの施行を予定
していた
「旧民法」
が拠って立つ、
基礎的な理念に関する問題点
が指摘され、施行の是非についてなされた議論でした。
最終的
に旧民法は、
帝国議会において
「民法及商法施行延期法律」
が成
立したことにより、
施行されないこととなりました。
この論争では、
旧民法の施行を延期する立場(延期派)
と、
計画通りに実施する立場
(断行派)
に分かれ、
朝野を巻き込む大
きな議論が繰り広げられました。
そして今回紹介する『法典實
施延期意見』は、
明治25年4月に延期派より発表された論説
です。江木衷、
高橋健三、
穗積八束、
松野貞一郎、
土方寧、
伊藤
悌治、
朝倉外茂鐵、
中橋德五郎、
奥田義人、
山田喜之助、
岡村輝
彦の連名で発表されました。本書には参考書が付されており、
延期の理由が7点
(倫常を壊乱す、憲法上の命令権を減縮す、
予算の原理に違う、
国家思想を欠く、
社会の経済を撹乱す、
税法
の根原を変動す、
威力を以て学理を強行す)
挙げられています。
この意見書は翌5月25日、
中央大学の前身である東京法学院の
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学名誉教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 髙田久実
前号掲載の「黒駒勝蔵一件 上」に誤植がございました。読者の皆様には謹んでお詫びを申し上げますとともに、次のように修正
させていただきます。同記事左段 9 行目、13 行目、中段 1 行目の「相良」は全て「相楽」が正しい表記です。
機関誌『法学新報』第14号に社説として掲載されます。
断行派
も、
明治大学の前身である明治法律学校の機関誌『法治協会雑
誌』号外に
「法典実施断行意見」
という論説を発表するなどし
て応戦しており、
論戦は苛烈を極めたことが窺われます。
法務図書館の所蔵する
『法典實施延期意見』は、
4月に司法
省官僚に配布されたものと推測できます。
巻末に
「法典実施延
期意見書配付ノ扣
(ひかえ)」と記した用紙が付されており、
そこ
に列挙された名前から、
この資料が、
『仏蘭西法律書』の翻訳
者で旧民法編纂に携わった箕作麟祥にも配られたことがわか
ります。
ましたが、
司法省民事局長となって3ヶ月ほどで辞職し、
代言人(弁護士)
となりました。
この辞職の理由は、
菊池が司法省官
僚の立 場でありながら、英米法を学んだ者として「民法 典論
争」で 延 期派に属したことと関 係すると言われています。
司法省在職中の明治15年には東京大学法学部の講師兼任
となり、
また明治18年の英吉利法律学校(後の東京法学院・
中央 大学)創設にも加わりました。英吉利法律学校は英米法
を教授し、
また「実地応用」を掲げ ていたので、アメリカで学
んだ菊池にとっては、
自らの 経 験を生かす最適の場であった
ものと考えられます。菊池は明治24 年には東 京法学院の院
長となり、明 治 4 5 年に亡くなるまで、院 長および 中 央 大 学
の 学 長 を 務めました 。
菊池は明治21年には日本初の法学博士を授与され 、明治
24年から貴族院議員に選出され、
明治26年には法典調査会
の 主 査 委 員 にも なって い ま す。さらに は 、東 京 弁 護 士 会 の
会長を 務めるなど、
その業 績は多岐に渡るものでした。この
ような菊池の活躍には、
若き日の留学経験で培った実務重視
の姿勢が 強く反映されていました。
その家 庭 生 活も、家 族で
長期の避暑旅行に出かけるなど、西洋化された明るく賑やか
なものであったと言われています。
後ろから2行目
「箕作麟祥」とある
標題紙
近代司法の担い手たち

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