法史見聞帖
黒駒勝蔵一件 上
『元治甲子官武通紀』より探索書(左頁にみえる「勝次郎」が勝蔵)
勝蔵の碑
(山梨県笛吹市御坂町上黒駒 筆者撮影)
法務史料
展示室だより
第 51 号
(令和2年3月)
耳助
慶應3年
(1867)
の暮れ、
旧幕府
を挑発するため、
西郷隆盛の指示を
受けた薩摩藩士や浪人らが、
江戸で
放火や暴行を繰り返しました。
この
狼藉の中心人物が相楽総三という下
総の郷士です。業を煮やした旧幕府
は薩摩藩邸を焼き討ちし、
歴史は西
郷の思惑通りに進んでいきますが、
相良らは薩摩藩の船で西に逃れ、戊辰戦争が始まると近江で「赤報隊」
なる部隊を結成し、
尊攘派公家など
と連携しつつ、
官軍先鋒と称して東
に進み始めました。
相良は東山道各
地の旧幕府直轄領を新政府に帰順さ
せることを企て、
「年貢半減」
を触れ
るなどして進軍し、
ある程度の成果
を上げますが、
各地で強盗などを行
う者があって悪評が立ち、
京都への
帰還を命ぜられます。
この命令を無
視して進んだ相良ら赤報隊の一部は、
信州下諏訪で偽官軍として討伐され
ました。
わずかふた月足らずで歴史から消
えた赤報隊は、
身分族籍にかかわら
ず兵士を集めた、
非常に雑多な組織
でした。
そして今日、
赤報隊には少な
くとも二人の博徒、
しかもその根拠
地では名の知れた大物博徒が加わ
っていたことが分かっています。一
人は「岐阜の弥太郎」
こと水野弥三
郎で、三百人もの子分を赤報隊に送
り込んだとも伝えられる大親分です
が、
相楽らが誅されるより先、大垣
で捕らえられ獄中で自害します。そしてもう一人が、黒 駒の勝蔵、
後年
清 水の次 郎 長 のライバ ルとして知
ら れ る博 徒 で、
甲 州 を 縄 張りとし
殺人で手配された凶状持ち、更には
尊攘派と交わり蜂起を企てたとの風
聞まである男です。
勝蔵は赤報隊先鋒と称していまし
たが、
相楽と別れて京に戻ったため
処罰を受けることなく、三月には赤
報隊を改編した「徴兵七番隊」
に加
わります。
その後は、
八月十八日の政
変で長州に落ち、
維新で許されて帰京
した四条隆謌の
「御親兵隊長」
に任ぜ
られ、
四条と共に磐城平、
仙台と転戦
しました。
更に勝蔵は、
四条の配下と
して明治天皇還幸に供奉するという
大任を務め、明治2年、
徴兵七番隊
改め第一遊軍隊士として再び天皇の
東京行幸に供奉、
東京で宮城警備の
任につきました。
次号の本欄では、
勝蔵の悪事と処
断に触れることにします。
(未完)
CASE 02
耳助
事件簿
書生