第48号(平成30年11月)
1 増田甲斎の墓
3 高輪消防署二本榎出張所
4 高輪原古戦場
2 円真寺
東京の街と歴史に詳しい玉手ねこ
が、
法史学者のハカセと一緒に、
東京
の史跡を案内します。第17回目は、
高輪を歩きます。
ここのお寺には、幕末にロシアに密航した増田甲斎
のお墓があるよ。
掛川藩を脱藩した甲斎は少し変わった人生を歩ん
でのう、
ロシアでは通訳官となり、
『和魯通言比考』
という日露辞書の編纂もおこなっておるぞ。 そういえば前に散歩した東禅寺とか、高輪には幕末
に外国公館がたくさんあったね。ロシアもこの辺り
にあったの?
いや、
ロシアは江戸には使節を常駐させてはいな
かったのじゃ。
海に近く規模の大きな寺院があった
高輪は、外国要人を多数滞在させることに適していたのだが、
ロシアは自国の利害に関わる北海道の箱館に本拠を置いたの
じゃ。
ここは古戦場だったと地図にあるよ。
高縄原の合戦じゃな。戦国時代、武蔵へと勢力拡大
を狙っていた相模の後北条氏は、
大永4年
(1524)、
江戸城を支配していた上杉軍とこの場所で衝突したと考えら
れておる。江戸城はその後、天正18年(1590)に徳川家康
が入城するまで、後北条氏の支配下にあったのじゃ。
今は大きなホテルになっているね。あれは近代建
築かな。 片山東熊の設計による旧竹田宮邸じゃな。このあ
たりは乾燥した台地でのう、江戸時代には薩摩藩
の下屋敷、明治時代には後藤象二郎の屋敷や旧皇族の邸宅に
使用されていたのじゃ。 南無妙法蓮華経のお題目がみえるよ。 明治3年(1870)、
このお寺と隣にあった上行寺

「帰順部曲点検所」
という看板が掲げられた。
そこでは米沢藩士の雲井龍雄が、
戊辰戦争で官軍に抵抗した
者を帰順させるという名目で浪人たちを集めておった。
雲井龍雄って、法務史料展示室に事件記録が展示
されている人だね。
よく覚えているのう。雲井は表向き新政府の名
を借りて人員を集めていたが、挙兵の機会をう
かがっておった。 政府転覆の計画が明らかとなると、裁
判にかけられ、
「梟示」というさらし首の刑が言渡された
のじゃ。 趣のある建築がみえてきたよ。
東京都により保存されている消防署じゃな。昭和
8年(1933)竣工、第一次大戦後の近代的なド
イツ表現主義の様式によるぞ。
上 に あ る の は 火 の 見 櫓 かな。
昭和46年まで火災の見張りに使用されていたよう
じゃ。高い建物が少なかった当時が偲ばれるのう。JR山手線JR山手線
都営浅草線
都営浅草線桜田通り桜田通り東海道新幹線東海道新幹線横須賀線横須賀線
品川
品川
高輪台
高輪台
泉岳寺
泉岳寺
白金台
白金台3421151
物流博物館
物流博物館
グランドプリンス
ホテル高輪
グランドプリンス
ホテル高輪
八芳園
八芳園
源昌寺
源昌寺
高野山東京別院
高野山東京別院
東禅寺
東禅寺
明治学院大学
明治学院大学
三田用水路
三田用水路
高輪公園
高輪公園
明治学院前418第一
京浜
第一
京浜
高輪警察署前
南北線
南北線
泉岳寺
泉岳寺
今から 70 年前の昭和 23 年
(1948)
には、
前回の本欄
で紹介した人権擁護委員制度の誕生に加えてもう一つ、
人権をめぐる大きな出来事がありました。
それは、
世界人
権宣言の採択です。
同宣言は昭和 23 年 12 月 10 日、
パリで開催されてい
た国際連合第 3 回総会において、
賛成 48 か国、
棄権 8 か
国、
反対 0 か国という表決のもと採択されました。
従来
の人権が国家単位で保障されるものであったのに対し、
同宣言は
「第 18 世紀以来の基本的人権の保障を,
国境を
越え,
人種の差別を超越して,
人類全体におしおよぼす」
(文部省大臣官房渉外ユネスコ課
『世界人権宣言』
(1950年)所収・尾高朝雄
「はしがき」)ことを目指した点で、人権のあゆみに一線を画したといえます。
その後わが国では、
昭和 25 年 12 月 4 日の
「読売新聞」が「きょう四日から十日までの一週間わが国では初めて
の"人権強調週間"が実施され、
法務府を主体に関係各省、
団体で人権擁護の盛り沢山な行事が全国的にくり展げら
れる」
と伝えるように、
毎年 12 月 10 日までの 1 週間を
「人権週間」
と定め、
期間中、
人権尊重思想の普及に向けた
さまざまな取り組みを行っています。
昭和 23 年
(1948)
12 月 10 日
世界人権宣言の採択
Q&A
今回は、
法務図書館が所蔵する
「米人ヒール建白并質問」
という題名で綴られた史料を繙きながら、
司法省のお雇い法律顧
問として活動したアメリカ人のヒルを通し、
明治初年期のわが国における外国法継受の可能性をお話しします。 法諺あれこれ
Q&A「米人ヒール建白并質問」
からひもとく明治初年期の外国法継受
「米人ヒール建白并質問」
からひもとく明治初年期の外国法継受
ヒルとは、
神奈川県御雇として活動したのち、
司法省のお
雇い法律顧問を務めたアメリカ人です。
明治 4 年
(1871)
にはアメリカ人が企てた贋札事件に対して行われた領事裁判で日
本側の代理人を務め、
同 5 年に起こったマリア・ルース事件では
神奈川県権令大江卓の補佐をしました。
その頃の神奈川では、
いわ
ゆる不平等条約に基づいて横浜が居留地とされていたこともあり、
これらのような外国に関する裁判が行われました。
その際に外国
との折衝を担うとともに、
外国法の知識を教えてくれる法律家と
して、
神奈川県がヒルを雇ったといわれています。
法務省所蔵の
「米人ヒール建白并質問」
という題名が付され
た史料には、
明治 7 年から同 9 年にかけてヒルが提出した意 司法省ではどのような活動をしたの?
上述した不平等条約の改正を目的とし、
明治政府は西洋を
参考としながら法制度の整備を進めていきました。
その
ようななか、
外国法の知識をわが国にもたらしてくれることを期
し、
司法省がお雇い法律顧問を雇用しました。
ヒルにも同様の期待
がかけられ、
司法省が契約を結んだと考えられています。
明治 6 年
1 月に当時の司法卿であった江藤新平の文書に
「訴訟法略則は、
玉乃
権大判事、
西権中判事、
亜人ヒールにて草案相立成稿相成候」
とあり、法案の起草などをヒルが行っていたことが窺えます。 なぜ司法省に雇われるようになったの?
その通りです。
司法省が最初に契約を結んだお雇い法律顧
問のブスケや、
法典編纂事業に大きな貢献を果たしたボア
ソナードはフランス人であり、
彼らはその母国の法を活かしながら、
わが国における法制度の形成に尽力したことは広く知られるところ
です。
そのようななか、
アメリカ人のヒルが司法省に雇われていたこ
とは、
わが国おける外国法の継受を考える際に、
重要な事実であると
いえるでしょう。
なぜなら、
特定の国における法制度を盲目的に模倣
するのではなく、
取捨選択を行いながら、
外国法を継受してわが国の
法制度を形作る自主的な姿勢を見出すことができるからです。
加えて、
ヒルが行ったことは、
わが国における法の歴史を考える
うえでも重要です。
前述した
「米人ヒール建白并質問」
におさめられる「日本ノ民法及ヒ習慣法ヲ編纂スルノ事業」
に関する意見書は、西洋法が入ってくる以前のわが国における法を記録することが提案
されていますが、
明治 10 年の
『民事慣例類集』
および同 13 年の
『全
国民事慣例類集』
は、
まさにこのヒルの建言を受けて作られた成果で
あり、
在来の法を改めて認識する契機になったといえるでしょう。 でも、
司法省ではフランス法を参照した法整備が進められて
いたのでは?
法諺あれこれ ヒルって誰?
見書や、
寄せられた質問に対するヒルの答議がおさめられています。
たとえば、
大審院の創設に伴って判決録の編纂が必要となることを述
べた意見書や、
「日本ノ民法及ヒ習慣法ヲ編纂スルノ事業」
に関する意
見書、
エジプトの領事裁判制度についての報告がまとめられており、
法制度の設計に際してヒルの意見が参考とされていたことがわかり
ます。
刑不上大夫(刑は大夫に上らず)
刑不上大夫(刑は大夫に上らず)
法諺あれこれ 『礼記』
曲礼にみえる言葉で、
「礼は庶人に下ら
ず」
と対になっています。
厳格な身分社会だった
古代の中国においては、
上位の大夫と下位の庶
人を律する規範は異なっていました。
庶人が違
法をなせば刑をもって罰せられましたが、
上位の
大夫は、
法律より高次の規範、
礼に従うべきもの
とされました。
礼には刑罰のような物理的強制は
なく、
専ら当人の徳性によって身を処さねばなり
ません。
この思想は日本にも定着し、
古代の律令
社会でも、
近世の武家社会でも、
身分あるものが
罪を犯せば、
自ら首服して罪を待つか、
自尽する
のが当然とされました。
では礼と法の関係は、
というと、
「礼は未然の前
に禁じ、
法は已然の後に禁ず」
(史記)
となります。
大夫たるもの、
そもそも罪を犯す前に
「なすべか
らず」
と自らを律することが当然であって、
法に
触れるなど、
大夫たるの資質を欠く甚だしいと言
えましょう。
大夫は、
明治の世で官員、
平等社会の
当世でも公務員と読み替えることが出来ます。
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学名誉教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 髙田久実

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