第47号(平成30年8月)
1 行人坂と大円寺
2 太鼓橋
3 茶屋坂
4 目黒競馬場の跡
東京の街と歴史に詳しい玉手ねこが、
法史学者のハカセと一緒に、東京の史跡
を案内します。第16回目は、目黒駅の
西側一帯を歩きます。
この急な坂道が行人坂だね。江戸時代の行人坂
火事で有名だよね。
明和9年(1772)に起こった火事じゃな。振袖
火事、車町火事と並ぶ、江戸三大大火の一つじゃ
よ。この坂の途中にある大円寺で火が出て、浅草や千住あ
たりまで燃え広がったそうじゃ。『明和九年江戸目黒行人
坂大火之図』という史料があって、詳しい被害状況を見る
ことができるぞ。出火の原因は僧の放火で、この僧は捕ら
えられて火刑にされたのじゃ。 明和9年の火事か。めいわくねん、迷惑ねん、迷惑年...
勘のいいねこじゃな。当時もそのように言う人がい
て、元号を明和から安永に改めた(明和9年が安永
元年)とも考えられておるぞ。
大円寺の門を入ると、
五百羅漢の石像があるね。
こ れ は 、 行 人 坂 火 事 の
犠 牲 者 を 供 養 す る た め
に作られたと言われている石像
群じゃよ。
ここは落語の
「目黒のさんま」
で有名な茶屋坂だね。
一度来てみたかったんだ。
ねこらしいことを言うのう。江戸幕府の3代将軍徳
川家光が目黒に鷹狩に来た際、このあたりにあった
茶屋に立ち寄っていたことが、
「目黒のさんま」の元になった
と言われているんじゃよ。家光はその茶屋の主人を気にいっ
て、
「爺」と呼んでいたそうじゃ。さっき話題になった『名所
江戸百景』にも、
「目黒爺々が茶屋」として描かれておるぞ。 その爺がさんまを出したのかな。
さんまを出したかどうかはわからんが、家光以降、
8代吉宗など将軍や大名も頻繁にこの茶屋に立ち
寄り、
その際に団子や田楽を出した記録は残っているそうじ
ゃよ。
あれ、こんなところに馬の像があるね。 この馬はトウルヌソルという昭和初期を代表する種
牡馬じゃよ。ここにはかつて目黒競馬場という、大
きな競馬場があったのじゃ。 競馬場? 今は全く面影がないね。
そんなことはないぞ。地図で見るとよくわかるが、
今もかつての競馬場のかたちに道がカーブしている
ところがあるんじゃよ。目黒競馬場は明治40年(1907)に
作られ、昭和7年(1932)には記
念すべき第1回東京優駿(日本ダー
ビー)もここで開かれたのじゃ。
その頃は、競馬人気も高まる一方
だったようじゃが、周辺の宅地化
で競馬場の拡張が困難じゃったよ
うで、昭和8年に廃止されて府中
に移って行くのじゃよ。 行人坂を下ったところに橋があるね。太鼓橋と言う
んだね。
明和6年(1769)に造られた時は石作りの橋で、 まさしく太鼓のような形をしていたそうじゃ。安政
3年(1856)から安政5年にかけて制作された歌川広重の
『名所江戸百景』にも、
「目黒太鼓橋夕日の岡」というタイト
ルで、このあたりの景色が描かれておるのじゃよ。 夕日の岡というのは、行人坂のあるこの高台のこ
とを言うのかな。 そのようじゃよ。
江戸時代末期に作られた
『江戸名所
図会』
を見ると、
昔は紅葉に夕日が映えて綺麗だった
が、
今は紅葉は少なくて名前だけが残るなどと書かれておるぞ。 317312312312432 11渋谷恵比寿
郵便局
渋谷恵比寿
郵便局
恵比寿ガーデン
プレイスタワー
恵比寿ガーデン
プレイスタワー
目黒学院中学高
目黒学院中学高
警視庁目黒警察署
警視庁目黒警察署
目黒区役所
目黒区役所
祐天寺
祐天寺
東京都庭園美術館
東京都庭園美術館
祐天寺
祐天寺
中目黒
中目黒
日出中高
日出中高
目黒寄生虫館
目黒寄生虫館
目黒不動尊 瀧泉寺
目黒不動尊 瀧泉寺
五百羅漢寺
五百羅漢寺
目黒病院
目黒病院
東京都目黒
区立油面公園
東京都目黒
区立油面公園
田道広場公園
田道広場公園
目黒川船入場
目黒川船入場
東京メトロ南北線
東京メトロ南北線東急東横線東急東横線JR山手線JR山手線
平成 30 年
(2018)
は、
人権擁護委員制度の誕生から数え
て 70 周年にあたります。
同制度は、
昭和 23 年 7 月 17 日に公布・施行された人権
擁護委員令によって誕生しました。
これは、
同じ年に組織
された法務庁
(のちの法務省につながる機関)
に、
人権擁護
を担当する人権擁護局が設置されたことに伴うもので、同局の地方での活動を補助する役割が期待されていました。
なお、
同制度は、
諸外国の制度を参照したものではなく、わが国独自のものであるとも指摘されています。
同法令において人権擁護委員は、
「人権侵犯事件の調査
及び情報の収集」、「人権擁護に関する啓もう及び宣伝」、「民間における人権擁護運動の助長」
などに関する事項を
取り扱うものとされました。
これらの事項はいずれも、現在の人権擁護委員の活動に通じるものとなっています。
当初は東京都に 11 人、
大阪府・北海道に 5 人、
その他府
県に 3 人と、
わずかな定数で発足し、
その職務も暗中模索
であった人権擁護委員制度ですが、
その後の法改正や人権
相談など地道な活動を通じて、
現在ではわが国に定着し、
約 14,000 人の委員を擁するまでに成長しています。
昭和 23 年
(1948)
7 月 17 日
人権擁護委員制度の誕生
Q&A
今回は、
法務図書館が所蔵する
『日本刑律論評全』
を通し、
明治初年期の法典編纂事業を介した外国
との関係を紹介します。 法諺あれこれ
Q&A『日本刑律論評全』
から見る国際社会上の旧刑法
『日本刑律論評全』
から見る国際社会上の旧刑法
日本で明治 15 年
(1882)
に施行された刑法典
(以下、
旧刑
法と呼称します)
に対する批評の翻訳です。
オリジナルのテ
キストは、
ハメルというオランダの法学者によって書かれました。
冒頭の
「例言」
によれば、
「国際法及ヒ各国法律評論」
に掲載された
論考を
「日本刑律論評全」
と題し、
明治 19 年に曲木如長と森順正
が翻訳したと説明されています。
ハメルは、
フランス法のみならず、
ドイツ法、
イギリス法など
との比較を行いながら、
旧刑法を考察しています。
そして、日本が
「本体ヲ損喪スルコトヲ欲セズ其国ノ旧慣、
其国特別ノ需要、
其国
ノ性質及ヒ其国固有ノ意向ヲ保持シテ失」
わずに、
旧刑法を編纂したと
評価しています。
「欧州諸国ノ刑法」
から
「模倣セント欲スル所ノ諸点ニ
就テハ各国ノ法律中ヨリ択取」
し、
一方で
「模倣スルコトヲ欲セザル諸
事」
については、
「欧州カ之ニ与フル所ノ富
(法律ヲ指ス)
ニ混加スルニ
其固有ノ富ヲ以テセン」
としたと述べており、
「欧州諸国ノ刑法」
をベー
スとして日本が自国に適合するアレンジを加えたと解していました。 ハメルは旧刑法をどのように評価したの?
ハメルは、
アムステルダム大学で刑法の教授として勤めて いましたが、
刑法学にとどまらず、
刑事政策や犯罪学、法制史、
憲法、
国際法、
比較法に関する著作も執筆し、
幅広い問題関
心をもって研究に臨んでいました。
そのような視野のもと、
「欧
州諸国」
の刑法典が日本へいかに伝わったのかを考察するため
に、
筆を執ったといえましょう。
彼は、
日本が旧刑法を定めたこ
とにより、
「日本ヲ親子兄弟概子一処ニ在リテ生長セシ一大家族
ニ喩ヘハ之ヲ幼時ハ外ニ在リテ養育セラレ年齢稍々長スルニ及
ンテ家族ト同居スル一幼童ト看做ス」
と述べています。
すなわち、
「欧州諸国」
がその歴史や文化を共有しながら歩んできたことか
ら、
「欧州諸国ノ刑法、
治罪法カ甚タ相類似」
しているが、
そのよう
ななかで
「亜細亜中ノ一国」
である日本が
「欧州諸国ノ刑法」
を参
照して旧刑法を制定したことに関心を抱いたのです。 ハメルはどうして旧刑法の批評を書いたの?
広く知られているように、
明治政府は不平等条約を改正す
るため、
西洋諸国と肩を並べることを目指し、
その手段とし
て、
西洋諸国を参照しながら法制度の整備を進めていきました。ハメルも
「抑々日本外交政略ノ最終ノ目的」
とは
「全ク外国ノ干渉ヲ脱
シ、
文明諸国ト平等ニ進歩スルノ権利ヲ獲」
ることとしたうえで、
「欧州人ト交際スルヲ欲スルニ至リ欧州ノ法律制度ヲ研究シ之ヲ自
国ニ採用セント欲」
したと説明しています。
明治期におけるわが国
の法典編纂は、
法制度の西洋化を象徴する事業として位置づけられ
ますが、
その最初の成果が旧刑法です。
日本人としては、
自分たちが
作り上げた最初の西洋的な法典を、
西洋諸国がどのように見るかは
重要な関心事であったといえるでしょう。
だからこそ、
ハメルの記
事をいわば
「逆輸入」
したのではないでしょうか。
実際のところ、
「日
本刑律論評全」
の他にも、
旧刑法に対するハメルの批評は邦訳され
ており、
日本人たちの関心の高さを窺えます。 なぜ日本人たちはハメルの批評を日本語に訳したの?
法諺あれこれ 「日本刑律論評全」
って?
くさづとに国傾く
くさづとに国傾く
法諺あれこれ
くさづとは
「苞苴」
と書き、
元々は包んだ食べ物
や土産物でしたが、
やがて賄賂を意味するように
なりました。
江戸の昔は
「分限」
を重んじ、
それ相
応の音信贈答は社会慣習として受け入れられて
いましたが、
分を越えて華美にわたれば咎めを受
けますし、
賄賂に及んでは厳罰を免れません。汚職の噂の絶えなかった勘定奉行荻原重秀を追っ
たことでも知られる新井白石は、
武家諸法度宝永
令を起草し、
「邪路を開きて正道を害す」
と、
賄賂
が国を傾ける元凶であると喝破しています。
目を中国に転じますと、
「一代官となれば三代
窮せず」、「廉吏も久々ならば更に富む」
といい、
官吏が何よりも利を得ると見られていました。清廉な役人であっても長く役にあれば富むという
のですから、
貪婪なものが官職を得れば、
それこ
そ何代も困らぬ程の蓄財をなしたことでしょう。
彼の大清帝国を傾けたのも苞苴です。
江戸が終わって今年で 150 年。
遺憾ながら、国を傾けんとするものは跡を絶ちません。
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学名誉教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 髙田久実

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