法史の玉手箱
猫と博士の史跡散歩
東京の街と歴史に詳しい玉手ねこが、
法史学者のハカセと一緒に、東京の史
跡を案内します。第12回目は、港区
の芝から三田までを歩きます。
ハカセ 玉手ねこ
法史の玉手箱
法務史料展示室だより
第 43 号
法務史料展示室は、現在法務省が所蔵する史
料を閲覧に供し、わが国の法や司法制度への理
解を広めていただく場です。展示室への興味を
より強くもっていただけたらという気持ちをこ
めて、展示室だよりを発信しています。
猫と博士の史跡散歩
ハカセ 玉手ねこ
幕末の江戸城総攻撃の直前、
慶應 4 年
(1868)3 月
14 日に、
西郷隆盛と勝海舟が会見したのがここだよ。 ここには薩摩藩の蔵屋敷があったのじゃ。
実質的に明治
新政府軍の指揮を取っていた西郷隆盛と、幕府陸軍総裁
の勝海舟が、
3月13日に高輪の薩摩藩邸で、翌 14 日にここで会見
し、江戸城の開城や兵器の引き渡し、将軍徳川慶喜の水戸謹慎な
どと引き換えに、江戸城への総攻撃は中止されたのじゃよ。
この碑の下にも、
二人が話しあうレリーフがあるね。こ
の二人のおかげで、
江戸の町は戦火から守られたんだね。
この会談は二人きりで話をしたように描かれることが多
いのじゃが、実際には新政府・幕府の両方から、複数の
同席者があったと見られておるのじゃよ。
ここは、
江戸時代の三河国岡崎藩主、
水野監物忠之の屋
敷跡だよ。
今も石灯籠が残ってるね。
水野忠之は岡崎藩の第 4 代藩主で、
江戸幕府の老中と
して将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた人物じゃ。
水野忠之は、
赤穂浪士の討ち入りのドラマにも出て
きたような...。
相変わらず、
こたつで丸くなってテレビばかり見てい
るのじゃろう。
でもその通りじゃよ。
元禄 15 年
(1702)
12 月に起きた赤穂事件のあと、
吉良邸に討入った 47 人のう
ち 9 人が、
この水野忠之の屋敷に預けられ、
切腹するのじゃ。当時、
赤穂浪士を預けられた大名の家は 4 家あったそうじゃが、水野忠之と肥後国熊本藩主細川綱利の屋敷では、
浪士たちの扱い
が丁寧で、
「細川の水の流れは清けれど、
ただ大海の沖ぞ濁れる」
などと詠まれたそうじゃよ。 「大海」
というのは長門国長府藩主毛利甲斐守綱元、 「沖」
というのは伊予国松山藩主松平隠岐守定直のこ
とだね。
2 江戸開城西郷南洲勝海舟会見之地碑
1 水野監物邸跡
4 綱坂
3 元和キリシタン遺跡の標柱
けんもつ
か い
お き 301301305415都営三田線都営三田線都営三田線都営三田線横須賀線横須賀線
横須賀線
横須賀線
第一京浜
第一京浜横須賀線横須賀線山手線山手線1511130
日の出
日の出
芝浦ふ頭
芝浦ふ頭
三田
三田
芝公園
芝公園
赤羽橋
赤羽橋
田町
田町
メルパルクホール
メルパルクホール
国際医療福祉
大学三田病院
国際医療福祉
大学三田病院
在日イタリア大使館
在日イタリア大使館
東京工業大附
科学技術高
東京工業大附
科学技術高
東京都済生会
中央病院
東京都済生会
中央病院東海道新幹線東海道新幹線὇␾ᥝ㣟ಭ浜松町
浜松町首都高速1号羽田線首都高速1号羽田線
首都 高速2号目黒線首都高速2号目黒線1234
ここは綺麗に整備されてるね、
広場の階段を上った先
に標柱が見える。
将軍徳川家光の命令で、
元和 9 年
(1623)
10 月に、キ リスト教徒 50 人の火刑が行われたのじゃ。
標柱はそ
れを示すものじゃよ。
寛永 15 年
(1638)
にも多くのキリスト
教徒がここで処刑されたそうじゃよ。 なぜこの場所で処刑されたの。 歩いてくる時に、
「札の辻」
という
交差点があったじゃろう。
「札の辻」
というのは高札場のことなんじゃが、
ここの
「札の辻」
には元和2年に芝口門という門が建てられて、
東海道
を歩いてきた人たちにとって、
江戸への正面入り口になったの
じゃ。
つまり、
り、
人通りの激しいこの場所で、
見せしめの意味
をこめて処刑されたと考えられておるのじゃよ。 ここは雰囲気の良い坂道だね。 綱坂というのじゃよ。
「綱」
とい
うのは、
このあたりが平安中期
の武将渡辺綱の出生地であったという伝説にちなむのじゃ。
坂の東側は慶應義塾大学だね。
慶應義塾大学のキャンパスの中にも、
三田演説館など
の近代の史跡があるのじゃよ。
演説館は明治 8 年
(1875)
に福澤諭吉らが作った、
日本で最初の演説会堂じゃ。
「演
説」
という言葉は、
福澤が英語の speech を翻訳した言葉なんじゃよ。
坂を上ったところにもすごい建物がある!
これはお雇い外国人のジョサイア・コンドルが設計 した、
綱町三井倶楽部本館じゃよ。
大正 2 年
(1913 年)
に三井家が賓客接待用に作ったものじゃ。
暦のなかの法
今年、
平成 29 年
(2017)
は、
日本国憲法が施行されてから
70 年という節目にあたります。
現在を生きる私たちには自
明のものとなっている象徴天皇制や戦争の放棄、
これらの理
念を国民が初めて耳にしたのは、
昭和 21 年 3 月 6 日に政府
から発表された
「憲法改正草案要綱」
を通じてのことでした。
同要綱は翌日の新聞紙面に掲載され、
これによって国民は、
新たな時代の訪れを知ったのです。
そのたった 1 か月前、
2 月 1 日には、
政府内部で作成され
ていた
「憲法問題調査委員会試案」
を毎日新聞がスクープし
ますが、
そこでは君主主権の維持などが予定されていました
ので、
わずかの間に劇的な転換があったことになります。
転換の背景には、
当時日本を占領していた連合国最高総司
令部の意向がありました。
「憲法問題調査委員会試案」
を目に
した総司令部は、
その内容が不十分であるとして自らの手で
草案作成に取りかかり、
約 10 日間で書き上げます。
これが
日本政府に手交され、
「憲法改正草案要綱」
へとつながったので
す。
こうして、
総司令部の深い関与のもと、
日本国憲法とその諸
原則は形作られたのでした。
昭和 21 年
(1946)
3 月 6 日
憲法改正草案要綱の発表
せっし
Q&A
法務図書館所蔵の
『仏国刑法会議筆記』
を繙き、
フランス法からの影響を受けて編纂された明治 13 年
(1880)
公布
の刑法典
(以下、
旧刑法と呼称します)
について、
お雇い法律顧問のかかわり方に着目しながら、
編纂作業の様相を紹介 法諺あれこれ
『仏国刑法会議筆記』
にみる旧刑法の編纂とお雇い法律顧問
Q&A 『仏国刑法会議筆記』
にみる旧刑法の編纂とお雇い法律顧問
旧刑法は、
東アジアで最初の西洋近代的な法典として位置
づけられています。
以前にもご説明した通り、
明治政府が
西洋の法制度を参考に法整備を進めた過程は
「法の継受」
という現
象としても説明されますが、
その成果として最初にまとめられた
法典が旧刑法です。
その編纂作業にはフランス人のお雇い法律顧
問ボアソナードが自国の法を参照しながら編纂作業に関与したこ
とから、
フランス法が旧刑法の母法として理解されています。 旧刑法はフランス法の影響を受けているの?
残念ながら、
その答えを明記する史料は見当たりませんが、
近年ではむしろボアソナードが参加したこと自体がそもそ ボアソナードが最後の段階まで関与しなったのはなぜ?
旧刑法の編纂は、
大きく分けると 3 個の機関によって行わ
れました。
まず司法省で作業が着手され、
そこでまとめられ
た草案に太政官内の刑法草案審査局が修正を施し、
最後に元老院が
審議を行ったうえで、
公布に至りました。
ボアソナードは司法省の
編纂作業に参加し、
次のような流れで日本人編纂者と議論を重ねな
がら、
編纂作業を行いました。
まず、
ボアソナードがフランス語の
草案を作成します。
日本人側は同案の邦訳草案を用意し、
ボアソ
ナードはフランス語草案を、
日本人編纂者は日本語草案を手許に置
いて、
日本人通訳を介した議論を行います。
そして、
その議論を反映
した草案をボアソナードがフランス語でまとめ、
日本人がその翻訳
版を用意し、
それらについて再び検討するという手順が繰り返され
ました。
なお、
この時の議論は、
『日本刑法草案会議筆記』
という資
料におさめられ、
現在に伝わっています。 ボアソナードはどのように編纂作業へ参加したの?
旧刑法に対するボアソナードの貢献は計り知れません。
彼の
起案をもとにした審議を行うことにより、
高度に体系的かつ
抽象的な性格をもつ西洋の法典を、
迅速かつ効率的に継受することが可
能になりました。
彼が参加してから、
編纂作業が飛躍的に進んだことは
間違いありません。
ただ、
やはり、
未知の法を学び、
受容して編纂作業に
むかう日本人編纂者の存在も忘れてはなりません。
両者が揃うことに
よって、
東アジア最初の西洋近代法典が成立できたといえるでしょう。 では、
ボアソナードの参加はあまり意味がなかったの?
法諺あれこれ
もは予想外のことであったのではないかともいわれています。実は、
司法省における編纂の方法はボアソナードの参加によって途
中で大きく転換しました。
司法省では当初、
日本人のみの編纂作業
が目指されており、
同省の官吏で構成された明治 8 年 9 月設置の
刑法草案取調掛は総則部分のみの草案を作成して元老院に提出し
ました。
しかし、
同案の内容が不十分であるとして返却されたため、
作業の方法を見直す必要が生じ、
ボアソナードが実質的な編纂作業
に加えられたのです。
日本人編纂者のみで起草を行っている間に、
その参考とすべく、
ボアソナードが日本人編纂者たちにフランス
刑法を講じており、
このときの講義録が
『仏国刑法会議筆記』
です。
そもそも、
彼が来日するときの契約ではフランス法を日本人に教
えることが彼の任務とされていたことも留めるべきでしょう。
『仏国刑法会議筆記』
からは、
日本人編纂者たちがボアソナードへ
積極的に質問している様子が窺われます。
このように、
お雇い法律
顧問に依存し、
知識を一方的に紹介されるのではなく、
主体的に学
びながら編纂作業にむかう日本人編纂者の姿は、
ボアソナードが
旧刑法に関与した局面が限定されていることと矛盾しないといえ
るのではないでしょうか。 親の光は七ひかり
親の光は七ひかり
法諺あれこれ 「親の七光」
ともいい、
今日でも通用する諺です。
親の影響力で子が他者より優遇されるといった、
あまり望ましくないニュアンスで用いられる言
葉ですが、
律令が行われていた古代では、
現代と
は比較にならないほど親の出自、
身分が重要な意
味を持っていました。
養老令の継嗣令には、
有名な
「蔭位の制」
が定
められており、
皇族貴族の子は親の身分や位階に
従い、
本人の資質の如何を問わず位が与えられま
した。
例えば親王の子は従四位下、
五位以上の貴
族の子は、
従五位下から従八位下の位が無試験で
授けられましたし、
六位以下の貴族の子も、
試験
を受ければ皇族に近仕する役職などに任じられ
ました。
一般人が官途に進もうとしたら、
まず大
学寮で学び、
次いで国家試験に合格すると初めて
少初位下という最も低い位を与えられるわけで
すから、
親の光が破格の厚遇を約束してくれたと
言えましょう。
不正はいけませんが、
七つといわ
ずともせめて光のひとつくらい、
筆者も子に与え
たいと思うのですが...。
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学法学部教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 高田久実
<お詫びと訂正>
「法務史料展示室だより」第 42 号の一部に誤植がございました。読者の皆様には謹んでお詫びを申し上げますとともに、次のように修正させて
いただきます。
「暦のなかの法」の本文第 1 行目「頼道」は、正しくは「頼通」となります。

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