法史の玉手箱
猫と博士の史跡散歩
東京の街と歴史に詳しい玉手ねこが、法史
学者のハカセと一緒に、東京の史跡を案内し
ます。第 5 回目は、水道橋から飯田橋までを
歩いてみることにします。
1 藤田東湖護母致命の処
ハカセ 玉手ねこ
法史の玉手箱
法務史料展示室だより
第 36 号
法務史料展示室は、現在法務省が所蔵する史
料を閲覧に供し、わが国の法や司法制度への理
解を広めていただく場です。展示室への興味を
より強くもっていただけたらという気持ちをこ
めて、展示室だよりを発信しています。
三崎座は、
明治時代に三崎町にあった劇場
だよ。
三崎座は、
明治 24 年
(1891)
に開設され
た東京で唯一の女優劇場で、
震災後は神田
劇場と名前を変えて、
戦災で廃止になるまで続いた
のじゃ。
三崎町には、
三崎座の他に東京座、
川上座と
いう劇場もあって、
三崎三座と呼ばれたんじゃよ。
川上座ってことは、
女優の川上貞奴と関係
があるのかな。
よく気が付いたのう。
川上座は新派劇専門
の劇場で、
「オッペケペー節」
で有名な川上
音二郎が、
妻の貞奴とともに、
明治 29 年
(1896)
に設立したのじゃ。
ただし、
音二郎が衆議院議員選挙
に立候補して失敗したことなどによって、
2人は川
上座を人に譲って欧米興行に出発するのじゃよ。その興行は大成功し、
2人は各地で大喝采を浴びるこ
とになるのじゃ。
猫と博士の史跡散歩
4 泉鏡花旧居跡 北原白秋旧居跡
2 三崎座跡
ハカセ 玉手ねこ
ここは幕末の水戸藩士藤田東湖が亡くなっ
たところだよ。
東湖は水戸学の学者で、尊王攘夷の志士た
ちに大きな影響を与えた人物じゃ。彼は、
ペリー来航以来の社会の混乱の中で、日本人の伝統
的な精神である
「正気」
(忠君愛国の精神)
によって、
国家の独立を保つべきだと説いたのじゃよ。彼の
作った「正気歌」(「和文天祥正気歌」
)は、志士
たちに歌われ、士気を高めたそうじゃよ。
でも、彼は志半ばで、地震で亡くなって
しまったんでしょ。 そうじゃ。
安政2年
(1855)
に江戸を襲っ た大地震の時、このあたりにあった水戸
藩江戸上屋敷にいた彼は、母親を助けようとして、
崩れてきた鴨居の下敷きになり、亡くなったのじゃ。
かつてはここに、そのことを示す碑が建っていたの
じゃが、道路拡張の際に移されて、今は近くの小石
川後楽園の中で、見ることができるんじゃよ。
3 寒泉精舎跡
ここは、
江戸時代の儒学者岡田寒泉の塾があっ
たところだよ。
その塾の名前が寒泉精舎と言うんじゃ。
彼は、
柴野栗山・尾藤二州という儒学者とともに、
寛政の改革で老中松平定信に登用され、
「寛政の三博
士」
と呼ばれたんじゃよ。 このあたりは、
小説家泉鏡花が住んだところだよ。
今は東京理科大学の
キャンパスの一部になっているよ。
泉鏡花は、
明治32年
(1899)
に神楽坂の芸妓だったすずと親しくなり、
2人はこのあたりで同棲したのじゃ。
ところが、
鏡花の師であった尾崎
紅葉がこのことを激しく𠮟ったため、
一時期すずは鏡花のもとを去り、
尾崎紅葉
が亡くなった後に、
2人は正式に結婚するのじゃよ。
このできごとは、
鏡花の小説『婦系図』
でも描かれておる。
詩人の北原白秋もこのあたりに住んでいたんだよね。 そうじゃ。
白秋は鏡花よりも少し後、
明治
41年
(1908)
から42 年
(1909)
にかけ
て、
ここで過ごしたのじゃ。
このあたりは東京物理
学校
(現在の東京理科大学)
の裏側だったので、彼は
「物理学校裏」
という詩も残しているんじゃよ。
元素の名称や、
三角関数のサイン・コサインなどと
いう言葉がたくさん出てくる、
不思議な詩じゃよ。5Ǐ2神楽坂下
神楽坂下
神楽坂下
神楽坂下
白鳥橋
白鳥橋
安藤坂
安藤坂
牛天神下
牛天神下
牛天神下
牛天神下
牛天神下
牛天神下
牛天神下
小石川
運動場前
小石川
小石川
運動場前
飯田橋三丁目
飯田橋三丁目
飯田橋三丁目
飯田橋三丁目
飯田橋三丁目
後楽園駅前
後楽園駅前
後楽園
後楽園
三崎町二丁目
三崎町二丁目
三崎町二丁目
三崎町二丁目
三崎町二丁目
三崎町二丁目
壱岐坂下
壱岐坂下
壱岐坂下
壱岐坂下
壱岐坂下
後楽園
後楽園
東京都立文京盲学校
東京都立文京盲学校
飯田橋
飯田橋
飯田橋
飯田橋
飯田橋
飯田橋
飯田橋
東京理科大学
飯田橋
東京理科大学
飯田橋
飯田橋
ቮ⑄
日本歯科大学
東京短期大学
日本歯科大学
東京短期大学
暁星小
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ᎱIIIᑶᕭᅴ
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水道橋
水道橋
水道橋
水道橋
東京ドーム
東京ドーム
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日本大学
日本大学ǎ暦のなかの法
明治23年
(1890)
11月29日、
第一回帝国議会が開会しました。
この日から、
わが国における国会の歩みが始まります。
同日行われた開会式では勅語を賜り、
続いてこれに対する奉答
を行うか否か、
その起草方法等について審議が行われました。
議事録には、
議員が発言する合間の様々な音や声――
「左方ノ席
ニテがたがた音甚タシ」、「此ノ時四方囂然タリ」
など――が記
録されており、
熱気と喧騒に包まれる議場の様子をうかがうこ
とができます。
なお、
議場では、
現在の私たちには耳慣れない言葉も飛び交って
おり、
例えば発言への賛意を示す
「ひやひや」
(Hear!Hear!)
や、反対を表明する
「ノウノウ」
(No!No!)
といった、
外国語に由来する
掛け声がしばしば登場します。
これらの掛け声からは、
わが国が
議会制度を西洋に学んだ事実と、
議員たちが抱いていた議会政
治への憧れを汲み取ることができるでしょう。
明治 23 年
(1890)
11 月 29 日
第一回帝国議会開会
ごうぜん
Q&A
法務図書館には、
明治期以来の貴重な立法資料や図書が残されています。
そのなかから今回
は、
明治初期に活躍した御雇い法律顧問に関わる
「教師質問録」
をご紹介します。 法諺あれこれ
Q&A 明治初期における御雇い法律顧問の活動
明治初期における御雇い法律顧問の活動 「教師質問録」
には、
「ブスケ」と「ボアソナード」
という2 人の
名前が記されています。
ブスケとは、
フランスの治安裁判所
つきの弁護士として働いていたジョルジュ・ブスケというフランス
人で、
26 歳のときに来日しました。
また、
ボアソナードは、
フランス
の大学で教鞭をとっていた際に司法省の視察団に法学を教えたこと
をきっかけとして、
御雇い法律顧問となった人物です。
2 人とも、
司法
省法学校でフランス法を教えますが、
年齢も経歴も異なることから、
その教え方にも個性があったと伝えられています。
年齢も若く、
実務
家として働いていたブスケは、
「講義ノ事項ヲ予メ調査シ覚書ヲ作リ
テ講スル」
ので
「初学者ニモ解シ易」
いが、
ボアソナードは
「多年本国
ニテ教授タリシ経験アル上大家」
であるので
「初学ノ者ニハ了解シ
難」
かったといわれています。
また、
彼らには、
政府から高額な給料
や住む場所、
通訳の手配などといった手厚い待遇が提供されてお
り、
寄せられた期待の大きさをうかがうことができます 。
どんなことをしたの?
西洋諸国と対等な国家を建設することを目指した明治政
府は、
外国人を招き、
知識や技術を吸収することを試みま
した。
その中でも法律の分野で活躍した者を御雇い法律顧問と呼
びます。
明治初年の司法省では、
江藤新平のもとでフランスを参考
とした法典や法制度の構築が進められていました。
その一環とし
てフランスの法典が邦訳されていましたが、
辞書やフランス法の
知識がない中での作業は難航し、
翻訳をおこなっていた箕作麟祥
は、
渡仏して勉強することを願い出ます。
しかし、
事業を早く進展
させるためにも、
フランス語を解する数少ない人材がいなくなる
のは不便であると考えた江藤は、
箕作をフランスに送るのではな
く、
フランス人を日本に招へいしました。
これが司法省における御
雇い法律顧問の始まりです。 御雇い法律顧問とは?
どんな人がいたの?
御雇い法律顧問の活動を示す史料の 1 つとして、
「教師質
問録」
があります。
同史料には、
明治5年から10年ごろ
にかけての 司法省で御雇い法律顧問が行った説明や回答がまとめ
られており、
その内容は多岐にわたります。
フランスの法制度に対
する解説、
法典の紹介のみならず、
立法案やわが国における法制度
へのアドバイスなどがおさめられています。
たとえば、
司法省が運
法諺あれこれ
営する法学校を提案した建言書は、
のちに設立される司法省法学
校を考えるうえで興味深い素材です。
このように、
御雇い法律顧問
が新しい知識をもたらしてくれたとともに、
わが国の法制度を積
極的に考えていたことがわかります。 兄の物は猫の皿まで
兄の物は猫の皿まで
法諺あれこれ
長子単独相続が一般的だった時代のことわざで、
およそ財産価値のないものまでも長男が相続したこ
とを言い表しています。
例えば江戸の武家の場合、次男以下は、
運良く他家に婿入りできれば別段、
さもな
ければ生涯厄介者扱いでした。
猫の皿どころか、
竈の
灰すらもらえません。
稲作が長く国家経済の基幹であった我が国では、
農地、
特に田の広さは重要な価値に結びつきました。
ですから武家の領地にしても、
百姓の田畑にしても、
分割は生産力、
財力を減ずるのみであり、
鎌倉中期
以降は単独相続が一般的になります。
例えば江戸の
農村では、
年貢を負担する高請地が少ないと
「タカ
が知れた」
と低く見られますし、
分割相続で持高を
分ければ生産力が低下して、
やがて本百姓の身分を
保てなくなりますから、
「田分け」
は厳しく戒められ
ました。
家産を維持するためには、
無価値なものでも
全て長男に継がせる単独相続以外に方法はなかっ
たのです。
今日の均分相続は、
第二次大戦後、
民法
四、
五編の改正で導入されたもので、
当時は
「民法が
変り次男の気も変り」
と言われました。
発行:法務省大臣官房司法法制部 監修:慶應義塾大学法学部教授 霞信彦 製作スタッフ:原禎嗣 神野潔 兒玉圭司 三田奈穂 高田久実