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わたしの現在の専門は哲学ですが、もともとは同じ慶應義塾大学の法学部政治学科の出身です。大学院(文学研究科)から本学の哲学専攻に進んで今にいたります。専門領域を哲学へと変更した理由は、その極端さに惹かれたためです。哲学は、何につけても極端です。たとえば、学問を志す以上は、誰であれ懐疑的であることを求められるものです。世間の通説に対してであれ、学界の従来の共通見解に対してであれ、はては自分自身のこれまでの研究キャリアに対してであれ。ところが、ひとたび哲学者が懐疑を発動しようものなら、それはすべてを疑い尽くすまでとどまることがありません。神の存在はもとより、世界の存在、はては自分自身(わたしがわたし自身だと思っている統一的人格としてのこの人)さえも、哲学的懐疑の対象になります。なぜでしょうか。それは、哲学者が純粋に知りたいからです。ひとは普通、ある特定の目的・関心・動機があって、ある特定の情報を得ようとします。学者の場合も基本的には同じです。通常の学問というのは、「学問分野」や「学科」と訳される"discipline"という言葉が示しているように、目的や方法に規制された体系的な知識のことを指します。ところが哲学者は、すべてが本当のところどうなっているのかが純粋に知りたいのです。それが、哲学者が哲学者と呼ばれるゆえんです。なぜなら、われわれ日本人が「哲学者」と訳している言葉は、古代ギリシアで生まれたものですが、もともとそれは、「知に恋い焦がれる者」といったことを意味していたからです。この意味で、哲学は限界まで思考し尽くそうとする、極端な思考です。しかしそれは、哲学の求めているものが「極端」、すなわち、すべてのものの根元だったり、われわれ人間が知りうるものや思考しうるものの限界だったり、究極的な意味で「ある」「存在する」と言えるのは何か、ということだったりするためなのです。
わたしが現在専門的に研究しているのは、M・ハイデガーとL・ウィトゲンシュタインという、20世紀前半に活躍した哲学者です。なぜそんな昔の哲学者を研究しているのかと言えば、わたしの目から見ると、極端を売りにしている哲学者のなかでも彼らがきわめつきの極端だからです。前者は伝統的に「存在論」と呼ばれてきた分野で、後者は比較的新しい分野である「言語哲学」のフィールドで、とても極端なことを言っています。両人とも、そのあまりの極端さゆえに、哲学者・哲学研究者の中にも「アンチ」が多い。しかしわたしにはそこが魅力なのです。正確に言うと、わたしは彼らを「研究している」というよりは、彼らの極端な思考をモデルにして自分なりの極端な思考を紡ぎ出そうと日々四苦八苦している、といったところです。まだまだ、納得のゆく極端には達していませんが。
わたしは学部生時代にはじめて本格的に哲学の上述の「極端さ」に触れて、それまで自分が勉強してきたことがすべて一瞬で色褪せる経験をしました。今でも、何かにつけて極端な思考をしがちな若い人たちには、迷わず哲学に進むよう奨めます。本物の極端に触れて、自分の中途半端な極端さを自覚してほしいという思いが半分、せっかく極端な思考の素養があるのだから、できれば極端をちゃんと思考してほしいという願いが半分。他者とともに生きるひとが人生の中で求められることは、ほとんどの場合、極端ではなく「中庸」でしょう。あやまたず中庸を射貫くことができることこそが「徳」なのだと、アリストテレスも言っています。また、社会の中で何かしらの「プロ」として生きていかざるをえないわたしたちは、必然的に「専門化」の方向にむかって生きていくことにもなります。けれども、哲学専攻で求められる極端は、けっして専門化の極みのことではありません。究極の専門性は、哲学の求める根本性や根源性と同じではないからです。哲学を生業として生きていくごく少数の人を除けば、「極端の、極端な思考」は、文学部の学生のほとんどにとって、この時期にしか触れることのできないものです。しかし、その経験はきっと人生に重要な変化をもたらすに違いないとわたしは信じています。
※(注記)所属・職名等は取材時のものです。