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酋長の娘

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酋長の娘」(しゅうちょうのむすめ)は、日本の演歌師である石田一松作詞作曲による1930年(昭和5)年8月発売の流行歌 [出典 1] 。歌は大阪南地芸妓富田屋喜久治

概説

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約10万枚を売り上げ[4] 1929年に創立されたポリドール最初のヒットとなった[4] 。本曲は一般的な南洋植民地のイメージ形成に大きく与ったとされ[9] 教科書に書かれた従順な「君が代」を歌う幼い少女といった公式な南洋イメージを裏返した[9] 。自分の部族の踊りの慣習を日本人男性に倣わせる、自己主張の強い「わたしのラバさん」は、未開の首狩り族の娘として歌われる[9] 。「南洋」を象徴する本曲は「癒し」「自発的な日本化」と「恐怖」「日本人の南洋化」という相反する二重のイメージが結びついている[9] 1932年に日本で公開されたアメリカアニメーション映画ベティのバンブー小島』にも『酋長の娘』という邦題が付けられた[9]

ある時期まで宴会結婚披露宴などバカ騒ぎする際によく唄われ[10] 1970年代頃までは映画テレビ番組等でもよく使用されたが、「酋長」を始め、「色は黒いが南洋じゃ美人」「明日は嬉しい首の祭」「ラバさん」など、アブナイ歌詞が頻出する放送禁止歌の一つとされ[5] 、今日、流行歌として歌われることはもはやなく[2] 、映像作品でも使用されない。

楽曲の成立

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  • 森小弁モチーフにした作品という言説の中で戦後再生産された[2] 文化人類学者小松和彦は森のような外来者が現地社会で正統な「酋長」になることはあり得ないと指摘している[2]
  • 実業家・杉山隼人と酋長の娘ロサンとの恋物語を石田一松が歌にしたという説もある[3]
  • 原曲は1923年(大正12年)、旧制高知高等学校の記念祭に作られた「ダクダク踊り」(余田弦彦作詞)を盗作に近い形で世に出されたという論証もされる[出典 2] 昭和初期に関西で流行しだし、これに目をつけたポリドールが石田一松に改作させ、レコード化。前年創立されたポリドールの日本盤としては最初のヒット曲となった[12]
  • 作品発表当時、ミクロネシアは国際聯盟 委任統治領として当時の大日本帝国の支配下にあり「南洋群島」と呼ばれていた。1919年の南洋群島領有により日本国内で南進論がブームになった1920年代に入って、南洋(東南アジアおよびオセアニア島嶼部)の地名・風俗を歌詞に取り入れた大衆歌謡が登場するが、この作品はそのような歌曲の一つである[6]
  • この曲がヒットした1930年、10万枚前後のレコードを売り上げたのは「酋長の娘」のほか、「唐人お吉」「祇園小唄」「ザッツ・オーケー」「加茂川セレナーデ」「恋と花」「すみれの花咲く頃」などが挙げられる[出典 3]

カバー

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エピソード

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  • 2012年から2015年まで在マーシャル日本国大使を務めた安細和彦は、同国大統領クリストファー・ロヤックや大統領補佐大臣、外務大臣等を務めたデブルム大臣(Hon. Tony deBrum)とも「酋長の娘」を知っていたと証言している[6] 。ロヤック大統領は「亡くなった祖父から聞いた」と話し、デブルム大臣は「自分の父親や、戦後に出会った日本人商社マンから教えてもらった」と話したという。ロヤック大統領が「日本の国祭日(天皇誕生日)の祝賀レセプションの席で一緒に『酋長の娘』を歌いたいがどうか?」と提案してきたため、安細は「実はこの歌の歌詞には一部好ましくない表現があり、日本国内では放送禁止となっているのです」と恐る恐る説明した。すると大統領と、その場に同席していたデブルム大統領補佐大臣の二人ともびっくりし「一部好ましくない表現とは何か?」と質問してきた。安細は後で誤解を生じないように明確に説明した方がいいと判断し「歌の題名は『酋長の娘』であり『酋長』という表現が適当かどうか問われているのです」と説明した。するとロヤック大統領は「別に悪いことはないと思う。自分は長男ではないので酋長職(マーシャル語ではIroji)を継いでいないが、長兄は今もアイリンラプラプ環礁の大酋長であるし、マーシャルでは全ての環礁に大酋長や酋長が存在していることは貴官もご存じだろう。更に、次兄はこの国の国会(the Parliament)の諮問機関である『酋長評議会』(Council of Iroji)の議長を務めている。そうした意味でも『酋長』の存在は否定できない」と言われた。仕方なく、極めて申し上げ難いことであるがと断った上で、「更に申せば、遺憾ながらこの歌の1番の歌詞には『色は黒いが南洋じゃ美人...』という部分がある。これは外見上の差別表現とも言えるので相応しくないと考える」と重ねて説明した。これに対し、ロヤックとデブルムは口を合わせて「何故に『色は黒いが...』が遺憾なのか? 我々マーシャル人はご覧のとおり確かに浅黒い肌をしている。この歌は事実を述べており、差別とは思っていないが...」と言われた。安細は返す言葉が見つからなかったという。マーシャル諸島は第一次世界大戦において日本占領した国で、安細は「そうした曲折があったにも拘わらず、マーシャルの指導層が今も日本に親しみを抱き、また、高齢者を中心に我々日本人に対して知っている日本の歌を聞かせようとしてくれる親愛の情に対し、我々としても応える必要があるのではないか」と考えさせられたという[6]

今日の扱い

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  • オリジナルのバージョンは「酋長」という言葉が放送禁止用語に該当するという理由で、今日放送されることはない[6]
  • 日本において著作権は歌詞、楽曲とも2006年 12月31日を以て消滅した。

小節の構成

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  • オリジナルは小節ごとに4拍子、4拍子、3拍子、4拍子となっている。変則な拍子に加え、合いの手が変わったタイミングで入るため、聞きなれないと非常にリズムが取りにくい。
  • 「ドリフのラバさん」では4拍子、4拍子、3拍子、3拍子にアレンジされている。
  • 火曜ワイドスペシャル版ではすべて3拍子にアレンジされ、スピーディな感じに仕上がっている。

歌詞

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  • 一、わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人
  • 二、赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る
  • 三、踊れ踊れ どぶろくのんで 明日は嬉しい 首の祭り
  • 四、昨日浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で踊る
  • 五、踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に 行くものか[2]

本楽曲が登場する作品

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 石田一松 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 飯高伸五 (2012年3月6日). "高知から南洋群島への移住者・森小弁をめぐる植民地主義的言説の批判的検討 高知県立大学紀要(文化学部)". /国文学・アーカイブズ学論文データベース. 国文学研究資料館. 2024年9月20日閲覧。
  3. ^ a b 後藤隆郎任国あんなこと!こんなこと! 「酋長の娘と戦艦大和」 (PDF) JICA派遣専門家連絡会かながわ会報第6号 2006年4月
  4. ^ a b c d "タレント議員第1号は一体だれ?ー石田一松伝". 政治ドットコム. PoliPoli (2020年12月9日). 2024年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。
  5. ^ a b 呉智英 (2020年6月26日). "放送禁止歌『酋長の娘』から考える表現の不自由問題". NEWSポストセブン . 小学館. 2021年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。呉智英 (2017年3月13日). "朝日新聞が紙面に「酋長」使用 呉智英氏は評価". NEWSポストセブン. 小学館. 2020年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。
  6. ^ a b c d e 安細和彦 (2015年12月27日). "『酋長の娘』との出会い 特別寄稿、マーシャルのストーリー". 70seeds 次の70年に何を残す?. 70seeds. 2024年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。
  7. ^ a b 中丸謙一朗 (2019年1月16日). "昭和のことば 年の初めに気分のいい"肯定"のことば オッケー(昭和5年)". ZAKZAK . 産業経済新聞社. 2021年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。
  8. ^ 松野大介 (2023年1月16日). "私の秘蔵写真 なぎら健壱さん 25周年コンサートでゲスト出演してくれた3人の恩師の教え". 日刊現代. 2023年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。
  9. ^ a b c d e 須藤直人 太平洋諸島旧植民地の比較文学比較文化研究 (PDF) 科学研究費助成事業科学研究成果報告書 2009年6月29日
  10. ^ 神立尚紀 (2024年2月13日). "「なんぼ貧乏してもついて行きますから...」戦後、また飛行機に乗りたいと言った元軍人の夫に、妻が放った「ひとこと」". 現代ビジネス . 講談社. 2024年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月20日閲覧。
  11. ^ 【うたって知る】よさこい祭り 進化するパフォーミング・アーツ2 I.自由・開放性を生み出した土佐 - よさこい文化協会
  12. ^ 丘灯至夫『歌暦五十年』全音楽譜出版社、1954年、195頁。NDLJP:1353828/126
  13. ^ 東京日日新聞』1931年1月7日(倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍(東書選書 124)、1992年、168頁。ISBN 4-487-72224-1)。

出典(リンク)

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参考文献

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関連項目

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