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大谷光瑩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(現如から転送)
大谷光瑩(現如)
嘉永5年7月27日 [1] (1852年 9月10日 [2] ) -
大正12年(1923年)2月8日 [2]
幼名 光養麿
法名 現如
愚邱
院号 荘厳光院
光瑩
尊称 現如上人
没地 東京都 千代田区 霞が関
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
大谷祖廟、北海御廟
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大谷 光瑩(おおたに こうえい)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗法名現如(げんにょ)。東本願寺第22代法主(1889-1908)[3] 真宗大谷派管長。1896年より伯爵。前法王大谷光勝の四男。

生涯

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日付は、の正確性、著作との整合を保つため、明治5年12月2日(1872年 12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年 1月1日 [2] )からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。

  • 嘉永5年(1852年)7月27日東本願寺第二十一代 嚴如(大谷光勝)の第五子(四男)として誕生。
  • 明治3年(1870年)2月10日、東本願寺が明治新政府から請け負った北海道開拓事業の責任者として、百数十名の随員を従えて北海道へ渡る。その道中は、教化をしながら工事費などの寄付を募り、また北海道への移民勧誘をおこなう。
  • 同年7月7日、函館に到着する。本願寺道路の建設など開拓を指示し、札幌へ向かい朝廷より下賜された土地を視察する。
  • 明治4年(1871年)9月、その地に布教の拠点として、その地に東本願寺管刹(寺)を建設する。
  • 明治5年(1872年)9月から翌年7月にかけて、ヨーロッパ各国を歴訪し宗教事情を視察、教団の近代化に寄与した。この時の随行員に成島柳北がいた。
  • 明治22年9月14日(1889年)父・嚴如(ごんにょ)の隠退により、第二十二代法主に就任。
    • 明治28年(1895年)4月、東本願寺両堂竣工。
  • 明治29年(1896年)6月、北海道開拓事業の功績を受け、伯爵号を授かる。
  • 明治34年(1901年)5月、遊蕩ぶりが宮武外骨の「滑稽新聞」上で風刺の対象となる[4] 。このころに馬車から落ちて頭部を打ったのが原因で脳疾を患い、気分が優れず、感情の激変を見るようになる[5]
  • 明治35年(1902年)12月、300万円を超す負債から財政を立て直すため、井上馨に財政再建を依頼(東本願寺借財整理)。
  • 明治41年(1908年)11月、第2子・彰如(大谷光演)に法主を委譲し、退隠する。院号を「荘厳光院」とする。
  • 大正12年(1923年)2月8日、東京霞が関の別邸にて示寂。享年72[6] (満70歳没)。
  • 昭和9年(1934年)札幌市の北海御廟に分骨される。

家族

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栄典・授章・授賞

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勲章・爵位

脚注

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  1. ^ 天保暦
  2. ^ a b c グレゴリオ暦
  3. ^ 正式には「本願寺」。一般には通称で「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十二代法主」と表記。
  4. ^ 赤瀬川原平、吉野孝雄編 『宮武外骨・滑稽新聞 第壹冊』 筑摩書房、1985年、66頁、ISBN 9784480355010
  5. ^ 東本願寺句仏上人 多難の法灯を継ぐ『新聞集成明治編年史. 第十三卷』林泉社 1936-1940
  6. ^ 数え年
  7. ^ 『官報』第372号「叙任」1884年9月22日。
  8. ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
  9. ^ 『官報』第2008号「叙任及辞令」1890年3月13日。
  10. ^ 『官報』第4428号「叙任及辞令」1898年4月8日。
  11. ^ 『官報』第8347号「叙任及辞令」1911年4月22日。
  12. ^ 『官報』第3883号「叙任及辞令」1896年6月10日。

関連項目

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  • 酒井米子 - 米子の娘・九条和子の父親は光瑩と言われている
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
大谷家(真宗大谷派)初代
1896年 - 1908年
次代
大谷光演

本願寺寺基の移転と分立

東西分立前
(本願寺の歴史)

大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321大谷本願寺 1321 - 1465 山科本願寺 1483 - 1532石山本願寺(大坂本願寺) 1532 - 1580鷺森本願寺 1581 - 1583貝塚本願寺 1583 - 1585天満本願寺 1585 - 1591本願寺(堀川六条) 1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立)

東西分立後
(本願寺〈西〉) → 1881 - 浄土真宗本願寺派
(本願寺〈東〉) → 1881 - 真宗大谷派
東本願寺分派後
(1881) - 真宗大谷派
1988 - 浄土真宗東本願寺派

東京本願寺1981 - 2001浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 2001 -

浄土真宗大谷本願寺派
(本願寺文化興隆財団)
本願寺(京都市右京区)

(嵯峨)本願寺 2005 -

東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条
記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。

本願寺歴代

東西分立前

(宗祖) 親鸞 - (2) 如信 - 3 覚如 - 4 善如 - 5 綽如 - 6 巧如 - 7 存如 - 8 蓮如 - 9 実如 - 10 証如 - 11 顕如 - (12→隠退) (教如) - (1603年 本願寺の東西分立)

東西分立後
西本願寺

西12 准如 - 西13 良如 - 西14 寂如 - 西15 住如 - 西16 湛如 - 西17 法如 - 西18 文如 - 西19 本如 - 西20 広如 - 西21 明如 - 西22 鏡如 - 西23 勝如 - *西24即如 - 西25大谷光淳(専如) -

東本願寺

東12 教如 - 東13 宣如 - 東14 - 東15 常如 - 東16 一如 - 東17 真如 - 東18 従如 - 東19 乗如 - 東20 達如 - 東21 嚴如 - 東22 現如 - 東23 彰如 - 東24 闡如(東本願寺分派)

東本願寺分派後
真宗本廟(東本願寺)

東25 淨如 - 東26 大谷暢裕(修如) -

浄土真宗東本願寺派本山東本願寺

東本25 興如 - 東本26大谷光見(聞如) -

­本山本願寺(浄土真宗大谷本願寺派)[1]
(嵯峨)本願寺
略称 - 「西」=本願寺派、「」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺

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