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国際劇場

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(浅草国際劇場から転送)
曖昧さ回避 この項目では、東京都にかつて存在していた劇場について説明しています。大阪府 大阪市にかつて存在していた映画館については「千日前国際劇場」を、静岡県 静岡市にかつて存在していた映画館については「若竹座」をご覧ください。
浅草国際劇場
Asakusa International Theater
浅草国際劇場(1937年)
情報
正式名称 国際劇場
完成 1937年
開館 1937年 7月3日
開館公演 松竹少女歌劇披露興行
閉館 1982年 4月5日
最終公演 松竹歌劇団豪華公演・第51回「東京踊り」
客席数 3,860席
用途 演劇、音楽公演
運営 松竹株式会社
所在地 111
東京都台東区西浅草3-17-1
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国際劇場 (こくさいげきじょう)は、かつて東京都 台東区 浅草にあった劇場である。松竹直営。松竹歌劇団の本拠地であった。

概要

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1937年(昭和12年)、幸龍寺の跡地に建設された。都内はおろか全国各地に同名の劇場・映画館が存在したため、通常は地名を冠称し「浅草国際劇場」と呼ばれた。 場内は椅子席3800、補助椅子1000。舞台の間口16間(1間は約1.8m)、高さ6間という当時としては大規模なものであった。こけら落としは同年7月3日に始まった松竹少女歌劇(SKD)公演[1]

その後もグランドレビュー(主に、四大おどりの東京踊り・春のおどり・夏のおどり・秋の踊り)と松竹映画一本の組み合わせの公演が行われた。国際劇場が出来る前までは「浅草松竹座」(1963年5月廃座)がSKDのホームグラウンドであった。 SKDのレビュー以外には、人気歌手の実演や女剣劇、喜劇などが上演された。1970年以降、ゴールデンウィークにはザ・ドリフターズの特別公演(作・演出いかりや長介)が催された。

劇場は1982年に閉鎖、その後取り壊され、跡地には浅草ビューホテルが建てられた。また、劇場前の都道462号線(一部)は現在も「国際通り」と呼ばれる[2]

沿革

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1955年(昭和30年)「東京踊り」
  • 1937年(昭和12年)7月3日、開場、杮落しは松竹少女歌劇披露興行(第8回「東京踊り」)[3]
  • 1944年(昭和19年)
  • 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により建物の一部が罹災[5] 。その後再建される。
  • 1947年(昭和22年)11月23日、松竹歌劇団公演「ラッキー・スタート」と長谷川一夫花柳小菊一座の「弁天小僧白浪狂騒曲」公演から劇場としての営業を再開[5]
  • 1952年(昭和27年)11月、運営会社である国際劇場株式会社が親会社・松竹株式会社に合併。
  • 1976年(昭和51年)2月1日、フランク・ザッパの来日公演が行われる。
  • 1981年(昭和56年)12月14日〜12月16日、12月18日、キング・クリムゾンの来日公演が行われる。
  • 1982年(昭和57年)4月5日、松竹歌劇団公演・第51回「東京踊り」をもって閉鎖。建物は翌年解体[6] [8]

諸元

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浅草国際劇場全景
『松竹百年史:本史』(1996)より
  • 建屋:地上4階地下1階建、設計は成松建築事務所
  • 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
  • 座席:3,860席(一説には4,000人〜5,000人収容。俗に「東洋一の五千人劇場」とも言われた)。3階まであった。
  • 定紋は地球。日本列島が中央に来るデザインであった。
  • 有楽町の日本劇場と同様に竣工時は誠に優れた華麗な建物であったが、東京大空襲の際に大屋根に爆弾が落ち前面の入口やガラスが吹き飛んだため、窓は鉄板で塞がれステンドグラスの扉はただのガラス戸に変えられてしまった。

エピソード

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1981年に国際劇場でデビュー公演を行った「LOUDNESS」のヴォーカル・二井原実(2010年 7月撮影)
  • 楽屋口の左手には小さなお稲荷さんが祀られていて、楽屋入りする松竹歌劇団の生徒は、必ず手を合わせてから楽屋入りする習わしになっていた。
  • 日本劇場とは違い、庶民向けの劇場。夏には浴衣姿に下駄履きの観客も見られた。また、外国人観光客も多く訪れたため、割と早い時期から英語でのアナウンスをしていた。
  • 1950年4月から1951年12月まで、4階の国際セントラル劇場(バーレスク劇場)でストリップ公演を行った[9]
  • 1957年 1月13日、歌手美空ひばりが狂信的なファンに塩酸掛けられ、顔に3週間の負傷を負った[10]
  • 1968年 3月18日に火災が発生。従業員3人が死亡している。
  • 1981年まで東京12チャンネルの「郷愁の歌まつり」の会場になったことがある。
  • NNS系列24時間テレビ 「愛は地球を救う」の会場になったことがある(1979年8月25〜26日・1980年8月30〜31日、ゴダイゴなどの夜通しの音楽ライブ)[11]
  • 1981年12月17日、日本のヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」のデビューコンサートの場として使われ、当時の音楽業界に根付いていた「日本のハードロックは売れない」と言う見方に対し、3,000枚近くあったチケットが即座に完売し、関係者を驚かせた[12] 。当時の関係者によると、キング・クリムゾンの来日公演のうち12月17日がスケジュールの都合で空いてしまった事から、当時2000人規模のデビューコンサートの場を探していたLOUDNESSにオファーが来る形となったことが明かされている[13]
  • 1983年の解体作業中、東京大空襲で歪んだ鉄骨が建物内から発見された[6] [8] 。この鉄骨は保存され、江戸東京博物館 [7] [8] や墨田区の多聞寺 [6] [8] で展示されている。
多聞寺で展示されている被災鉄骨

脚注

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  1. ^ こけら落としは松竹少女歌劇『都新聞』(昭和12年7月5日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p152-153 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 国際通り・道路WEB
  3. ^ 松竹歌劇の60年 レビューの舞台とスターたち上野のれん会
  4. ^ 東京で百五十軒が新たに開店(昭和19年2月24日 毎日新聞(東京 夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p369 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  5. ^ a b c "私の昭和史(第2部)根本圭助「忘れ得ぬ人びと人生一期一会 (5)」 - 華やかなりし国際劇場とSKD(上)". 松戸よみうり新聞. 2012年8月14日閲覧。
  6. ^ a b c d 赤羽諭 (2005年8月11日). "(戦後60年 戦跡は語る:6)浅草国際劇場の鉄骨 墨田・多聞寺 /東京都". 朝日新聞東京地方版: p. 29 
  7. ^ a b "東京大空襲66年 傷痕 街に心に今も 2時間半で10万人犠牲=東京". 読売新聞東京朝刊: p. 34. (2011年3月10日) 
  8. ^ a b c d e 植木裕香子 (2015年8月29日). "【戦後70年】浅草国際劇場のゆがんだ鉄骨 恐怖伝える戦跡、語り継ぐ". 産経新聞東京朝刊: p. 21 
  9. ^ 台東区文化財調査報告書第五集『浅草六区』(台東区教育委員会、1987年3月発行)
  10. ^ 美空ひばり公式ウエブサイト・プロフィール
  11. ^ GODIEGO UNOFFICIAL WEBSITE(2017年7月24日閲覧)
  12. ^ "LOUDNESS 浅草国際劇場登場!". 二井原実BLOG「R&R GYPSY」. エキサイト (2008年7月18日). 2016年12月15日閲覧。
  13. ^ 市民タイムス 2018年2月12日

関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、国際劇場 に関連するメディアがあります。

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