榎下城
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
榎下城 (神奈川県) | |
---|---|
榎下城遠景 榎下城遠景 | |
別名 | 久保城 |
城郭構造 | 連郭式平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 上杉憲清 |
築城年 | 永享年間か |
主な城主 | 上杉憲清、上杉憲直、後北条氏(山田右京之進?) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪 [1] 、虎口跡[2] 、空堀跡[1] (横堀が主体[3] )、土塁 [2] |
指定文化財 |
史跡未指定 (寺林は県指定天然記念物 [4] ) |
登録文化財 |
未登録 (山田右京之進城址碑は「緑区遺産」に登録[5] ) |
埋蔵文化財 包蔵地番号 |
県:緑区No.89 市:緑区No.78 |
位置 | 北緯35度31分4.84秒 東経139度31分48.59秒 / 北緯35.5180111度 東経139.5301639度 / 35.5180111; 139.5301639 座標: 北緯35度31分4.84秒 東経139度31分48.59秒 / 北緯35.5180111度 東経139.5301639度 / 35.5180111; 139.5301639 |
地図 |
榎下城の位置(神奈川県内) 榎下城 榎下城 |
テンプレートを表示 |
榎下城(えのしたじょう)または久保城(くぼじょう)は、神奈川県 横浜市 緑区 三保町 [6] にあった日本の城。上杉氏の城。現在は久保山舊城寺(旧城寺)の境内となっている[注 1] 。
概要
[編集 ]榎下城は恩田川氾濫原に面した舌状台地の先端に占地し[1] 、近辺の眺望に優れるとされる[7] 。北方低湿地との比高差は約7メートル[1] 。
宅間上杉家(上杉憲房系)の上杉憲清により永享年間(1429年-1441年)に築かれたと伝わり、永享10年(1438年)に勃発した永享の乱の際には、憲清の子憲直が足利持氏方として拠った。幕府方に攻められた憲直は榎下城から退いたが、上杉憲実方に追われ、称名寺において子の憲家と共に自害した。
戦国時代後期の後北条氏支配下の時期には、後北条被官「山田右京之進」の居城であったとする伝承があり、城西隣の畑には右京之進のものとされる五輪塔があった[7] 。
城域に佐藤小左衛門氏が隠居所を建て、更に慶長8年頃(1603年)舊城寺(旧城寺)を開基した。このため城域は境内地となり開発等の改変を受けず、前後2面の曲輪や土塁などの遺構が比較的良く保存されていることが特筆すべき点とされる[7] 。
城跡として史跡には指定されていないが、土塁上の寺林は県の天然記念物に指定されている[4] 。
また、1935年(昭和10年)に横浜貿易新報社(現・神奈川新聞)が行った県内45箇所の名勝史蹟選定事業に選定されたことを記念した「山田右京之進城址碑」があり、この碑は緑区独自の文化遺産登録制度「緑区遺産」No.15に登録されている[5] 。
なお、城名は横浜市営バス停の名称(「榎下城址裏」)として現在も残っている。
歴史・沿革
[編集 ]- 永享年間(1429年-1441年)、上杉憲清により築かれる。
- 永享10年(1438年)、永享の乱の際には、持氏方の上杉憲直が拠った。
- 後北条氏時代には、小机城の出城として利用された。
- 慶長8年頃(1603年)、佐藤氏が城域に舊城寺(旧城寺)を開基した。
- 1965年(昭和40年)とその翌年、日本城郭協会学生研究会 [注 2] によって発掘調査が行われた[12] [注 3] 。この後も数回発掘調査が行われている[3] 。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
注釈
[編集 ]出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 平井聖ほか 1980「榎下城」『日本城郭大系』第6巻(千葉・神奈川)pp.317-318 新人物往来社
- 西股総生「小机城とその支城」『中世城郭研究』第10号、中世城郭研究会、1996年、118-146頁、ISSN 0914-3203。
- 八巻孝夫「昭和四〇年代の城郭研究の流れについて(中)」『中世城郭研究』第13号、中世城郭研究会、1999年、106-126頁、ISSN 0914-3203。
- 八巻孝夫「昭和四〇年代の城郭研究の流れについて(3)」『中世城郭研究』第14号、中世城郭研究会、2000年、82-106頁、ISSN 0914-3203。
関連項目
[編集 ]外部リンク
[編集 ]- 「緑区遺産登録一覧表」横浜市公式HP
- 高野山真言宗舊城寺HP