コンテンツにスキップ
Wikipedia

小野二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"小野二郎" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2017年5月)
曖昧さ回避 この項目では、英文学者、思想家について記述しています。寿司職人の同名の人物については「小野二郎 (寿司職人)」をご覧ください。
曖昧さ回避 小野次郎」とは別人です。
小野 二郎
人物情報
生誕 (1929年08月18日) 1929年 8月18日
日本の旗 日本 東京都
死没 1982年 4月26日 (1982年04月26日)(52歳没)
出身校 東京大学
学問
研究分野 英文学
研究機関 明治大学
テンプレートを表示

小野 二郎(おの じろう、1929年 8月18日 - 1982年 4月26日)は、日本英文学者思想家

経歴

[編集 ]
出生から修学期

1929年、東京府 高円寺で生まれた。1947年、東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)を卒業。東京大学教養学部教養学科イギリス科で学び、1955年に卒業。同大学院比較文学比較文化に進み、1958年に修士課程を修了した。

出版社に勤務

卒業後は出版社の弘文堂に勤務し、谷川雁の評論集「原点が存在する」や「現代芸術論叢書」シリーズを企画、刊行。また同社から、師である島田謹二の『ロシヤにおける広瀬武夫』を刊行した。

1960年、中村勝哉と共に晶文社を設立し、のち編集顧問。弘文堂を退職し、東海大学 専任講師となった。1962年、武井昭夫の推薦で新日本文学会に入会。1963年、明治大学 政治経済学部専任講師に就いた。1964年に助教授昇格、1967年には文学部助教授に転じた。

1970年、「新日本文学」編集長となった。1971年、明治大学文学部 教授に昇格。ウィリアム・モリスなどイギリス工芸運動の思想家たちに学びながら、大衆芸術運動の実践を通じた社会変革の実現を構想した。モノとしての書物についての独創的な分析や、イギリスの生活文化の紹介などの著作を手掛け、多くの読者をもった。1982年、心筋梗塞で急逝。

死去後の回顧展

[編集 ]

2019年4月27日から6月23日まで、世田谷美術館 [1] で、展覧会「ある編集者のユートピア 小野二郎:ウィリアム・モリス、晶文社、高山建築学校」が開催された。

家族・親族

[編集 ]
  • 夫人:小野悦子はイギリス美術研究者。モリスなどの訳書がある。
  • 義弟:高平哲郎放送作家・評論家。妻の弟にあたる。

著作

[編集 ]
著書
  • ユートピアの論理』晶文社 1969
  • 『運動としてのユートピア』晶文社 1973
  • ウィリアム・モリス - ラディカル・デザインの思想』中公新書 1973
  • 『装飾芸術 - ウィリアム・モリスとその周辺』青土社 1979
  • 『紅茶を受皿で - イギリス民衆芸術覚書』晶文社 1981
  • 『ユートピアンの発語訓練』晶文社 1981
上述の『ユートピアの論理』『運動としてのユートピア』『装飾芸術』から抜粋
  • ベーコン・エッグの背景』晶文社、犀の本 1983
  • 『大きな顔 - 小野二郎の人と仕事』晶文社 1983[3]
    • 再版 1986
著作集
  1. 『ウィリアム・モリス研究』
  2. 『書物の宇宙』
  3. 『ユートピアの構想』
訳書

脚注

[編集 ]
  1. ^ 当時の館長は酒井忠康
  2. ^ 夫人の小野悦子が解説を寄せている。
  3. ^ 回想文集(非売品)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /